はじめに
今や世界はグローバル化の時代を迎え、それとともに新たな人権問題に直面しています。今日はそれらの問題を自治体と企業の役割という観点から、これまでのアメリカやヨーロッパでの経験を参考にしながら議論いたします。
差別の問題
まず、差別とマイノリティの権利問題は日本やアメリカだけではなく世界的な問題です。例えばコソボでは痛ましい民族浄化が行われ、アルバニアでは単に言語が違うだけで虐待が行われました。アメリカでは「すべての人間は平等につくられている」という独立宣言に謳われた言葉とは対照的に、深刻な差別が存在してきました。第二次世界大戦中には多くの日系アメリカ人が強制的に収容されました。この強制収容に対してアメリカ議会は後に、大変時間がかかったものの、正式謝罪をしています。
米国議会が、法の支配の下、人権侵害救済のために積極的な措置をとったことを私は誇りに思います。なぜなら、ヨーロッパの経験が示すように、過去の人権侵害の過ちを認め、国の汚点を浄化させた国家ほど、その後の未来は明るくなることを私は知っているからです。
過去に与えた被害を認めることは、健全で人権を尊重する社会作りに繋がります。しかし、そのような過ちを認めようとしない国家が世界中に多く存在していることも事実です。
希望は「法の支配」にある
では希望はどこにあるのでしょう?それは法の支配にあるといえます。現在192カ国が集まる国連には国連憲章という法律があります。国連加盟国は憲章が規定する人権条項を、「選択」ではなく「義務」として保障しなければならないという認識が必要です。
しかし一方で、世界人権宣言は西洋の価値観を反映したものであり、西洋以外の文化圏にある人々の意思や国家の方針とは調和しないという批判も繰り返し行われてきました。国際法を理解している人ならば、この宣言が多様な思想を反映していると理解できるでしょう。そのことを世界的に確認したのは、1993年にウィーンで開かれた世界人権会議でした。そこで人権の普遍性と、世界人権宣言は「国家が義務として実現していかなければならない人権の重要な指針である」ことが世界的に確認されたのです。
新たな課題
しかし現在、私たちは新たな問題に直面しています。これまで私たちは国際人権法の最も主要な目的として、国家に対して人間の尊厳と人権を守るよう求めてきました。しかし、もはや国家は権力を独占しておらず、世界規模の多国籍企業が大きな権力を持つようになってしまっています。つまり国家による人権侵害だけではなく、利益追求のための企業による経済的、社会的および文化的権利の侵害とも闘っていかなければならないのです。
もちろん、国家以外による人権侵害の例は他にもあります。例えば女性への暴力です。世界中で多くの女性がこの暴力の犠牲となっています。こうした人権侵害の主体者は多くの場合国家ではなく、個人対個人のレベルで起きた人権侵害です。しかしこれに対しても国際法で適切に対応しようという認識が世界的に広まりつつあります。そうした認識を反映して、米州機構は女性に対する暴力撤廃条約を採択しました。この条約では女性に対する暴力を防止することを締約国に義務づけており、国家がそれを行わない場合は条約に違反したとみなされます。
では企業が人権を守らなかった場合はどうなるのでしょうか?理論上は、国家が企業に対して法人格を認めているのだから、そういった企業が人権法に違反した場合、国家にも責任があるといえるでしょう。しかし現実には経済のグローバル化に伴い、企業は国家の監督範囲を超えたところに活動を広げているため、国家の人権保護の任務は企業の意思決定機関に及ばなくなっています。
従って、今日私たちが新たに直面している課題は、このような世界規模の企業の活動を、いかにして世界人権宣言の精神に沿わせるようにするかということです。確かに、経済のグローバル化は雇用の創出等の利益をもたらしていますが、国連ミレニウム宣言が警告しているように、「我々が直面する主たる課題はグローバリゼーションが世界のすべての人々にとって前向きの力となることを確保する」ことであり、そのための努力が必要となっています。
市民・NGOへの期待
この点において、NGOの活躍が期待されるでしょう。例えば先日、ニューヨークのディズニーショップの前でNGOが商品不買を訴えてピケを張っていました。彼らは、ディズニーが低賃金で労働者に商品を作らせたうえに、それら労働者の権利を認めなかったために、そうした活動を行いました。実際この運動によってショップの売上げは大きく下がったと言われています。
今日の消費者は、かつて国家による人権侵害に対して向けられた非難と不名誉のレッテルを、多国籍企業に貼ることができます。世界市場において、人権侵害者のレッテルは企業の業績に重大な影響を及ぼすのです。またアメリカでは、企業や従業員による人権侵害によって生じる壊滅的な訴訟を回避するために、その防止に取り組んでいる企業も増えています。こういった観点も含め、企業が良き地球市民に変わるような活動が求められているのです。
一方で、ビルゲイツ財団等の大企業による世界的な貢献も忘れてはいけません。彼らの援助はどの政府にもできない大きな成果を生み出しています。単に企業を批判するだけでなく、民間セクターのこのような肯定的な側面も合わせて注目する必要があると思います。
企業への期待
国連は2003年人権小委員会で企業に対する規範を採択しています。この規範に法的拘束力はありませんが、企業が人権責任を果たすために取り組んでいかなければならない規定が記されています。具体的な内容は:a.人権の尊重と保護に対する全般的な義務、b.平等な機会への権利と差別のない処遇、c.人々の安全に対する権利、d.労働者の権利、e.国家主権と人権の尊重、f.消費者保護に関する義務、g.環境保護に関する義務、という私たちの未来に対する課題であって、今後企業に対してこのモデルに従うよう主張していかなければなりません。
さらに、この規範に類似した10の原則からなる非公式な基準があります。それはグローバルコンパクトであり、日本を含む100数カ国以上の国から2,900社もの企業が参加しています。このグローバルコンパクトを批判的に見ているNGOもあるようですが、参加企業の67%が自社の方針をグローバルコンパクトの原則に沿うよう変更したという調査結果が出ています。現時点ではこの取り組みが成功したかどうかは判断できませんが、このような取り組みを通じて、企業に世界人権宣言の精神を守るよう求め続けていくことが重要であることは間違いありません。
自治体への期待
世界人権宣言大阪連絡会議が自治体と良好なパートナー関係を結んでいるのはとても素晴らしいことです。アメリカでは自治体とNGOの間に大きな壁があり、そうした関係を結ぶことは容易ではありません。アメリカの自治体は税収の多くを自治体の重要な仕事である「教育」と「警察」に費やしています。往々にしてアメリカの警察は人権を守っていませんが、警察署長は市民の投票で決められるため、これが警察の人権侵害を抑制する一つの作用となっています。また直接市民が署長を選べないような大都市では、その任命権を持つ市長の選挙で、警察による人権侵害を投票の判断材料の一つにできます。
合衆国最高裁判所判事の「政府は影響力のある教師である。良きにつけ悪しきにつけ、政府は全住民にお手本を示している」という言葉にもあるように、私たちは企業と同様に自治体にも人権の価値を尊重するよう期待したいです。
また教育についても学校管理者を選挙で選ぶことができます。アメリカでは全土にわたり標準的な教育の提供が義務づけられていますが、実際それをどのように提供するかはそれぞれの学校に委ねられています。従って、学校管理者を選ぶことで私たちは教育を選ぶことができるのです。しかし、それが人権教育にとって結果的にマイナスになっている側面もあります。なぜなら、人権教育の重要性が彼らに十分理解されていないからです。そのため私たちは学校管理者や教員に対して人権教育を行うように働きかけており、初等教育からビジネススクールに至るまで、あらゆる教育の機会において人権が教えられるべきだと訴えています。
人権価値の普遍化を
国際文書に書かれている人権価値はあらゆるレベルに届かなくてはなりません。またその適用は私たちの日々の生活に届かなくてはなりません。中央政府の権力の下に生活している人々、地方自治体に統治されていて、非政府の主体に生活の糧を頼っている人々は、自分たちの権利があらゆるレベルで守られていることを保障されなくてはなりません。国家機関の中であれ外であれ、いかなる影響力あるいは権力の行使が個人の上に行われても、私たちは人権は単なる絵に描いた餅ではないこと、それは私たちが必ず到達しなくてはならない現実であることを心に留めておかなくてはなりません。その上で、経済のグローバル化の前に、法の支配のもと、世界人権宣言の価値のグローバル化を実現していくことが必要です。