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2007.12.7
講座・講演録
●第288回国際人権規約連続学習会

新しい政局と日本の人権政策の展望
―日本の人権法制度確立の視点より―

江橋 崇(法政大学教授)


安倍前首相の憲法改正路線の破綻

 2007年7月の参議院選挙はとても大きな成果をもたらしました。野党の勝利により、少なくとも今後6年間、実質的には9年間は自公両党による参議院の多数与党の形成が不可能になり、憲法改正案の発議に必要な三分の二の多数の確保等は夢のまた夢となったのです。

 安倍晋三前首相は昨年の国会で形成されてきた「自公民の協力と合意で国民投票法を作り上げ、それを来るべき憲法改正手続きのモデルにする」という加憲も含めた国民合意型の路線を無理やりに否定し、あえて与野党激突型の改憲路線を提起しました。これによって国民投票法案処理の最終局面では小沢一郎民主党党首のほうが妥協を拒んで激突を選び、その結果、選挙では安倍前首相が民意による圧倒的な批判を受けたのです。祖父・岸信介元首相以来の岸家の野望を愚かな孫が台無しにし、修復が不可能なほどに壊してしまったといえます。

 恐らく次の衆議院選挙が終わって政局が落ち着けば、護憲ではなく加憲も含めた国民合意型の改憲の方向で議論が進んでいくことになるでしょう。しかしその前に今の臨時国会で衆参両院に設置される憲法審査会の最初の課題は、7割程度しか完成していない状態で強行採決された、現在の国民投票法の見直しです。特に参議院の議決についている18の附帯決議をどう法制化するのかが決まらないと、憲法審査会の具体的な発足ができません。具体的な審議の形としては、まず両院の議院運営委員会において各院の憲法審査会の発足と運営に必要な憲法審査会規則の検討が始まり、国民投票法の手直し、そして国民合意型の憲法改正手続きへと進んでいくことになるでしょう。

日本の二院制の特徴

 これからは衆議院と参議院の意思の不一致という調整困難な事態が国会運営の通奏低音になります。なぜなら日本国憲法の規定する国会は衆議院の優越を基礎とした議会制であるといわれてきましたが、実際は第二院(参議院)が極めて強力で、世界に例の無いような議会制になっているからです。

 もともと憲法の制定時にGHQ草案は一院制の議会としていました。GHQ側は日本政府からの修正要望を予想していて、これを認めるつもりでした。一方、一院制に仰天した幣原喜重郎首相(当時)や松本烝治憲法問題担当大臣は、閣議にも諮らない早い段階で、超極秘裏に日米交渉で二院制への復帰を提案しました。するとその場でGHQは第二院を貴族院ではなく、全国民を代表する参議院にせよという条件を出し、日本政府はこれをまるまる呑んだ上で修正案を提案したのです。これがGHQに受け入れられて国会の構成が決まりました。しかし、その際、衆参両院の関係をどう規定するのか、衆議院の優越性を確保するにはどういう条文にすれば良いのか等は具体的には検討されなかったのです。

 その結果、日本の国会は衆参両院とも「全国民を代表する」(憲法第四三条第一項)議員によって構成され、現在の公職選挙法では同じような選挙の方式で選出されています。これは諸外国と比べてもとても珍しい議会制であり、それを規定した憲法も珍しい憲法といえるでしょう。

日本の議会制の大きな変化

 こうした日本側の思慮の浅さが欠陥を内包させながらも、1947年の日本国憲法施行から約10年間は参議院には緑風会という独自な会派もあって、政党の対立から一定程度離れた運営がなされていました。その後、いわゆる1955年体制になると衆議院における自民党と社会党の二大政党の対立が参議院も支配して、衆議院の議決と同じ議決が繰り返され、参議院軽視の時期が続きました。その間、社会党から民社党分裂や共産党と公明党の議員増もありましたが、二大政党制ならぬ一・五大政党制と呼ばれる基調に変化はなかったのです。

 それが根本的に覆ったのが「マドンナ旋風」や「山が動いた選挙」といわれる1989年の参議院選挙での野党の大勝利でした。野党が過半数を握るという事態になると、衆議院の参議院に対する優越性は非常に弱いものでしかなく、しかも参議院は3年ごとの半数改選で解散制度もないことから、安定した政権運営のためには参議院での安定多数の回復が不可欠であることが明らかになりました。そのため自民党は衆議院で多数であっても、参議院での多数与党の形成のために連立政権にしなければならなかったのです。

 つまりそれまで内包されていた欠陥は1989年の選挙の結果、与野党逆転によって爆発的に表面化し、さらに今回の選挙の結果、実質的に議会が2つ存在するかのような、日本の議会制の歴史に修復不可能な変質をもたらしたのです。

 また日本国憲法には衆参両院の間で権限に関するトラブルが生じたときに、両者の訴えを受けてそれを裁定する、上位の国家機関が存在しません。諸外国では最高位の国家機関、つまり元首あるいは最高位の裁判所がこういう調停を行うのですが、日本国憲法では国会が最高機関であり(憲法第四一条)、こういう調整、調停に関する規定はないのです。従って一方の院から議会の運営について異議が申し立てられた場合は、それがどんなにわがままな難癖であっても退けることはできません。両院の協議、妥協によって合意形成を計ることになります。

 このようなねじれ状態が今後は常態化するわけですから、日本の議会制は大きく変わることになるでしょう。これによって国政調査権や人事等で混乱も予測されますが、逆に廃案になった人権擁護法案をもっと強化して、参議院から議員立法で通過させれば成立する可能性も強くなるのではないでしょうか。

法案成立における二院の関係

 一部には、政府与党は衆議院で圧倒的に多数の会派なのだから、参議院が否決した法律案も衆議院の三分の二の特別多数決で再可決することで参議院の抵抗を押し切って法律にできる(憲法第五九条第二項)という意見もあります。しかしこれはいわば非常時の例外的な権限であって、衆議院の参議院に対する強行採決のようなものです。

 例えばテロ特措法延長に関して、参議院がそれはアメリカの戦争への加担であって、日本の国益を根本的に破壊するとして否決したときに、衆議院がそのような参議院の意向を無視して再可決する動きを示せば、参議院は当然反発し、場合によっては多数の参議院議員が衆議院の本会議場に押しかけて、採決を妨害するために議長席を占拠するという、大昔の乱闘国会のような事態も予想できるはずです。ですからどんなに衆議院で優勢な政府与党でも、この再可決の権限は一度か二度は無理に実行できても、三度は使えません。中曽根康弘元首相は、これはテロ特措法程度の法案では使うべきでなく、内閣の命運を決める重大な問題に限るべきで、しかもこれは衆議院の解散を招く可能性があると指摘しています。さすがに老練な政治家で、状況の認識はリアルです。更に付け加えると、この再可決という衆議院優位の「切り札」を政府与党が使える機会は、衆議院の総選挙が近々あると予想されている中、ほとんどないともいます。

 これまで伝家の宝刀のように考えられていた再可決も、状況によっては使い物になりません。これも首相指名や予算決定に対する衆議院の優越性と、法案成立に対する衆議院の優越性にズレを生み出している日本国憲法の立法技術的な欠陥の現われなのです。

55年体制から2007年体制へ

 現在の国会は55年体制が崩壊して、2007年体制という新しい時代を迎えようとしています。今後、政府与党は政権の危機を回避しようと、かつて男女共同参画基本法が制定されたときのように、野党に大幅に譲歩して、民主党が法案を出せば通る状況にもなるでしょう。また自分たちの権力の維持に差し支えない限り、野党や市民運動、当事者団体の主張を認めて政策に加えることになるでしょうし、参議院選挙前は考えられなかったような野党やNGOに好意的な施策が提案されるかもしれません。

 新しい施策や立法が、市民が主張してきた平和と人権の実現に役立ち、日本国憲法の理念の実現に役立つのであればそれに賛成しても良いのですが、同時に過去の失敗も忘れてはなりません。それはかつて1990年代に自民党の単独支配の構図が崩れたときに生じた、政府の審議会等に取り込まれたNGOの代表者の姿です。残念ながら市民運動の成果を政府の方針に入れるという美名のままに、与えられた末端の小さな権力の地位に浮かれて、評論家的な大所高所からの発言になった者が多かったのです。結局のところNGOの代表者たちは政府の新方針であれ、新規の立法であれ、官僚の作成したデータに基づいて考え出したものに賛成していきました。

 同じことが野党にも起こりました。当時の細川護煕政権は自民党政権を倒しましたが官僚主義は壊せませんでした。そのため自民党を捨てて細川へ移った官僚の手のひらで踊らされ、結果的にはまた自民党政権に戻ってしまったという経緯があります。

 せっかく訪れたチャンスなのだからそのような失敗を繰り返さずに、NGOと与野党が、官僚の仲介抜きで、直接政策協議をするテーブルを用意して、民の知恵を官へ流し、同時に官から民へ還流させる流れを築くことが必要です。また首相補佐官というポストができたことで官邸にも少しずつ民の空気が入りつつありますが、議会議長室や議院運営委員長室も含めて官僚に支配されているところへ民の空気を送り込んで、民の声を聞ける状況をさらに作っていくことも大切でしょう。そうすることによって、以前なら夢のように思われていた人権政策も実現することができるのです。

地方自治体の変化

 もう一つ注目すべきは、国政の変化に伴って地方自治体も変わるということです。なぜなら今回の政局の変動には、もう一つ統一地方選挙における与野党の激突があるからです。周知のように小沢民主党の方針で全与党的な選挙は激減し、地方・草の根における与野党の激突になりました。その結果、首長部局に対する議会の独立性が増し、自主立法の可能性が出てきました。

 行政の非効率化と多くの腐敗を生んだ、これまでの全与党体制から脱却し、政権交代する地方自治体や、首長と対等に渡り合えるように改革された議会がもたらす効果は、昨今の東国原英夫知事の登場だけで宮崎県が活性化されたことからも分かるでしょう。国政に比べれば今回の統一地方選挙が地方にもたらした影響は小さいのですが、少なくとも変革の足がかりにはなったはずです。

 今後は自治体においても人権条例等の立法化や、人権計画の推進が期待できます。そのためにこれからも地域で頑張っている議員等と協力して、条例政策を基本に据えた人権政策の推進、そしてそこからつながる人権擁護法案の実現を地域から目指していくことが重要だと思います。

東アジアにおける2007年体制

 最後に国際情勢、特に東アジアにおける2007年体制について触れておきます。日本にとってはこちらの方が深刻であるかもしれません。

 周知の通り、現在6カ国会議を中心に北朝鮮の核問題や米朝国交回復問題等が議論されています。日本にとっては不満の残る結果になるでしょうが、これらの問題は恐らく来年の春までには処理され、平壌での6カ国首脳サミットや朝鮮戦争講和条約調印等というクライマックスを経て、朝鮮半島は一気に平和化の方向に進むと見込まれています。

 このような東アジアのデタントに対して日本の立場はどうだったかというと、私は拉致問題にこだわり過ぎた「拉致敗戦」だったと認識しています。その結果、現在日本の外交は惨憺たるもので、6カ国からも外されかねない状況になっています。東アジアデタントは大いに歓迎すべきもので、拉致問題解決を前提とした日朝平和条約制定がなければ北朝鮮に対する支援は行わないとする現在の日本の外交政策は間違いです。デタントによって生じる東アジア地域の平和的な関係に対して日本にはもっとポジティブな外交が必要だと思います。

自治体・NGO・企業と東アジアの平和構築

 東欧で鉄のカーテンが外されて東西の融合が実現した際に、国家が果たした役割は決して大きくなく、実際に多くの問題を解決したのは西欧の自治体やNGOでした。その例から考えると、北朝鮮が開かれたときに多くの難民が押し寄せるという状況を回避するためには、東アジアの自治体やNGO、あるいは企業の北朝鮮に対する支援が最も重要になってくるでしょう。

 つまり日本の東アジアに対する外交の主役は自治体とNGOと企業です。日本政府はこれまでのODAで見られたような自己主張は控えるべきです。自治体やNGOが現地で支援活動する際、日本政府は現地で日の丸を見せるのではなく、例えば国連の人間安全保障基金等を通じて活動を財政支援する等といったワンクッションおいた北朝鮮支援を東アジアの平和のために行うべきです。

 また企業は国連のグローバルコンパクトをしっかりと経営原則に取り入れて、北朝鮮と関わって貰いたいと思います。そうすることで労働者や消費者の人権を守るための最低限のモラルスタンダードを東アジアデタントの中で築いていって貰いたいと思います。

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