はじめに
世界人権宣言制定60周年の記念の年に、世界人権宣言をテーマにお話させていただけることをうれしく思っています。まず初めに、世界人権宣言の持つ歴史的意義をかんたんに振り返っておきたいと思います。
普遍的な価値である人権
「人権は近代西洋文化の産物であって、それ以外の文化圏の者にとっては受け入れがたい」というような、人権の普遍性を疑問視するような議論があります。しかし、人権(Human Rights)とは「人が持つ諸権利」をあらわす不可分な結合語で、どこのだれであっても、人はひとしく特別な権利や価値を持つとする思想に基づくものです。こうした思想は、洋の東西を問わず、およそ偉大な宗教や倫理学や哲学などに共通に認められます。ようするに、人間は尊厳や価値を持つ存在であるとする思想は、地域や文化のちがいを超えて世界中に古代から存在している普遍的な思想であるといえるのです。
成文化された人権の歴史
とはいえ、いわゆる近代人権思想が初めて文章化されたのは、1215年のイギリスのマグナカルタ(大憲章)においてであるといわれています。その後、イギリスでは市民革命を経て、人権や民主主義が確立されていきます。そして、1776年のアメリカ合衆国独立宣言において、人権は明確に規定されます。次いで1789年のフランス人権宣言で、人権は今日の人権法にかなり近い形にまとめられました。
ところで、フランス人権宣言(「人ならびに市民の権利宣言」)における「人」および「市民」は、男性名詞で書かれています。この当時は、実質的な権利主体は白人の成人男性に限られていたのです。この宣言が持つ歴史的意義は非常に大きいのですが、こうした時代背景や、とくに性差別の根深さについて知っておくことも必要でしょう。
このこととの関連で、フランス人権宣言の2年後の1891年に、オランプ・ド・グージュという女性が、男性名詞を女性名詞に変えて「女性ならびに女性市民の権利宣言」を発表したことも記憶しておきましょう。革命勢力の中のジロンド派に属していたグージュは、まもなく対立するジャコバン派によって処刑され、せっかく作成された女性の権利宣言は、その後長い間陽の目を見ることがありませんでした。しかし、200年以上も前にこのような女性が存在したことは、人類の誇りの1つといえるでしょう。
実践されなかった人権思想
このように、今日の人権論の基礎となる文書は200年以上も前に成立していました。もし人類がその時点で人権をもっと大切に受け止めていたならば、今日の世界はもっと住みやすく、すべての人が生まれてきて良かったと思えるようなものになっていたのではないでしょうか。
残念ながら人類は、この200年ほどの間、人権擁護とは正反対の残虐で愚かな戦争を繰り返してきました。思想としては古くから確立されていた人権思想が長年にわたり顧みられず、実践されなかったことが非常に悔やまれます。
国際連盟と国際連合
20世紀に入って、人類は第1次世界大戦を起こし、多くの人々が前代未聞の被害を受けます。その反省から国際連盟が結成されました。国際連盟は1924年に子どもの権利に関するジュネーブ宣言を成立させたり、黒人差別を禁止する宣言を採択するなど、人権実現にいくつかの足跡を残しています。しかし、第2次世界大戦勃発を阻止できませんでした。第2次世界大戦により、世界中で何千万人もの人々が様々なかたちで犠牲となりました。
1945年8月、やっと日本は無条件降伏し、はじめて民主主義への一歩を踏み出しました。しかし、これに先立つ同年5月にはヨーロッパ戦線はすでに終結し、6月には国際連合(国連)が誕生していたのです。第2次世界大戦の反省と平和的な国際社会の実現をめざして国連は結成されたのでした。
世界人権宣言の誕生
国連は、安全保障理事会と経済社会理事会という2つの組織から構成されました。(現在は人権理事会を加えた3理事会からなる。)
安全保障理事会は、国際平和の実現と維持を目的とします。場合によっては国連軍を派遣してでも、国際紛争を解決し、世界平和の維持に当たります。他方、経済社会理事会はいわばソフト面から国際平和を維持することを目的とした活動を行っています。つまり、経済、社会、教育、文化などの側面の活動を通して、国際紛争を予防する活動を行うのです。
この経済社会理事会のもとに人権委員会が設置されました。人権委員会は即座に世界中のすべての人の人権の実現のための活動を開始します。
法的拘束力を持つ人権関連の国際条約を制定すれば、すべての人々の人権が最も確実に実現されるはずですが、加盟国の歴史的、政治的、文化的背景の相異から、一気に条約作成は不可能でした。そこで、まずはその基礎づくりとして、人権尊重のための共通の基準としての人権宣言の作成を目指したのです。そうして生まれたのが、1948年12月10日に第3回国連総会で採択された世界人権宣言でした。この選択は非常に賢明なものであったと、私は考えています。
世界人権宣言の重要性
ところで、世界人権宣言はなぜ大切なのでしょうか。その第1の理由は、何よりもまず第2次世界大戦という人類の大きな過ちへの反省、つまり戦争という最大の人権侵害行為を正面から見つめて、その反省のもとにつくられたものである、という点にあります。
第2に、この宣言の正式名称はUniversal Declaration of Human Rightsである点にあります。日本では世界人権宣言と呼ばれていますが、Universalという言葉は「世界」というよりも、「普遍的」を意味するわけです。ここに規定されている諸権利は、どこのだれであれ、世界中のすべての人に、つねに当てはまる普遍的な、つまり時空を越えて妥当する権利なのです。
世界人権宣言を自分のものに
こんなに大切な世界人権宣言も、私たちがその内容を知って、自分のものにしていかなければ、絵に描いた餅になる危険性もあります。残念ながら、他の国々でもそうですが、日本でもこの人権宣言をきちんと読んで、その内容を自分に引きつけて理解している人が必ずしも多くはないのが実情です。このような現状を改善していくことが大きな課題となっています。
世界人権宣言には前文がありますが、これにとまどう人も結構多いようです。しかし、前文には、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」、「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらした」などの重要な認識が示されています。そして、世界人権宣言そのものが、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」である、とも書かれているのです。
ところで、1993年にウィーンで開かれた国連世界人権会議で、世界人権宣言は、今日までまさに人権に関する「人類共通の基準」としての役割を果たしてきたのであり、その重要性をいささかも失われていないことが再確認されました。このきわめて重要な世界人権宣言を、前文も含め、あらためて読み直していただきたいと思います。
人権尊重の窓口から見た日本社会
世界人権宣言が採択された頃から、わが国も主権在民、基本的人権の尊重、恒久平和の希求を柱とする日本国憲法のもとで、民主主義の歩みを進めてきました。半世紀以上の民主主義の歴史を持つわけですが、現在の日本における人権をめぐる状況はどうでしょうか。世界人権宣言や日本国憲法の理念、つまりは人権尊重の窓口から日本社会の現状を見なおすとき、現在の日本社会には様々な解決すべき問題があるのではないでしょうか。
ぜひ、それぞれ自己の日常生活をはじめとして、社会の様々な場面における生活を、人権尊重の観点から再吟味してみましょう。自分自身の感性をはたらかせて感じとり、自分自身の頭をはたらかせて判断することが必要です。そのような感性的・理性的認識の結果、なにか問題があれば、それを解決するためになにをなすべきか、なにをなし得るかを考え、行動していくのが、自律的市民の責任ではないでしょうか。
また、国の主権者として、政府が打ち出す諸政策を人権尊重の窓口から客観的に見ていくことも重要でしょう。その意味では2002年に閣議決定された「人権教育・啓発に関する基本計画」は非常に重要な文書です。政府はこの中で、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人々、外国人、HIV感染者やハンセン病患者、等々の人々に対する人権課題が現在の日本社会に存在していると指摘し、その解決に省庁を挙げて取り組むと国民に対して約束しているからです。
知的理解の深化
自他の人権を尊重できる自律的な市民となるためには、その基礎として、人権に関する知的理解の深化と、いわゆる人権感覚の錬磨が必要です。
現在の私たち日本人の人権に関する知的理解の現状には、かなり深刻な問題があります。そのために、昨今、人権という言葉が誤解されたり、曲解されたりして、結果的に人権の実現を妨げている現象が見られるのです。たとえば、自分の気分次第で学校を休んだり、きらいな授業を抜け出しても怒られないのが人権だと豪語したり、刑法に反することでも、自分のしたいことは勝手にできるのが人権だ、というような誤った主張が、若者の間ばかりでなく、大人の間にも見受けられるのです。
また、たとえば、世界人権宣言が採択された年号は知っていても、その内容をしっかり読み、それが自分自身や他の人たちにとってどんな意味をもつものであるかを理解していない、というような人も案外多いのです。これが人権に関する知的理解の現状ではないでしょうか。
人権とはなにか、その本質と意義とはなにかを知らなければ、自分や周りの人々の人権を守れないでしょう。また、ただ知識を持つだけではなく、その知識を活用して現実の問題解決に当たれるのでなければ、本当の知的理解とはいえないでしょう。
人権に関する知的理解を深めるには、教育方法や教材の改善が必要です。人権学習には、学習者が個別的にではなく、他の学習者と協力的に、それぞれが責任をもって主体的に参加する学習、自己の感性や知性をはたらかせ、身をもって学習するような経験的な方法が必要であり、効果的です。
こうした事例を1つあげてみましょう。まず学習者に1枚ずつ白紙を渡し、欲しいと思うもの(wants)を20個書いてもらいます。次にその20個のうち、自分にとって大切で手放せないもの(needs)を5個だけ残し、他をすべて消させます。次いで小グループにわかれ、それぞれが残したもの(needs)を発表し合います。こうして「欲しいもの」がそのまま「必要なもの」ではないこと、「必要なもの」は人によって異なることなどを学びます。さらに、小グループごとに、人が人間らしく生きていく上で必要不可欠なものはなにかについて話し合い、グループとして一覧表にまとめます。最後に、その一覧表を世界人権宣言の条文を要約したものと比較させます。
なお、知的理解の深化には、教材の開発や工夫も求められるでしょう。たとえば「やさしいことばで書かれた世界人権宣言」(人権啓発推進センター刊)は、小学生の人権学習にも、中高生の英語学習教材兼人権学習教材としても活用できるでしょう。
人権教育-自己変革と社会変革の力
人権教育は、人権に関する知識や理解の育成、人間的な価値や態度の育成、ならびに自他の人権を実現するための行為に必要な実践的技能の育成を目的とします。
このうち、価値や態度の側面は、いわゆる「人権感覚」に深く関わっています。人権感覚は、「人権の価値やその重要性に鑑み、人権が擁護され、実現されている状態を感知して、これを望ましいものと感じ、反対に、これが侵害されている状態を感知して、それを許せないとするような、価値志向的な感覚」といえると思います。この「人権感覚」が健全に働くとき、自他の人権が尊重される「妥当性」を肯定し、それが侵害される「問題性」を認識して、それを積極的に解決しようとする人権意識が芽生えてきます。価値志向的な「人権感覚」が知的認識と結びつき、問題を解決しようとする意識や意欲や態度を育み、これが自他の人権を守る実践行動へとつながる、と考えられるのです。
今後は、この人権感覚の育成のための教授法や教材開発と、それに基づく実践の推進が求められるでしょう。
人権教育は、自分自身をよりよい自分へ、つまりは自由で自律的な主権者としての市民へと変革させる力を持ちます。そして、結果として、社会を真の民主的社会に変革する、つまり、人権尊重社会を実現させる力を持ちます。日本国憲法の高邁な理念の実現は、まさにホンモノの人権教育の推進にかかっているのではないでしょうか。