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2008.05.14
講座・講演録

子どもたちの進路保障をめざすキャリア教育の創造

桒原成壽(くわはら なりひさ)(三重県伊賀市立拓殖小学校)


であい 全同教機関誌月刊「同和教育」No.553 2008.04 より

はじめに

 三重県の伊賀市立柘植小学校の職員の立場でお話申し上げます。

 伊賀市といえば、伊賀の忍者を思われるかもしれません。俳聖の松尾芭蕉はうちの校区で生まれたとも言われています。横光利一という作家も、少年期をうちの学校で過ごしています。農山村地域ですが校区の中を名阪道路が走っています。西に向いて時速100キロで一時間走るとちょうど大阪の通天閣の横に出ます。東に時速100キロで走ると名古屋の料金所です。北東に1時間走ると、八日市、北西に一時間走ると栗東インター、そんな場所です。車さえあれば田舎ですけどもそれなりに行動範囲が広がります。

 今日の話は、「子どもたちの進路保障をめざすキャリア教育の創造」というタイトルにさせていただきました。うちの学校の子どもたちの現状を見た時に、このことがとてもだいじであると考えてこの2、3年取り組んできました。 そのことと、同和教育が大事にしてきました「差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」という大前提を重ね合わせながら、お話させていただければと思います。

 進路指導という言葉はひと言でいうと、「子どもたちの就職先進学先をその子に応じてどのように探して指導するのか」という意味合いで使われてきたと思います。全同教も創設55年になりますが、発足当時は「子どもの就職と進学の願いをどう実現していくか」というテーマで議論や実践をすすめてきました。

 当時、最も直面した課題が「今日も机にあの子がいない」という言葉に代表されるように被差別部落の子どもを中心とした、長期欠席、不就学の課題がありました。それを克服しても、当時の高校進学率が60-70%に達したなかで、被差別部落の子どもたちは30%程度にとどまっていたという時期がかつてありました。あるいは、中学校や高校を卒業しても、就職の際に、差別的な応募用紙や身元調査があり、被差別部落の子どもたち、在日の子どもたち、一人親の子どもたちが排除されてきた歴史もありました。この差別的な応募用紙や、本人の努力や能力と関係ないことを聞く面接なども、取り組みによってずいぶん少なくはなってきました。しかし、取り組みのないところでは残念ながらまだまだ数多く存在しています。また、たとえ就職してもその前にたちはだかる壁がありました。

 たとえばこの北陸の地でもこんな話があったと聞いています。北陸地方のある被差別部落の少女達が、繊維工場に勤めるようになるのですが、しばらくすると耐えられないとやめて帰ってくる。なぜかというと、家では、やわらかいおかゆさんが常食だった。ところが寮にはいるとごはんがかたい。それでおなかをこわして食べられなくなる。それで体をこわして帰ってくる。つまり、その少女たちの背景には、貧しいがためにお米が少ししかないのでおかゆを炊いて食べていたという生活実態があったということです。

 そんななかで、40年ほど前から、子どもたちの進学や就職を、ある時点で紹介・斡旋すればこと足りるということではなく、未来を保障することが必要である。子どもたちの将来の生き方にそれまでの教育活動の成果と課題が端的に表れるという観点から、進路保障という言葉が生まれました。 そのことから進路保障は同和教育の総和であるといわれました。そのなかで、私たちは子どもたちに差別に負けない確かな力をつけていくと共に、当時の文部省や労働省と協力しながら差別的な社用紙を廃止し、高校生用の統一応募用紙を作成したり、企業への啓発活動を行ったり、奨学金制度の充実を進めてきました。

「進路保障」を小学校で

 さて、今までの話は中学校や高等学校の話で、小学校の話はでてきません。進路保障は同和教育の総和という点では、小学校や就学前の保育園や幼稚園からしっかり進めていくべきことだと思います。また進路保障という言葉を使わなくても日々、進められることだと思っています。しかし、私にとってはこの3、4年、進路保障の言葉の重みをかみしめないわけにはいかないできごとに出会っています。

 私自身は1985年に、伊賀市(当時は伊賀町)の柘植小学校に一度勤めています。それから、三重県同和教育研究協議会(現在は社団法人三重県人権教育研究協議会)の事務局におりました。そして、2000年度現場に出て、2004年度から柘植小学校に勤務しています。つまり20年たって再び同じ学校にもどってきたということです。

 もどった柘植小学校では地域の中で、さまざまな変化がおこっていました。20年前は350名ほどの子どもたちがいたのですが、この4月では198名のスタートです。少子化がずいぶん加速しています。私の学校の校区には一つの地区がそのまま被差別部落という地域があります。200戸余りです。そこから40数名の子どもたちが学校に来ています。赴任してすぐに、被差別部落の内外問わずに、安定した就労、差のない賃金といった階層と、不安定な就労、安い賃金の階層の二極分化がおこっていると感じました。とりわけその現象が被差別部落のなかに強く感じました。

 20年前、朝7時半頃子どもたちの集合場所に立っていると、地区内の土建屋さんに日給月給の土木の仕事に出かけていた姿を多く見ました。また、地区の作業所に通うパートの女性がいました。みんな二戸一棟の住宅に住んで、経済状況も傍目からはそう変わらないと思いました。

 しかし、現在は世の中の変化や私たちの学校教育の取り組みも関係しますが、保護者層の多くの方が名阪国道沿いの工場や、なかには滋賀県や京都にまで通勤している人もいます。一方で今までと同じように地区内の土建屋さんに勤めてみえる方もおられる。そういう人々の中には経済不況の落ち込みのなかで仕事を変わらざるをえない方もおられる。また自宅待機になる方もある。年齢も重ねていく。結果不安定な就労になる。つまり、生活状況の格差が確実に広がっていると感じました。

 もうひとつ気がついたのは、一人親家庭、もしくはじいちゃんばあちゃんに育てられている家庭がずいぶん増えているということです。レジメに数字をあげたのですが、うちの学校でも去年は14%、今年は13%あります。そして、そのほとんどが母親と暮らしています。しかし、被差別部落中はその数字がはるかに上回っています。今年は31%です。20年前には地区内外を問わずなかった状況でした。

 ちなみに、就学援助は学校全体では22%、地域では70数%という状況です。みなさんの学校、地域ではいかがでしょうか。少なくとも、クラス、学年の中でどの子どもが就学援助なり、生活保護をうけているかはきちんと知っておかなくてはいけないと思います。でないと、何の気配りもなしに、学級費や給食費を集めている現状もあると思います。あるいは、遠足や社会見学の時にどんなお弁当を持ってきているかも見るべきだと思います。田舎であっても、クラスに一人や二人はコンビニの弁当をもって遠足に来ている。とりわけ、就学援助につきましては学校を経由していきますが、生活保護についてはほっておくと市役所や役場から直接保護者の手元にいきます。昨今、給食費の滞りが話題になっています。そのことも含めて生活保護費の支給方法も変化してしてきているところもあると思います。

 つまり、こと、うちの被差別部落についていえば、結婚してよその地域で暮らしていた母親が子どもを産んだ後、いろんな事情もあって、離婚して子どもを連れて実家のある地区内に帰ってきている。そして、その生活状況はきわめて厳しいということが目につきます。そのことによる大きな課題は、子どもたちの学力や進路に影響しているということでした。

 ご承知のように学校現場では授業時間がかつてより少なくなっています。それをきっかけに学力の問題が始まっていきます。昨年、文科省が70数億円かけて学力調査をやったり、或いはOECDの調査に一喜一憂しています。授業時間を確保するために、2学期制を取り入れているところや伊賀市のように2学期を8月29日から始めたりしています。そんな状況もあって、どこの町でも学力調査がはやってきました。おそらく私の予想では、文科省は3年ぐらい悉皆の学力調査を続けるだろうと思います。そのあとは抽出調査にかわるのではないかと思っています。それらの学力調査のなかで、たんに国語や算数の調査だけではなく、子どもたちの生活実態、生活環境にまでむけた調査も県市町村レベルでは進められてきました。4月の文科省の調査も今までとずいぶん変わりまして、子どもたちの生活実態に踏み込んだり、学校長が書く学校環境調査や教育条件を見たとき、それなりに意識していると感じます。そして、すでに実施した県や市の調査によれば、子どもたちの学力と生活実態をクロス集計した結果、密接な関係があるというデータがでてきました。学力と生活実態の調査となれば、ことによるとプライバシーの問題と関わってきます。たとえば、お父ちゃんが大学出ているかどうか、そんな質問なんで答えなあかんのということです。よほど保護者や地域の理解がないとできない調査です。

 例えば、小さいときに絵本を読んだことがあるかどうか、おやつをつくってあげたことがあるかどうか、パソコンをもっているか、そうした生活状況と学力を比べていく。結果、この10年を見ていくといわゆる文化的階層と子どもたちの学力は密接に関係しているという結果が出ています。

 うちの学校のようすをみていくと、被差別部落と地区外の格差もひろがっている。同時に被差別部落のなかでの格差の広がり、これはこの10年でより顕著にひろがっています。今までですと、おしなべてどの家も貧しかったといえました。お父ちゃんが大学でているなんて20数年前には、地域の中ではまずいない。家庭訪問してもまずいわれるのは、「せめて、子どもには高校へ行かせたいねん。」という話でした。そのなかで奨学金制度も充実させてきました。

 もう一つの離婚の増加も大きな課題になっています。戻ってきた後、母親が働いていますが、まだまだ雇用がしんどい状況のなかで、十分な収入を得て暮らしているわけではない。ほとんどがパートや嘱託です。もう一つは、おそらく結婚した場所でも仕事についておられたと思いますが、極端な言い方をすると、離婚と同時に仕事も辞めて実家に帰ってくるということは、辞めてもあまり悔いの残らない仕事についていたのではないか。この仕事を一生続けたいとか、この仕事につくのが夢だった、苦労してこの仕事に就いたというものではなかったのではないか。そういう教育や取り組みを私たちは十分にやってこなかったのではないかと反省します。

 とりわけ私にとっては、離婚して仕事も辞めてもどってくる母親のうち何人かは20年前に勤めていたときの教え子でありました。あるいは、当時の中学生で知っていたりします。この事実に出会ったときに進路保障の重さをあらためて突きつけられることになりました。つまり、私たちの教育の取り組みは中学卒業、高校卒業までではなくて、その子が親になり、保護者になり、次の世代の子育てにまで影響するものではないかなと実感しました。まさに子どもたちの未来を保障するものになっているのかが問われたということです。

 1990年代、バブル経済が崩壊して就職の氷河期をもたらします。脱工業化にともなう産業構造の変化、市場原理主義は格差社会を引き起こしてきました。そういった社会状況の変化、一人親家庭の増加がからまりあって、しんどい状況に暮らす子どもたちの低学力傾向として現れたり、クラス全体、学校全体を見ると、子どもたちの学力は二極分化、ふたこぶラクダになっていました。

 私自身は、この話を校区に被差別部落のある学校の特徴的な話として話をしているわけではありません。格差社会は当然のことながら個々の家庭に影響し、そこで暮らす子どもたちにも影響を与えます。それはどの学校どの地域にも見られることです。だから、大きな社会問題になり、時には政治の問題や選挙の争点になったりもします。

 一般社会に見られる風潮は、当たり前のことですが被差別部落やマイノリティの人々のなかにも窺えます。しかし、その実態が顕著に、象徴的に現れているとしたら、それは訳のあることとしてその背景を探らなくてはなりません。同時に被差別部落やマイノリティの人たちに顕著にみえる課題は一般社会の人々の普遍的な課題でもあるわけですから、その課題解決の視点や手法は被差別部落に限らず、すべての学校や社会の取り組みにつながっていくと考えています。そこに私たちの同和教育の普遍性、眞(まこと)というものがあらわれてくるのではないかなと思います。

柘植小学校の「キャリア教育」

 しんどい状況の子どもたちが社会的自立をしていくために今、小学校で何をしなければならないか。その時にキャリア教育に出会うことになります。

 キャリア教育という言葉は、まだまだなじみがうすいですね。キャリアというと、何か上級公務員、官僚というイメージがあって、うちの保護者にもキャリア教育という言葉を3年くらいまえから言ってますが、最初のうちは、「なんじゃ、それ」という反応がかえってきました。ようやく今、理解していただいています。

 90年代以降にバブル経済が崩壊します。就職の氷河期を迎え、パートやアルバイトをしているいわゆるフリーターと呼ばれる人が何百万人と言われてました。職探し、職業訓練をしていないニートと呼ばれる若者も、数え方が難しいのですが、40万人、時には60万人とも言われたこともありました。また、就職しても七五三と呼ばれる状況があります。中学校を卒業して就職した子どもたちの7割、高卒で就職した子どもの5割、大学出て就職した子どもの3割が、3年以内に離転職している。そんな状況を七五三と呼んでいます。これらのことを受けて国のほうからキャリア教育をうちだしてきたと捉えています。

 キャリア教育は、ひと言で言ってしまうと、子どもたち一人ひとりの職業観、仕事観、勤労観をどのように育てていくかという教育だと思っています。たぶん中学校2年生あたりでどこの県も連続5日間または30時間の職場体験をやっているところが多いかと思います。また、高校ではインターンシップをやったりしていますが、児童生徒の職業観勤労観を育てるといっても、小学校では、こと三重県でもほとんど意識されていないと思っています。しかし、うちの学校の子どもたちの姿やその背景を考えたときに、仕事を辞めてもどってきている母親の姿があります。若者の失業率やニートの割合は、被差別部落をはじめとしたマイノリティの子どもたちや、家族の所得や学歴や文化資本の低い階層の子どもたちのなかに割合として高いという調査結果もあります。

 修学旅行のある場面です。6年生は37名が修学旅行で奈良・大阪・京都へ行きました。伊賀市から、西名阪の有料道路にさしかかると、観光バスの進行にあわせてETCのゲートがピュンとあがる。そのようすを見て、びっくりしたような目で担任の先生を見るAという子がいました。彼にとっては、初めて見るETCのゲートだと思いました。

 奈良の御所市の西光寺で水平社設立の話を聴きます。そのあと、阪奈道路を使って桃山学院大学に行きます。ちょうどお昼時ですのでカフェテリア式の学生食堂でご飯を食べます。子どもたちには事前にメニューを見せて700円程度を上限にほしいものを食べと言って学生といっしょに食べさせます。学生に混じって子どもたちがたのむなかで、黙って立ちすくんでいるBという子がいました。担任が「何にするの」と聞くと、ようやく、ひと言「きつねうどん」といいます。一方で、はるか右の方にはイタリアンコーナーというところもあります。そこへすぐに走っていくCとDがいました。お盆にはいつのまにか、カルボナーラとかティラミスとか並んでいます。

 修学旅行が始まってすぐのこの二つの場面で、4人の子どもたちのこれまでの生活経験の違いをあらためて実感させられました。子どもたちの生活状況や生活環境の違いは生活経験の違いになって現れてきます。それは現実社会との出会い方の違いや、将来展望にも影響してくると思います。農村地帯に位置するうちの学校では学校の裏山に猿がでてきたり、時には猪の子がでてきます。そういった自然環境には恵まれていますが、通学に一時間以上かかって来る子もいます。JRはありますが、路線バスは学校の前を一日2回しか通らない。そんな環境のなかで、子どもたちが校区以外の社会に出会うためには家族の車で出かけていくぐらいです。しかし、家族も外の世界とふれあう機会の多い家庭と少ない家庭があるというのは先ほどのAやBの通りです。

 とにかく、子どもたちが校区以外の社会に出会い、生活体験を広げて将来の自分を考える機会を増やしたいと考えました。そして赴任した2004年から5年生を対象に3日間職場体験に行かせることにしました。仕事体験か、職場体験か整理もつかずに行かせました。また、なるべく人に頼らないということで、一事業所に一人ということでちらばせていかせました。しかし、職場体験にいった子どもたちを車で迎えにいくと、緊張感から解放されてほっとしたのか、その度に、その日にあったことをしきりに話してくれました。そのことに手応えを感じたこともあって翌年からは、5年生で一回、6年生で一回の職場体験を進めていくことになりました。

 ちょうどその頃にキャリア教育という言葉に出会うことになります。そして、文部科学省のしめしたキャリア教育の枠組みの例に出会うことになります。

 当初は、これまで学校が一番大事にすすめてきた人権同和教育を中心とした取り組みを、この文部科学省のキャリア教育の枠組みである、四つの領域と八つの能力のどこにあてはめていくのか、どこを発展させていくのか、どこが足りないのか、そんなことを整理することから始めました。それはそれでとても意味があって、今までの人権教育にキャリア教育の視点を放り込むことによって、より活性化されたことも多々ありました。けれども、うちの子どもたちの実態を見た時に、うちの子どもにあてはまらないこともあったり、もっと大事にせなあかんことが大事にされていないこともでてきました。これは別に文部科学省の例が悪いとか言ってるわけではありません。国が示す例というのはなにごとによらず、北海道の稚内から沖縄の石垣島でも適用しないといけないわけです。うちの学校をめがけて枠組みプログラムをつくったわけではなくて、稚内でも東京でも富山でも石垣島でも適用しないといけない、おしなべて適用しないといけないというものだと思っています。ちなみに人権教育の指導方法の第一次、第二次とりまとめが出て、やがて第三次が出ようとしています。私自身はこのとりまとめが出た意味合いはとても大きいと思います。あれもこのキャリア教育の枠組みといっしょで、北海道の根室でも高知の土佐でも通用するものだと思っています。あれがマキシムのスタンダードではないのです。あれを越えたらあかんとかいうものではなく、その地域、県、学校においてもっとあれを越えるものを作っていくべきだと思います。枠組みや例とはそういうふうにとらえるべきものかなと思います。

 うちの学校には、被差別部落の子どもたちや外国籍の親を持つ子どももいます。障害のある子どもも多数います。そういった被差別の立場にある子どもの自信やアイデンティティ、自尊感情を獲得することがやっぱり大事でそれ抜きには何事もできない。また、しんどい状況にある子どもたちの学力の問題も大きな課題になっています。その上に立って、視野や経験を高め、将来の自分を思い描くことがだいじになってくると考えました。そして、そのことのベースには、なかまづくり集団づくりがきちっとなくてはできない。そんなものが文部科学省のこの枠組みにもっと現れてくればいいのになあと思いました。そうでなかったら、うちの学校としての進路保障をめざすキャリア教育、人権教育としてのキャリア教育にはならないだろうと考えました。

 大学の研究者にも何人か入ってもらい、議論を重ねた中で、国のキャリア教育の視点をふまえながらも、うちの学校としての枠組みを作る必要があると考え、行き着いたのがこの枠組みです。エンパワメント、リテラシー、キャリアビジョンという3つの側面で整理しました。この3つの側面の土台になかまづくり集団づくりがあると考えました。その視点で進めていくことが子どもたちの社会的な自立につながると考えています。そして、それらのことを含めて、マニフェストという形で現しました。

 伊賀市は3年前に上野市と5つの町村が集まって合併して伊賀市となりました。 37の小中学校がありますが、教育長さんがマニフェストをつくろうと言われました。条件はA4一枚。その中に、学力、人権・同和教育、キャリア教育については必ず盛り込みなさい。形式は自由です。そしてまとめたものを保護者や各学校、議会、マスコミにも公表します。5月に公表して、1月に保護者や子どもたちから診断を受けるというものでした。

 教育という領域で、いろんな生活環境の子もいる中で、数値目標的なことであらわすのはどうかということもあります。けれども、一方で「学力やってます、同和教育やってます」と言ってて、「それがどうしたん。具体的なものでしめしてみ」といわれてなかなかしめせない。そんな学校もないとは限りません。例えば、伊賀市の中で全同教の大会に実践レポートを出した学校が何校あるか、そういう具体的なものも必要だと思っています。プレッシャーもありますが、このマニフェストがうちの学校の全体像をあらわすものだと思っています。

 進路保障をめざすキャリア教育の創造という視点で、その取り組みを、リテラシー、エンパワメント、キャリアビジョン、そして土台のなかまづくりとして整理をしました。具体的な場面では相互に関連しますし、なかまづくりが十分でない中ではリテラシーの取り組みも、教科も効果はうすいと考えられます。子どもにとってわかりあえるなかまがいるのかどうか。安心できる居場所、居心地のいい場所は、算数でも国語の時間でも影響する話だと思います。

具体的な取り組み

 まずなかまづくりとエンパワメントについて話をしたいと思います。エンパワメントは、「自分のくらしをみつめ、自分をとりまく人々の願いを受けとめ、生活を高めていこうとする力」と定義づけました。とりわけマイノリティの子どもが多いうちの学校にとって、欠くことのできない重要な課題です。そのために重要な柱としているのが、一つは暮らしをつづるという作業です。日常の暮らしをつづっていく。もう一つは人権部落問題学習の取り組みです。資料についている作文を紹介したいと思います。

差別をなくしたい

E

 ぼくは、一年生の時に他の地区の友達の家に遊びに行った。そこでその友達と遊んでいたらおじいさんが来て

 「君、どこの地区や。」

 と聞かれた。ぼくは

 「○○」と答えた。すると、そのおじいさんは

 「○○か。もう暗いから早く帰り。遊んでたらあかん。」

 と言った。でも、その時はまだ三時ぐらいだった。ぼくは、なんでそんなことを言うのかなあと思っていた。そう言われても、ぼくは車で送ってもらっていたから、帰れないのでまだ遊んでいた。そうしたら、おじいさんが二、三回ぼくたちの前を通った。通っていくごとに、おじいさんはぼくをにらんでくるような顔をして何かわけのわからないことを言っていた。ぼくは

 「なんやねん。」

 と思ったけど、そのことは気にしないことにした。

 五年生になってから、なんでぼくら○○だけ木学(地区学習)をしているのかと考えるようになった。そして、差別のことを考えるようになった。木学の先ぱいで大学生の□□さんに聞き取りをした。□□さんは自分が受けた部落差別の話をしてくれた。

 ぼくは、その時、一年生の時のことを思い出した。あれは、部落差別だとはっきりわかった。

 その後、木学のみんなが、学校にも□□さんに来てもらって学年の子どもたちに差別の話をしてもらいたいと言った。でも、ぼくはその時、差別の話をするだけなら来ていらないと思った。差別の話をしてただけなら差別はなくならない。差別の話をするのなら、どうやったら差別をなくせるのかをもっともっと聞きたいと思ってそのことを先生に言った。

 □□さんは、学校に来てくれた。差別をなくすためには仲間をつくればいいと教えてくれた。それから、□□さんは差別をなくすために保育士になりたいと思って、自分のことを伝えた仲間といっしょに必死になって勉強して大学に入ったことも話してくれた。

 学校での聞き取りのまとめで、なぜだかわからないけど、急に一年生の時のことを言いたくなって手を挙げた。ぼくはクラスのみんなに

 「差別みたいなん、受けてん。」

 と一年生の時のことを言った。みんな一生けんめい聞いてくれた。そんなんおかしいやんと言ってくれた。言ってよかったと思った。

 その後、ぼくは一年生のあの時に

 「なんで、暗くないのに、帰りって言うねん。」

 と聞いておけばよかったと思った。

 ぼくは二年三年四年の時もいろんな人に

 「あんたどこの子。」

 と聞かれたことがある。当然「○○。」と答えていたけれど

 「どうしてそんなことを聞くの。」

 と言いたいのに、言えなかったことをいつも思い出す。五年生までのぼくにはまだ何か足りなかった。勇気がなかったのかなと思う。

 六年になって、ぼくは今までよりも、ふだんから差別のことを考えるようになった。

 六年生の夏休みの木学で、△△くんのお母さんから聞き取りをした。△△君のお母さんは、

 「私は○○が好きや。死んで生まれ変わっても○○に生まれたい。それくらい○○が好きや。」

 と言っていた。ぼくは、その話を聞きながら、ぼくのお父さんとお母さんはどう思っているのだろうと思っていた。

 ぼくは、今度お母さんにも聞いてみようと思う。それから、お父さんも、結婚してから○○に住んでいるけれど、お父さんはきっと生まれ変わっても○○がいいというだろうと思う。だって、お父さんは毎日がとても楽しそうだから。○○父母の会のぼんおどりの時もマツケンサンバをおどってみんなをもりあげていてすごく楽しそうにしているし、○○区のそう年会に行くときもとても楽しそうな顔をして出かけていくからだ。

 今、ぼくは、「どこの子。」と聞かれたら、「どうしてそんなこと聞くのですか。」とはっきり聞きたい。聞いてくる人はおじいさんやおばあさんが多いでど、どうして何区だと聞きたくなるのか、ぼくは知りたい。地区を聞いて○○だと言ってまるで○○が悪いみたいに言うのは、○○の人全員に対するいじめみたいなものだと思う。ぼくは、「○○だとわかったら何か変なことを言うなんて、それは絶対おかしい。」ってはっきり言いたい。

 五年生の終わりごろ木学の聞き取りで「差別のない星」という話があった時、ぼくは「そんなん、あったら行きたいわ。と思った。みんなの前でもそう言った。でも、考えてみたら、差別のない星だったらつまらないなあと最近思うこともある。差別はそりゃ、なければいいに決まっているし、あったらあかんと思うけれど、差別があるから木学をしているんだと思うし、差別のことを勉強しはじめてからぼくは仲間のことを考えたりするようになったからだ。最初から差別がないのもいいけれど、差別があるから仲間をつくって、みんなで解決して差別をなくしていくのも楽しいなあと思う。

 Eはすでに1年生の時に被差別体験をしていたことがわかります。それを部落問題学習のなかで思い出した。彼の中では、ずっと気になっていた出来事だったということです。また、彼は、「差別の話をするだけやったらいらん、どうしたらなくせるのかそのことを知りたいんや」と書いています。さらには、「どこの子と聞かれてどうしていつもそんなことを聞くのかなと思ったけど聞けなかった。そのことをいつも思い出す。」と書いています。地域のおばちゃんやお父ちゃんお母ちゃんの姿が彼のよりどころになっていることもわかります。「差別があるからなかまもできる、それも楽しい」とも言っています。

 この作文の背景には担任の並々ならぬ思いもつまっています。5年6年になって認識した過去の被差別体験を、今の彼にどう乗り越えさせるのかという担任の強い思いがあります。

 このときの6年生は36人で、2クラスで日常の授業を行っていましたが、大事な人権部落問題学習については基本的には合同でやってきました。作文を読み合ったあと、子どもたち同士の話し合いがはじまりますが、それは、なかまを感じ合ったり、地区外の自分と部落問題の関係を考える場面になります。

 授業の終わりに、ずっとやりとりをきいていたFという地区外の子が、言葉を選びながら話し始めました。「差別をなくせるのを楽しいと思えるのは、小さい頃にくやしい思いをしたEちゃんやから言えることやと思うねん。ぼくはEちゃんと友だちになったのは4年生になってからやけど、それより前にEちゃんがこんな経験していたと思うとぼくはなかまとしてくやしい。Eちゃんは気にしないことにしたと書いているけど、本当は、気にしてたけど、その気持ちを押し込めていたと思うとよけい悔しい。」とぽつぽつ語りました。

 その日のEの日記にはこんなふうにつづられています。「授業の終わりにFが立って二つ言いたいことがあるといった。一つは、Eちゃんやからこそ言えたと思うといった。僕はF、そんなこと思っててんなあと思った。もう一つは4年生まで友だちみたいな感じやったけど、5年生になって遊ぶようになって6年生になったら差別のことをお互いに話すようになって席も近くになってどんどんなかまになっていった。なのにそのなかまが小さい時に差別を受けたことを気にしないようにしてきたことですといってくれた。気にしないようにというのは気にしてるのを押さえ込むことだから、なかまが1年生の時におさえこまなあかんことがあったのはなかまとしてすごくくやしかった。と話してくれた。ぼくはそのことを聞いてすごく感動した。ぼくはFいいこと言ってくれた。めっちゃ感動した。ぼくはFがそんなことを思ってるなんて初めて知った。」

 そんなFの発言に続いて、お父ちゃんが今は地区外にいるために地区学習会には参加してないGが、立って「私は◯ちゃんや◯ちゃんと又従兄弟なんや。いまは◯◯に住んでいるから地区学習に行ってないけれども同じ部落出身やねん」と話します。あるいは地区外の子どもですが、気管支が悪くてのどに穴をあけてチューブを直接気管に入れているHという子がいます。Hの横には乾燥したらいけないのでいつも加湿器をおいてあります。生まれてから一度もプールに入ったことがない、徒競走を走ったこともない子です。彼がそろばんの試験前に、呼吸をする大きな音がするので、そろばんの先生が他の子と席を離そうとするけれども、その時に同級生のIが「先生おかしいやんか」と言ったという話をしてくれました。それぞれに、なかまを感じ合う場面に直面します。

 私が、皆さんに伝えたいことの一つは、Eはかわいそうな存在ではないし、いたわられる存在でもないということです。スーパースターでもないし、理屈をこね回す子どもでもありません。どこの学校にもいる運動は得意やけども国語は大嫌いの普通の子どもだということです。

 二つ目は、部落問題や人権課題が過去のものではなく遠い所の話でもなく、自分の隣に座っている友だちの問題でありその隣にいる自分の問題であるということであり、子どもにとっては部落の問題、差別の問題はまさに身近な日常の問題であるということです。そして、普段は意識していなくてもEのように学習することによって覚醒する、そんな問題でもあります。当事者だけでなく、他の子も学習することにより思い出すことになると思います。そのことを交流することによって、子どもたちは友だちからなかまに近づいてくるのかなとも思います。

 三つ目は、Eの社会的立場の自覚ということです。彼のよりどころがどこにあるか。この作文を読む限りでは、彼の将来はそれなりに安心して見ていられると思っています。この安心感はどこからくるのか。それは、「死んで生まれ変わってもこの地域に生まれたい、それぐらいこの地域が好きやねん。」というおばちゃん、「地区の壮年会にでかけていって喜んでマツケンサンバを踊っているお父ちゃんお母ちゃん。」など、地域や家族に対する彼の非常に強い肯定感を感じます。地域や家族を誇りに思う彼の気持ちが自覚のよりどころになっているのかなと思います。だから安心感があり、エンパワメントだと言えます。

 キャリアビジョンとリテラシーについて話したいと思います。「キャリアビジョンは多様な人生モデル、職業モデルと出会いや体験を通して自分なりの生活や将来の職業を思い描く力」とうちの学校では定義づけました。リテラシーは、「教科の学力を高め情報を正しく活用し、確かな判断力をもとに問題を解決していく力」と定義づけています。特に教科の力はどこの学校でも課題になっています。どこの学校でもさまざまなねらいをもった授業研究や工夫、生活リズムや早寝早起き、朝の会の読書などされていると思います。

 うちの学校では授業にかかわっては「発問の工夫」を大事にしています。子どもたちのわかる・わからないの間にコミュニケーションの渦をまきおこす発問を工夫していこう、さらに、集団づくりとあわせて工夫していこう、そんなことを学外の先生とも話し合いながら進めています。それらの取り組みのなかで、いろんな学力調査を実施しても、一応高くなっています。高くなってるけども、それは平均の話で、本当にうちの学校で検証軸にしているしんどい子ども、社会的に不利な立場におかれている低学力層の子どもたちの力がどこまで伸びているか、二極分化がどこまで縮められているか、そこがまだまだ大きな課題になっています。マニフェストのなかにも低学年で5ポイント以内、高学年で10ポイント以内に縮めると、つい宣言をしてしまったのですが、正直言えば、例えば、5年生の算数では平均点では全国いろんな調査と比べてみれば高い点数をあげています。でもマイノリティの子どもと、平均点では17・5ポイント差があります。他の学年や教科では10ポイント以内に縮まりましたが、そこだけは17.5ポイントの差があります。でも平均点は高い。いかに二極化しているかという課題にぶちあたっています。

 先ほども話しましたが、修学旅行では三年前から大学体験を取り入れることになりました。うちの被差別部落にも大学に進学している人はいっぱいいます。けれども、子どもたちは大学生の姿を見ることはほとんどありません。近くに大学がないので、進学した子のほとんどが、下宿するか朝早く出て夜遅く帰ってくる生活で、子どもたちが目にする機会はきわめて少ない。そんなこともあって、桃山学院大学に行きます。学生に「どこから来てるの」と声をかけてもらいます。「三重県」、「私も三重県、三重県のどこ?柘植?知らんな-。」というようなやりとりも子どもたちにとっては楽しいようです。大学の大きな階段教室で37名の子どもたちが話を聴きます。窓口になっているのは寺木伸明さんという近世部落史の先生です。寺木先生から「大学とは自分で授業を選ぶところ」とか、部落史のさわりを話してもらう。その後4、5人の学生に来てもらいます。ブーツをはいてピアスして、ちょっとおしゃれな女子学生たちが、めざす仕事、将来にむけてこんなふうにがんばってる、人権活動やボランティア活動に一生懸命やっているといった話には子どもたちはいっぺんに食いつきます。正直なもんです。うちの被差別部落の女の子の中には、部落問題学習や人権学習は、小学生や中学生でやってても、大きくなって外に出たら関係ないんやろといった意識が見え隠れしていました。しかし、その子どもたちがお姉ちゃんたちの話で「福祉の仕事したいけども、どんな勉強をするんですか。」と、どんどん質問していきます。これは意味があるなあと思いました。

 去年は5人の学生が話をしてくれました。一番インパクトのあったのは三重県の名張市から通っている学生が、「大学というのは本気で投げたボールは本気でかえってくるところや。本気で学ぶところや。」とかっこいいことを言ってくれました。こんな言葉は、子どもたちの胸にすぐはいっていきます。また内モンゴルや中国から留学してきている留学生と交歓したり、イケメンの学生と写真を撮ったりしました。USJやディズニーに連れて行ってやれても、大学にはなかなか連れていけないと保護者にも好評です。

 翌日は京都駅から8つの班に分かれて自由行動をさせます。事前に班ごとに行き先を決め、バス路線や地下鉄路線を調べます。そして、最後に京都会館岡崎公会堂の水平社設立の記念碑の前に集まることになっています。しかし、自由行動ですから行き先はバラバラです。中には、嵐山にいくと言う班もある。「なんで、そんな遠いとこへ行くねん。」と聞くと、嵐山の駅に足湯があって、そこに入りたいという。「おまえら、年いくつやねん」というんですけども仕方がありません。

 平日の朝、京都駅の混み合っている券売機で券を買って31番線の嵯峨野線に行かないといけないので大変です。要所要所で引率がいて、子どもにも携帯も持たせていますが、みんなカバーできるとは限らないし、携帯を持っている子どもと、はぐれる場合もあります。引率する教員にとっても、学校に残っている教員にとっても、一番はらはらする場面です。都会に住んでいる子どもにとっては切符を買うことは日常だと思いますが、農村地域では初めて券売機で切符を買って、初めて地下鉄を乗り換える子もいます。一日2本の路線バスしか走らない地域に住んでいる子には大きな経験です。しかし、どの班もエピソードを持ってかえってきます。京都駅の券売機でうろうろしていたら親切なおばさんが「どこ行くの」と聞いて教えてくれたということです。あるいは、3本400円のみたらしだんごを買って3人でお金が割り切れないときには、だんご屋さんのおっちゃんが10円まけてくれた。また、都会のバスの停留所は上りと下りの場所が違います。五条坂から平安神宮に行こうと思って乗ったらまた京都駅に戻ってしまった。事情を言ったら、バスの運転手さんが、お金をとらずに、親切に教えてくれたなど、事前の下調べはあっても、予定通りにはいかないときにはどうするのかという場面がいっぱいあります。コミュニケーションの力も問われますし、グループで相談して判断しなければいけないこともあります。まさに子どもたちが現実の社会と出会う場面やと思います。

今、子どもたちは

 職場体験で、2年目にいったある子どもの日記です。

 中略-次のお客さんが来たときは、パンを並べ直していたところで、その人が帰るときに「ありがとうございました」と言った。それから、「ケーキありますか。」と聞かれたとき、「どうしよう-。」と思って、「お店の人に聞いたらわかりますよ。」と言ってしまった。「あっ、自分がお店の人か。」と思った。そのお客さんは車に戻っていったから、「あ-、やっぱり説明をちゃんとしやなあかんだ-。」と思った。後略

 1年目は自分のことで精一杯のようです。2年目になるとやっとその職場の一員としての自分がみえてくる。

 ETCに驚いたAは離婚したお母ちゃんと二人暮らしです。朝、起きられずに学校へもなかなか来れません。児童支援の教師が朝、起こしに行ったりしていますが、母子ともに寝ていることもある。時にはそのまま欠席になることもあります。

 Aの職場体験はモクモクファームです。地ビールやハムをつくっている所です。Aは牛や豚の世話をするので朝7時半に学校へ登校することになっていました。朝来れるのかと心配していたわけですが、3日間ちゃんと長靴はいてきていました。その後、遅刻することはありましたが、欠席はずいぶん減りました。

 しかし、取り組みを進めてきたこの間も子どもたちを取り巻く暮らしの厳しさはつづいています。「親に捨てられたのは私だけや、だって一回車に乗ったのに忘れ物を取りに行ってる間に、パパが行ってしもてん。」と父母との別れを話すKがいます。彼女は今、足を痛めて立ち仕事ができないおばあちゃんと、毎日夕ご飯のしたくをしています。おばあちゃんは「どんどん包丁使わしてますんやわ。手を切る経験もしやな、危ないのもわからへんし」「私はいつまで生きてるかわからんさかいに」「そんなこというても本当のことやで先生」と何度も担任の教師に話をします。

 Kは時としてどこにいるかわからない両親に対して憧憬の感情がでてくるのですが、おばあちゃんはいつも包丁を使わし、現実に生き抜くことの大切さを教えてくれます。おばあちゃんは「大きくなったら両親を自分で捜し」「それくらいの甲斐性がなかったらあかんわ、なあ先生」といいます。2年生の彼女は「私は大きくなったらコックさんになってお父ちゃんお母ちゃん探すねん。」と答えます。彼女にとってコックさんになるということは自分の将来の「夢」というだけではなくて、自分の両親に出会う手段であり切実な「願い」であります。彼女が本当にコックさんになって自己実現をはかることは容易ではありません。今、3年生の彼女にとって、被差別部落に育っている自分の体や暮らしを通して、差別に抗いつづける力をやっぱりきちっとつけていかないといけないと考えています。未来に目をむけることは現在の自分の暮らしを見つめることです。まさに現在は未来への萌芽なのです。

最後に

 エンパワメント、リテラシー、キャリア・ビジョンの三つの側面のどの一つが欠けてもうちの学校の子どもたちのキャリア教育は成り立たないと感じています。とりわけその取り組みの検証軸にしてきた被差別の立場の子どもにとってはエンパワメント、リテラシーの側面を強固にしてこそ、キャリアビジョンということが意味をもつという気がします。もっと言えば、エンパワメントとリテラシーの統合が学力という言葉にふさわしいというのが、今うちの学校で行き着いていることです。

 「どんな生活環境に育ったかによって、ほおっておくと、その子のおよその将来がみえてくる」と言われるような社会が形成されつつあるのが今の世の中です。生きる力、社会的自立を育んでいくために何を取り組んでいくのかが人権としての教育を担う公立学校の責務であり、そのことが問われている昨今であると思っています。