講座・講演録

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2008.03.04
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世界人権宣言と文化権

中川幾郎(帝塚山大学法政策部教授)


世界人権宣言大阪連絡会議は、帝塚山大学法政策部教授の中川幾郎さんをお招きして、2008年1月22日(火)に第291回国際人権規約連続学習会を開催しました。報告要旨は以下の通りです。(文責 事務局)

はじめに

中川幾郎(帝塚山大学法政策部教授) 最近は人権行政等について発言させていただいていますが、私の研究の出発点は文化政策です。多くの現場の方々が生活実態から人権と向き合われるようになったのとは違って、私は研究のプロセスから必然的に文化権や人権を考えるようになりました。そこで今回は専門分野である文化政策から文化権、人権について考えていきたいと思います。

文化とは何か

 そもそも文化とは何でしょう。文化についての政策等を考える際に必ず最初に議論になるのがこの問題です。しかしこれは非常に困難な議論だと思います。なぜなら芸術だけでなく、我々の衣食住、生活技術、宗教、経済に至るまで、私たちの生活に関するすべてが文化だといえるからです。しかしそれでは議論がまとまらないので、いくつかのカテゴリーに分けて考えます。

 まず文化人類学者の定義によれば、「文化とは、ある民族や集団の人々が自分らしく、人間らしく生きるためのハード・ソフトの総体」を指します。従って民族が異なれば文化の形態も異なります。ここで特定の文化を絶対的とするのではなく、違う文化も認めなければならないという考えを「文化相対主義」と言います。この考え方の下では、文明を生み出した都市型文化と、都市を作る必然性のなかった狩猟、放牧型文化との間に優劣はないと言えます。

 しかし現代のヒューマニズムはキリスト教文化の影響を濃厚に受けています。そのため、そこから生まれる正義感や倫理観に違和感を持つキリスト教以外の文化圏の人々が少なくないという問題もあります。

ハイカルチャーとサブカルチャー

 この定義を基に、文化を2つに分類します。1つはそれ自体が直接有用性を持たない、宗教や芸術、学術といった非日常型の文化であるハイカルチャーで、もう1つは人々の衣食住など日常にまつわる経済活動等の生活文化であるサブカルチャーです。日本では憲法で政教分離が定められているのでハイカルチャーへの公的支援は芸術と学術に限定されています。

 この2つの文化はどういう関係にあるのでしょうか。まず言えるのはサブカルチャーがしっかりしていないとハイカルチャーへの投資が成り立たないということです。学者の研究生活も経済の支えがあって成り立ちます。そうでなければ、学者は研究どころか生活もできません。また、お布施というお坊さんの収入も経済活動が十分に機能しているからこそ成立しています。そのためハイカルチャーが社会の寄生虫のように批判されることもありますが、逆に宗教家が社会の矛盾を吸収して人々を慰めたり、アーティストが生活に潤いを与えたり、学者の研究が後の社会に大きく貢献することがあるように、ハイカルチャーが社会を豊かにしてサブカルチャーを支えているという関係もあります。

 つまり日常型生活文化の基盤の上に非日常型文化は成立していますが、すぐに目に見える成果がないからといって非日常型文化への投資・開発がなければ日常型生活文化は発展しません。こういった循環関係の中で社会は発展しています。

文化と人権のつながり

 文化とは人々が自分らしく人間らしく生きるためのものですが、当然それは集団だけではなく個人にも認められるものです。それを求める権利をかつては「自己実現の権利」や「自己決定の権利」と呼んでいました。最近では「文化的権利」や「文化権」と呼ぶようになっています。

 この文化権が人権として重視されるようになったのは戦後で、世界人権宣言でも第27条(文化的権利)で「すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵にあずかる権利を有する」と規定されています。

 また、これをより具体化したものとして国際人権規約A規約第15条(文化的な生活に参加する権利)があります。一般的に社会権規約と称されるA規約の正式名称が「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」であることからもわかるように、国際人権規約は文化権も明記している点に留意する必要があります。この15条第1項で、規約締約国はすべての者に 1.文化的な生活に参加する権利、2.科学の進歩及びその利用による利益を享受する権利、3.自己の科学的、文学的又は芸術作品により生ずる精神的及び物質的利益が保護されることを享受する権利を認める、と規定しています。また第2項では締約国が先の権利の完全な実現を達成するためにとる措置には、科学及び文化の保存、発展及び普及に必要な措置を含むとし、第3項では締約国は科学研究及び創作活動に不可欠な自由を尊重することを約束するとしています。つまり文化権とは、「社会権規約でありながら自由権にもブリッジする」、言い換えれば「社会権的文化権と自由権的文化権が存在する」新しいタイプの権利といえるでしょう。

 さらに第4項では締約国は、科学及び文化の分野における国際的な連絡及び協力を奨励し及び発展させることによって得られる利益を認めるとしており、その精神を引き継いで具体化させたのがユネスコでした。ユネスコは1970年代に文化権に関する勧告を多く出していますが、中でも最も有名なのが1976年の「大衆の文化的生活への参加及び寄与を促進する勧告」です。ここで記された文化的な生活への参加の定義を、私なりに要約すると、「人には文化的に生きる権利があって、それは 1.誰もがより豊かに表現する権利、2.自分以外の外部と関わる権利、3.自己実現のための学習の権利の3点で構成されており、これらが保障されて初めて文化的で人間らしい生活が実現する」となります。

 それは別々に保障されるだけでは十分ではありません。なぜなら、表現することでコミュニケーションが生まれ、コミュニケーションによって新たな知識が蓄積されて、その知識が新たな表現を生み出すような循環型でなければ人は文化的存在にはなりえないのです。この観点から考えれば、被差別部落の人々が差別によって文字を奪われたということは、文化的に生きる権利を奪われたことになります。他の非識字者―在日韓国・朝鮮人や障がい者なども同様の立場でした。もっと広い視点では子ども達の芸術教育軽視の風潮も文化権の侵害だと言えます。これらの点から文化が人権と深く関係していることが理解できるでしょう。

日本における文化権の位置づけ

 日本では、思想及び良心の自由、表現の自由、学問の自由、信教の自由等といった政府が干渉すべきでないと言う性質の自由権的人権としての文化権は比較的理解されやすいのですが、政府が積極的に保障しなければならない社会権的人権としての文化権の根拠については、諸説に分かれています。

 最も古典的なa説は憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の規定を根拠にしていますが、この規定は理念的規定で実体がないという欠点がありました。そこで憲法第26条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育をうける権利を有する」という規定を根拠に教育権の中に文化権を見出そうとしたb説が出てきましたが、私も含めて多くの研究者は憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という規定を根拠に、文化権とは幸福追求権だとするc説を採っています。

文化芸術振興基本法の問題点

 これらの議論も、2001年に文化芸術振興基本法が制定されたことである程度前進しました。しかしながら、この文化芸術振興基本法にも大きく分けて4つの問題点があります。

 1つは文化権の存在を承認したものの、それを自然権的記述にとどめ、憲法第25条と同様に実体的権利として認めなかった点です。実際に第2条(基本理念)「文化芸術の振興にあたっては、文化芸術を創造し、享受することが人びとの生まれながらの権利であることにかんがみ、国民がその居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造することができるような環境の整備が図られなければならない」とありますが、実体的規定ではないために、権利侵害があってもこの法律では裁判において救済を求める法的根拠になりえないのです。

 2つ目は文化基本法と芸術振興法とを峻別せず、曖昧なまま合体させてしまった点です。その結果、文化基本法としての性格も曖昧となり、芸術振興法としても薄弱となってしまいました。

 3つ目には第4条(地方公共団体の責務)「地方公共団体は、基本理念にのっとり、文化芸術の振興に関し、国との連携を図りつつ、自主的かつ主体的に、その地域の特性に応じた施策を策定し、及び実施する責務を有する」とあるように、国との連携を図りつつ自主的かつ主体的にという、論理的な矛盾を残す記述を抱えてまでも、地方自治体文化政策に中央が関与する余地を残すような中央集権的性格を持っている点があげられます。

 最後の4つ目は「支援はすれども干渉せず」というアームス・レングスの原則が謳われなかったことです。日本では公金支出は政府の統制下になければできないという思い込みが強いため、理解しづらいかも知れませんが、芸術表現や学術研究は自由が保障されなければ発展しません。たとえそれが政権を批判する内容であっても、政府は「支援はしても干渉はしない」という原則がヨーロッパでは定着しつつあります。政府が支持する特定の文化や、大衆に人気のあるアーティストだけを支援するのではなく、少数派の芸術も含めた、多様なすべての文化を支援することが社会の健全な発展につながります。そういう理由でこの原則は非常に重要であるに関わらず、本法ではそれが取り入れられませんでした。

自治体文化政策に求められるもの

 ドイツやオーストリアでは、政府は地方の文化政策に対して一切口出しすることができず、公共文化政策のほとんどは地方自治体が行っています。それに対して日本の文化政策は未だに中央集権型です。しかし集権型の文化とは幻想ではないでしょうか。実際、文化を守り伝え発展させてきたのはそれぞれの地方であり、そのような地方文化の集まりこそが日本文化です。そこで今後重要になってくる自治体文化政策を改めて問い直したいと思います。

 2003年の法律改正によって地方公共団体は地方自治体政府となり、文化政策もこれまでの地方文化行政から自治体文化政策への大転換の時期を迎えました。文化政策こそが自治体の独自性を発揮できると言えます。ここでいう「政策」とは自治体の地域・都市運営における自立的・主体的な戦略を意味しますが、自治体政策が成り立つためには市政に対する関心が高い「市民」がいなくてはなりません。しかし実際に多いのは単なる「住民」だったり、その町に寝に帰るだけの「植民地型居留民」ではないでしょうか。こういう人々を本当の市民に変えていくこと、つまり市民開発政策が現在自治体に求められているのとであって、それを実現していくのが文化政策です。本来行われるべき市民開発政策とは、市民の文化的人権を保障する施策が基礎にあって、その上に市民が文化的に自立できるようなプログラムを積み重ねていくものであるべきです。

 また世の中は経済性や機能性中心の思想から、倫理性、審美性、情緒性、歴史性そしてブランド性までをも見据えた地域アイデンティティや固有価値開発へ向かっています。よって地域も都市も自立的文化政策なくして発展はないともいえるでしょう。また、行政自身も地域内最大の事業体・企業として、洗練された先端的な意識・行動規範を確立して、民間をリードする文化的事業体となるような改革が必要です。

自立した自治体文化政策を証明するもの

 最近、文化政策に力を入れている自治体も増えてきました。そこで自立した自治体文化政策の証明を考えてみましょう。

 まず1つは自治体文化条例の存在です。特に条例が基本理念として市民の文化的人権を謳っているか、市民の文化的アイデンティティ確立を明記しているか、アームス・レングスの考えが原則化されているか等に注目すべきです。

 2つ目には自治体文化基本計画が存在していて、議会決議を得た総合計画とその文化基本計画が連動しているかということです。人権政策にも通じることですが、計画があってもそれらに関する評価システムや評価審議機関がなければ計画は絵に描いた餅になってしまうので、この点にも注意が必要です。

 そして3つ目が文化施設・文化事業に関して、事業コンセプトに「社会開発」「人権」「公益性」の視点があるかという点です。あるいは指定管理者制度等導入にあたっても、経済性・効率性優先ではなく、上記の視点を問いかけているかどうかが重要でしょう。

おわりに

 これからの都市間競争は人口等の表面的な数字ではなく、どれだけ地域を愛する市民がいるのかが重要になるでしょう。その意味で自治体文化政策は市民開発であり、また次世代への投資と言えます。当然、自治体はナショナルミニマムとしての公共性は保障しなければなりませんが、同時に自治体文化政策を進めることで日本全国の共通性に囚われない、地域独自の公共性・アイデンティティを確立していってもらいたいと思います。

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