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2008.01.10
講座・講演録
部落解放・人権入門2007
第37回部落解放・人権夏期講座(2006年8月23日-25日) より

学校選択制がもたらす新たな課題
子どもたちの社会権を考える

野口克海 (園田学園女子大学教授)


 学校選択制とは

 今の日本の教育がどうなっているのか、これからどうなっていくのかということについて、基礎的なところから一緒に考えていきたいと思います。

 今年のはじめに、朝日新聞から「今、日本中で、東京を中心として400近くの公立の小中学校で、学校選択制が広がってきている。政府もこれを広げるよう強く指導している。これについて意見をまとめて、記事を書いてくれ」と依頼を受けました。

 一般的に日本の義務教育というのは、自分の住んでいる住所で、ここに住んでいる子はこの学校に行きなさいというように、公立の小学校中学校については指定されています。学区外のところにはよほどの事情がないかぎり行けない。それがこれまでの日本の義務教育でした。

 ところが、学校選択制とは、たとえば品川区に住んでいたら、地元の小学校があまりよいと思えないから、子どもはもうちょっといい学校へ行かせたいという親の希望で、品川区内であれば、どの小学校へ子どもを行かしてもいいですよ、というものです。一番初めは東京都品川区で、政府の後押しもあって、現在は400近くの市町村、日本中へどんどん拡大されていっています。そのことについて、朝日新聞に私が書いた記事「学校選択制-子どもの『社会権』重視して」(2006年3月4日付)を読みます。

 

 学区を越えて通う小中学校を子どもや親が選べる学校選択制について、「骨太の方針2005」(2005年6月閣議決定)や規制改革・民間開放推進会議の最終答申(同12月)は積極的な推進を図っている。この影響は次第に強まり、東京を中心に何らかの形で学校選択制を実施・検討中の自治体は370以上、全国の約15%にも達している。

 確かに学校選択制が保護者や児童生徒の満足度を高め、学校が競争して特色づくりを進めることで教育の質の向上が図られる場合もあるだろう。選択と競争と自己責任。規制緩和の方向で今日の改革が進められている状況からいえば、教育の分野でもその流れが拡大するのは避けられないかもしれない。

 しかし、私はこれに対して、3つの危惧(きぐ)を抱いている。

 第一は、地域生活圏の分断が進み、地域社会の活力が低下する危険性である。

 都市化などに伴い、地域の教育力が落ちてきたと指摘される。いじめや問題行動のない、安心して任せられる学校づくりには保護者や地域の協力が不可欠だ。それなのに地元の学校を見捨てて別の学校へ行く子どもが増えれば(隣の家の子と別々の学校に行くというような状態が増えれば)、地域づくりは難しくなるだろう。加えて現在、登下校途中の(誘拐などの)子どもたちが巻き込まれる事件事故が多発している。PTAや地域の自治会、ボランティアが学校と一緒になって子どもの安全を守る活動を行っているが、こうした取り組みにも水を差しかねない。

 第二は、義務教育の学校に評判の「いい学校」と「悪い学校」という序列を生み、子どもの世界に優越感や劣等感を持ち込む危険性である。

 一人親家庭や共働き家庭、経済的に恵まれない家庭の子どもは、遠くに「いい学校」があっても送り迎えしてもらえず、地元の学校に行かざるを得ない。小中学校の段階で「勝ち組」と「負け組」をつくってしまっていいのか。どこに行くかの選択権を行使できるのは恵まれた子どもだけというのでは、「弱者」に視点が当たっていない制度と言えるのではないか。

 

 今年(2006年)の1月3日付朝日新聞の記事に「公立小中の文具代や給食費」「就学援助 4年で4割増」。この4年というのは小泉内閣になってからですが、給食代を払えない子どもが四割増えた。しんどい家庭の子どもが増加してきているという現実ですね。大阪や東京では、4人に1人の子は、給食代を払えない状態で公立の小中学校へ通っています。一番トップの東京都足立区は、42.5%の就学援助の受給率。クラスの半分近く、給食代を払えない子どもがいます。大阪でも市町村によっては、給食代を払えない子が学級の半分を超えているという学校もそう珍しくありません。そんな現状が一方であるのです。

 それぐらいに今日、公立の学校現場では、非常にしんどい家庭環境の子どもが増えていっている。そんな中で、どうぞ好きな学校へ行きなさい、学校同士も競争しなさい、という選択と競争が進みますと、毎日自家用車で送り迎えしてもらえるような家の子は選択できますけど、ひとり親家庭や、共働き家庭や、生活保護家庭や、要するに弱者には選択権が行使できないじゃありませんか。

 そういう意味で、この学校選択制に対する危惧、心配の二点目として、私は、弱者に視点のあたっていない制度になりませんか、弱い者を切り捨ててしまう方向に、この学校選択制はつながりませんか、と考えています。

 社会権としての義務教育の保障を

 第三は、義務教育の根幹が揺らぐことになるという危倶である。

 教育の基礎的部分を担う義務教育は、すべての子どもに読み書き・計算などの基礎学力や、道徳や社会性などの「生きる力」を共通して身につけさせる基本的人権として制度化されてきたものだ。

 つまり、義務教育は「自由権」ではなく、すべての子どもは健康で文化的な最低限度の生きる力を保障されるという「社会権」として位置づけられるべきものである。障害を持つ子もそうでない子も、共に学び合う共生の場。それが義務教育であるはずだ。

 義務教育で切り捨てを行ってはならない。すべての子どもたちに最低限度の生きる力を保障する。全員のどんな弱い立場の子どもにも、最低限の教育は、義務教育として国が保障しなければならない。こういう本来の、義務教育が持っている基本的な性格が、この学校選択制によって、揺らいでしまうことになりませんか、という、この3つの危倶を書きました。

 最後にちょっとつけたしたのは、 

 ただそうは言っても、道路ひとつ隔てて学校があるのに、遠くの自校区の学校に通わなければならないケースや、いじめなどの諸般の事情で校区外の学校に通うほうが望ましいケースはあるだろう(小学校時代にいじめられていた子どもが、また同じ地元の公立中学校に行く、どうしても子ども同士の人間関係の改善が困難、隣の中学校に変えてやるというケースもあるでしょう)。それらについては弾力的・機能的に対応するのが望ましい。

 いま求められているのは保護者や地域に愛され、信頼される学校だ。そのためにも学校選択制の検討にあたっては、子どもたちの「社会権」をいかに保障するかの観点から判断されるべきである。

 こういうふうに書きながら、私は、保護者の素朴な気持ちとして、自分の子どもは少しでも落ち着いてしっかり熱心に教えてくれる先生のいる学校に、いじめられることもなく安心して任せられる学校に行かせたいというのは、保護者の願いで、私は当たり前のことだと思っています。

 それぞれの地元の公立の小中学校で、そんな当たり前の願いを、現実には、その希望どおりではない、荒れている学校もあることは事実です。

 それは、PTAや地域の人の力だけじゃなしに、教育委員会も、力のある教師、場合によっては加配の教貞を入れて、そういう荒れている学校は立て直して、ちゃんと地元の保護者の期待に応えられるような学校に変えていくのが、教育行政の仕事です。

 荒れた学校だからといって、選択を自由にしてしまえば、地域はますます滅んでいくし、弱者はどんどん切り捨てられていくし、「勝ち組」と「負け組」という二極化がますます進んでいく。

 現実に本当に素朴な保護者の願いに応え切れていない学校もあることをわかりながら、それは、地域や保護者や教育委員会、先生たちみんな一緒になって、信頼される学校づくりを必死に進めていかなければいけない、というのが、この朝日新聞に書いた私の趣旨です。

 欧米で失敗している学校選択制度

 そして、3月4日付で朝日新聞にこの記事が載ってすぐに、「ヘラルド・トリビューン」というアメリカの新聞から、この記事を転載させてくれという依頼があり、3月16日付で載りました。なぜアメリカで転載させてくれと言ってきたのか。

 実はアメリカとかイギリスとか欧米諸国は、こういう学校選択制を、すでに現実に、十数年やってきているんです。その結果どうなってきたかというと、私立の一人勝ちになり、公立学校がますますしんどくなり、いっそう地域が滅んできて、私が危惧しているようなこの記事が、ある意味ぴったり当てはまるということなのです。

 イギリスは小学校に入る前の子どもに、「バウチャー制度」といって、切符を配ります。「うちはここへ子どもを行かせます」と、その切符を自分の子どもを行かせたい学校に届けるということを、イギリスの公立の小中学校はやってるんですね。イギリスと日本の根本的な違いは、学校は勉強を教える所、しつけは教会や家庭で、というふうに分業が明確になっているところです。あなたは学校の勉強についていけるだけのしっけができていない、学校の勉強をするという態勢が不十分であるから、学校から追放します。そういって年間10万人ぐらいの子どもは、学校から追放されています。これが今日の欧米諸国の義務教育の実態なんですね。日本はそれを追いかけようとしているんです。

 欧米が、すべての子どもの「生きる力」を、最低限の基礎基本を、きちっと小中学校の教育でやっていかないと、追放したり切り捨てたりしてたのでは、将来の、労働力も含めて根幹に関わる問題だということで、学校選択制を見直しつつあるときに、日本は一周遅れで、欧米の学校選択制を導入しているのです。

 

 私たちの意識の変化 

 欧米の教育改革の本を読んでいると、学力の問題はいっぱい出ていますが、「集団づくり」「仲間づくり」というのは出てきません。価値観・生活様式の違いというか、欧米など個人主義の国では、仲間づくりとか地域で子育てという発想がないのです。文化の違いと思うのですけれど、それを日本の教育改革は追いかけようとしています。

 しかし、それが受け入れられるだけの土壌が、今日の日本の社会に生まれてきていませんか。地方へ行ったら別ですが、とくに東京や大阪などの大都市圏においては、そういう学校選択制はよいことだというような、受け入れられやすい土壌が、文化としても、人びとの心の中にも、入り込んでいます。「そんなん人のこと考えている時代とちがう。自分の子どもをちょっとでもいい学校へ行かしたいのに、何が悪いねん」と。地域という概念は薄れ、そして仲間づくりという概念も薄れ、「大切なのは私」というような、私たちの中での社会意識の変化が、世代間差をみても、わかりますね。

 「教育勅語」の子ども観と「教育基本法」の子ども観の違い


 昨日(2006年8月23日)の新聞の朝刊に「次の内閣ではバウチャー制度を導入する、教育基本法を改正する、次の内閣は教育改革内閣だ」という安倍官房長官の言葉が書いてありました。「今の子どもたちには『公(こう)』という概念が欠落しており、愛国心というものを軸にした教育基本法に改正する」と安倍官房長官が言っています。

 私は、教育基本法「改正」で何を心配してるかというと、「子ども観」の違いというところです。明治時代にできた教育勅語に示された子ども観というのは、特定のイデオロギーを子どもにしっかり注入する。だから子どもはしもべとして「公」の立場を尊重する良い子に育ってほしい、というものでした。しかし、教育基本法では「個人の尊厳」という言葉が明確に書かれています。教師の家来やしもべではありません。すなわち、子どもは学校をよくしていくための教師のパートナーであり、教師は子どもたちの意見をしっかり聴きながら学校をよくしていくのです。

 国連の「子どもの権利条約」というのがあります。日本も調印しています。この権利条約には「子どもの意見表明権」「子どもの参画権」というものがあります。一つの独立した人格として尊重し、学校経営への参画権も、子どもの権利条約は認めているわけです。

 この間、私が校長をしている高校で、先生が「修学旅行、カナダに決めました」と職員会議で報告していたから、「ちょっと待って。生徒に相談したか」「いえ、生徒の意見は聞いていません」「なんでや、修学旅行は生徒が行くんやろ、生徒の意見も開かずに行き先やらを勝手に決めるって、おしつけの子ども観で教育してるんか。生徒は家来とちがう、パートナーでしょう」。ぼくは教科書採択会議のときも生徒の代表を入れて、「私たちはこの教科書が使いたいです」と生徒の意見をどんどん表明させるつもりです。

 教育基本法と教育勅語の子ども観の違いっていうのはそういうところにあると思うんです。けど、今「改正」されようとしている教育基本法というのは、もう一度、個人よりも公を優先しようとしているところが、恐ろしいんですよ。世のため人のため、社会に役立つ優秀な社会人を育てる、国家に役立つ優位な人材を育成するということが、教育の目的の一番に置かれるというところが恐ろしいんです。個人と国家、どっちが先と言ったときに、個人が後回しになるというような教育基本法に「改正」されようとしているのが一番心配しているところです。

 国というものは、土地と人民と統治機構の3つがあってできていると私は考えています。私は、自分の育った土地や人びとが大好きです。これは自然の情です。統治機構については、民主主義の国だし、いろいろイデオロギーは、ひとそれぞれあっていい、分かれてもいい。三つとも全部なければ愛国心がないと言われるんであれば、それはおかしいというふうに、思っているのです。

 

 文部科学省が進める今日の教育改革 

 続いて、文部科学省が進める今日の教育改革ってどんなんかということについて説明します。現在の中教審答申でどのようなことがいわれているか。

 

 「義務教育の構造改革」 

 「義務教育の構造改革」として、「確実な基盤整備/国の責任によるインプットを土台に」→「分権改革/市町村や学校がプロセスを担う」→「結果を検証/国の責任によるアウトカムの検証」とあります。要するに入り口の、インプットのところ、国の基準である学習指導要領や教員養成、財源の保障などは国がやり、真ん中は地方分権で、そして出口で、ちゃんとやっているかどうかは文部科学省が学力調査や学校評価を導入してチェックする、というのが今日の中教審の提案しているものです。

 「義務教育の費用負担の在り方」

 また、義務教育費の国庫負担制度について。

 小中学校の先生は約70万人いますが、現行制度では、この給料の2分の1は都道府県が持ち、2分の1は国が持っています。これを義務教育費の国庫負担制度といいます。これ、とても大事なんです。小中学校の先生の給料の半分を国が持ってくれて、そして半分を都道府県が持ってくれるから、弱小の山間僻地(へきち)の村であっても、先生たちがちゃんといるのです。

 しかし、今回これが小泉内閣で廃止される動きがあって、教育関係者は2分の1制度を守ってくれと大変強く要求したのですが、とりあえずの妥協で決着し、県が3分の2、そして国は3分の1と減らしました。安倍官房長官が安倍内閣をつくると、おそらく国の負担はゼロにするでしょう。

 都道府県や市町村で先生の採用はどうぞご自由にというふうに変わりますと、財政力のない弱い県は先生を雇えません。山脈沿いの谷ごとにある僻地の小学校で、子どもの数が10人というような、そんな不経済な小学校はみな統廃合で、なくなるでしょうね。人件費をうんとやすくしないことにはやっていけないでしょう。

 「各教科到達目標の明確化」 

 そして、注目してほしいのが「各教科の到達目標の明確化」です。これまでは履修(りしゅう)主義でしたが、これからは習得主義に変わるんです。

 全員の子どもがわかったかどうかは別にして、ともかく教科書をちゃんと履修させてくださいというのが履修主義です。習得主義というのは、到達目標を全員に習得させてください。習得できなかった子は落第させてください。つまり、義務教育で落第制度というのを導入していく方向だということです。

 全国的な学習到達度、理解度を把撞するための学力調査を実施し、これでチェックして、到達できてない子を落第させる。私は義務教育での落第制度は、子どもを元気にしない、むしろ子どもの切り捨てにつながるので反対です。

 「教員免許更新制の導入」 

 「教師の質の向上」といって、しょうもない教師は教員免許更新制度によってやめさせるということ。これ、国民の支持率高いんです。しかし、これは両刃(もろは)の刃(やいば)で、組合弾圧に使おうと思ったら使えますね。何のためにやるのか、よく考えないと教員免許更新制が、教育の国家統制に本当に大きな役割を果たします。明確につながりますね。

 

 全体まとめてお話ししますと、日本の教育改革は冒頭申し上げました、選択と競争と自己責任、規制緩和、地方分権、こういうキーワードで進められています。この言葉そのものは反対する人がいないスマートな装いです。だけど、選択・競争できる入人って誰ですか。

 「選択」。お金のある人、時間的にゆとりのある人、強い者は選択できますが、弱者は選択できません。

 そして「競争」。貧困の家庭や障害をもっている子どもたちや、競争の社会の中で切り捨てられていく子どもたち。

 「地方分権」。お金もないのに自由にやれと言われても、貧しい所は地方分権って言われても、何もできません。 

 全体として弱者切り捨ての教育改革が現在進められつつあり、もう一つは欧米諸国の一周遅れの個人主義の思想に基づく制度に変えていこうとしている。

 

 子どもたちを取りまく状況の変化

 奈良の有名私立高校の生徒が自分の家に火をつけるという事件がありました。事件の次の日、全校生徒を集めて校長先生が「ああいう事件が起こったけれど、君たちは動揺することなく、所期の目的を貫徹するために勉学に励め」と檄(げき)を飛ばしたそうです。

 そのことについて、「野口校長やったらどう言いますか」と、聞かれた。

 私もやはり全校生徒集めるでしょう。そして「あの子が家に火つけたいほど、苦しんだり悩んだり、いっぱいストレス溜めてつらい思いしてたのに、誰一人気がついてやれなかったこの学校の教師の代表として、みなさんにまずはお詫びをする。ごめんなさい」そう言うと思う。そして、加えて「何でも相談できるような友だちが一人でもいたら、あの子は自分の家に火つけなくてもよかったんちがうか。君たち、友だちつくれよ、1人で生きていかれへんぞ。もう二度と、あれだけ苦しんで家に火つけて、親を殺してしまうようなことを、自分のクラスの友だちが起こさんように、仲間づくりしっかりせえよ」というような話をするやろなと、私は言ったんですけどね。

 子どもたちは非常に孤立しています。15年ぐらい前なら、教室に休みがちの子が1人いたら、みんなが「今日黒板を写したノート、休んでる子のところへ届けるわ」「明日じゃあ私、朝迎えに行ったるわ」とか言って、斑やクラスで休みがちな子どものことをみんなで取り組んだものです。みなさんも昔、休んだ子がいたら、そんなこともしたなという記憶、あるでしょう。今そんなんちゃいますよ。教室で机が空っぽで「この子休んでるやん、どないしたん」と聞いても「不登校です」と知らん顔する。

 この頃の子は、群れることがない。少子化、核家族化、高齢社会化。都市化が進み、もう遊び場所もなくなり、群れて遊ぶ場所もなくなってきた。情報化、コンピューター・ゲームなど、一人遊びがどんどん増え、もう個人主義の文化がどんどん入ってきている。今の子どもたちは群れて遊んでいません。1人ずつ遊んでいます。孤立しています。独りぼっちです。

 だから、成績の良い悪いとか関係なしに、全体として「なんであんな恵まれた家庭環境の子が」と思うような子が、独りぼっちだからあんな事件を起こしてしまうんですよ。

 教育改革というのは、子どもの実態を見て、子どもたちを元気にするためにしなければいけない。であるとするならば、孤立している子どもたちを、もっとあったかいつながりに、ぬくもりのある集団・仲間づくりをどうしていくのか。1人も取りこぼしをしない、落ちこぼしを作らないで、いじめのない本当に安心できる学級をどのようにつくるのか。そういう信頼される学校をどうつくっていくか、教育改革は子どもの実態からボトムアップでつくらなければいけない。

 今、国がトップダウンで上から進めようとしているのは、子どもたちをいっそう孤立させ、選択と競争ということで、力のある者はより強く、力のない者はより弱くという方向で進められているのではないでしょうか。

 今回の話が、子どもを大切にして、子どもの側からボトムアップの教育改革をせなあかん、ということを考えていただくきっかけになればと思います。

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