講座・講演録

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2008.08.01
講座・講演録
部落解放研究 第41回全国集会(雑誌 部落解放 2008 594号)より

労働ビッグバンがもたらすざらなる貧困と格差

中野麻美(弁護士)


■格差社会における貧困と差別

 ここ数年、格差という青葉が社会の焦点になってきました。2006年のOECDの対日経済審査報告書のなかでも、日本の経済社会における格差の拡大に深刻な懸念を表明しています。格差は、昔から日本社会のなかにありましたが、解決されることなく、今日の兢争政策のなかで強化され、人びとの生活に大きな打撃をもたらすような顕著な形で表れるようになりました。

 最近の政府の報告書などを見ると、150万円以下の所得しか得られない人たちが、この10年で非常に拡大してきていると報告されています。男性の1割弱、女性は5割弱の人たちが、150万円以下の所得しか得られない。なぜ、こういう低所得がひろがったのか、この構造にメスを入れなければ、私たちの社会に未来はないのではないかと思います。

 私が、昔からあった格差とてずっと取り組んできたのが男女の差別の問題でした。男女間の差別が凝縮して表現されるのが賃金格差の問題ですが、正規雇用の形態で働いている人たちの場合、男女雇用機会均等法の制定以来、微々たるものですが、男女間の貸金格差を縮めてきました。男性を100とすると女性は約65(2006年)まで、格差を縮めてきています。しかしこれは、正規雇用労働者の場合で、非正規雇用労働者も含めた賃金格差を見ると、博然とするデータになります。あるところで、男女間の貸金格差について検討を行った際に出された資料で、正規労働者として働いている人に加えて、期間の定めをおいていないパート労働者を加えて貸金格差をとってみた場合、2006年で50.1ポイント―全体の労働者でとったわけではないので、全体で見るともっと格差はひろがっていると思われますが―、男性の半分でしかない。

 こうした格差は、女性のなかで進んできた非正規雇用化に大きく原因しています。また、正規雇用のなかでも鎗合職や一般職といったコース別雇用管理という名のもとに、格差が拡大していることが指摘されていて、雇用の多様化が大きなキーワードになってきています。

 そのなかでも女性たちが圧倒的に多く就業するパートタイム労働については、戦後パートタイム労働という形態が生み出されてこのかた、貸金格差の不合理性を表すデータがあります。パートタイム労働者は、企業のなかで、最前線で戦力化され、パートタイム労働者がいなければ企業はまわっていかないという状況にありながら、貸金格差は拡大しつづけてきました。こんなに不合理なことがあるでしょうか。なぜこういう労働が生み出されてきたのでしょうか。

 しかもこの労働は、政府のデータで見ても、貸金の平均的な時給水準が904円です。これは憲法25条に基づく生活保護法によって支給される生活保護費と比べても低い水準です。時給904円で働くパート労働者が、子どもを2人育てながら、自立して生きていこうと思えば、いったい年間何千時間働かなければならないか計算したことがあります。なんと、生活保護費と同等の所得を得ようとすれば、3300時間から3400時間働かなければならない。1993年に経済企画庁の経済研究所が「働き過ぎと健康障害」という論文を発表しました。当時、社会問題になっていた男性の長時間労働によって過労死に追いやられていく働き方を改善していくのに何が必要か、という問題提起をした重要な研究論文でした。この論文では、過労死の危険領域は3100時間と書いています。合理的・科学的根拠があるわけではないということですが、厚生省が過労死として把撞しているデータによると、3100時間というのが一応のデッドラ宥ンと考えることができると書いています。パートで働く人たちは、時給が低いから、子ども二人を育てて生きていくためには、死ぬほど働かなければいけない。そのうえに、子どもたちの世話があります。たった1人で子どもたちの面倒を見なければならない。こんな労働を日本の社会は何十年にもわたって許してきたわけです。

 この原因は、政策も大きな問題だと思いますが、私たち自身のなかにもあるのではないかと思っています。

 毎日新聞のコラムで、谷中の朝顔市に鉢を忙しくトラックの荷台に積んでいくパート労働者の姿を書いていました。記者に悪意はなかったと思いますが、「パートの主婦が忙しそうに働いている」と書いていました。「主婦のパートが働いている」のではなくて「パートの主婦が働いている」というのです。この言葉に表れているように、パートは、働いている主婦の労働者というのは、労働者として見られていないのだと実感しました。家計補助的労働だから、103万円の課税最低限で働く低賃金労働に甘んじた働き手だから、自立して生きていくということを念頭に置かなくてもかまわないのだ、という意識が、職場の働く側、労働組合などのなかにもあって、パート労働者の貸金を引き上げていくという力にならない。

■労働における規制緩和の流れ

 こういう状態を改善できないまま、今日の競争政策のなかに突入していった結果、女性だけではなく、若者たちにも低賃金労働が大きくひろがることになりました。低賃金労働の若者への拡大は、たいへん深刻な問題として、政府の政策担当者も心を砕くようになり、ここ数年はニート・フリーター問題として、特別な対策が必要だと認識されるようになってきていますが、表面的な政策にとどまっています。この間題のなかにある差別と貧困をもたらす社会の構造に光をあてて、それを根本から正していくような流れをつくらないと、将来、この国に生きてよかったと思えるような、人権にあふれた日本の社会を展望することができなくなってしまうのではないかと思います。

 いま、何が起きているのか。私たちは労働相談の一線で、そのことを実感させられています。

 規制緩和が行われるようになって、職安法44条で定められている直接雇用の原則が労働者派遣法によって、一端を崩されるようになります。それが1986年です。その前年にプラザ合意が形成されて、世界の経済が競争へとまっしぐらに進んでいくようになりました。この1986年という年はとても印象深い年で、この年に、男女雇用機会均等法が制定されて、私自身も、女に生まれてきたのも満更ではなかったのかなと、ちょっとだけ思えるようになって、未来に明るい光がさしてきたように思えました。しかし、その半面で、日本の労働法は、戦後労働法制の再編として敷制緩和の卦を泉むようになります。その一端となったのが男女雇用機会均等法で女性に対する差別を廃止していくという流れのなかで、労働基準法に基づく女性に対する特別な労働時間規制である1日2時間、1週6時間、年間150時間を超えて残業させてはいけないという規定や、休日労働、深夜労働の禁止という保護水準が撤廃、緩和させられていくという労働基準法の規制緩和が行われました。

 私は、労働基準法に基づく労働時間規制というのは、労働から離れてどれだけの時間を確保できるのかという問題なので、その点からすれば、男性の青天井の残業を許容するような法制度こそ、男性に対する差別なのではないかと思っていましたが、社会はなかなか男性に対する差別という考え方をとらないで、男並みに働けるか、つまり働く時間の規制も、どれだけ労働から自由を確保できるかという視点ではなく」どれだけ働けるかという本末転倒の座標軸に切り換えられて規制緩和を推し進めていくということになりました。

 さらに労働者派遣法、職安法44条という直接雇用の原則を定めている規定が規制媛和にあいます。労働者派遣法は、その後も緩和に緩和を重ねて、いまではごく一部の例外的な仕事以外、どんな仕事でも派遣という働き方を認めるようになりました。その結果として、若者たちのなかに、非常に深刻な形で、日雇い派遣とかスポット派遣という形で働く人たちが増えました。これが10年にわたって増え続けていたことを私は知りませんでした勘なんとなくこういう形態で働いている人がいるということは、耳にはしていましたが、それを実態としてつかむことはできなかったわけです。たまたま、私たちの仲間が、携帯電着で業者に登録して、スポットという形で働いてみた結果、実態が初めてわかるようになりました。その実態とは、次のようなものです。

■若者の労働の実態

 大学、高校を卒業して、正社員として働く道がない人たちが、業者に登録して、その日その日、携帯電話で、明日の仕事はどこにあるのか連絡をとって、そして現場に行って働く。これがひろがっていったのですが、この労働が、たいへんな労働です。私が担当している事件の当事者は、1年に400本の契約を結んで働いていました。1年365日ですから、日雇いの派遣なら1日も休まず働いても365本のはずです。なぜ400本なのかと聞くと、1日のうちに同じ派遣業者を通じて、午前、午後、夜と三本の契約を締結する場合があるというのです。これでは日雇いではなく時間雇いです。そして、ある人は、年間ずっと休日もなく、10年にわたって同じ工場で働いている。これらの人たちからは、一稼働ごとに1本の契約、その契約ごとに貸金が支払われていくことになりますが、その貸金のなかから、データ装備費と称して200円を貸金から天引きが行われていました。三稼働で3本の契約を締結すると、1日当たり600円。この人たちに支給される賃金の額は1日6000円から7000円、時間当たり8時間を超えても残業代が支払われないということがありますが、最低賃金をわずかに上回るぐらいの水準で働いているわけです。明日雨が降ったら、仕事がないから所得はありません。

 社会生活を営むにあたって、継続的な取引の主体となれるということが必要不可欠です。たとえば住むということは人権です。安心して寝起きできる場所、自分のスペースがあること、じっくりと自分を休めることができること、そういう住の権利を獲得するうえでも、継続して大家さんから家を借りるということができなければなりません。しかし、この形態で働いていれば、明日の仕事、明日の収入がどうなるかわかりませんから家を借りることはできません。インターネット・カフェだとか、漫画喫茶とかがメディアでも取り上げられて、若者たちがそこで生活している、生活の拠点になっていることが、問題になっています。人間の生活は継続していくものです。命を閉じる一瞬まで、私たちの生活は継続していきます。未来を見通すことができてはじめて、人権が私のものになるという実感がもてるのではないかと思いますが、そういったものがすべて断ち切られた労働に従事せざるを得ない。借りる家もない、車を買おうにもローンも組めない、そういう状態が強いられるわけです。雨が降れば収入がなく、インターネット・カフェにも泊まれないから、マクドナルドやミスタードーナツで、コーヒー1杯で一夜を明かす、それさえできなければ野宿する以外にない、そういう状態だというのです。

 200円差し引かれるデータ装備費と称するものについて、業者側は合意に基づいていると言っています。しかし、このまえ訴訟を起こし、若者の代表者が法廷に立って、意見陳述をしました。「私たちの食費は1日1000円です。切り詰めて明日の生活を考えていかなければならない。1日200円も貸金からの天引きを承諾するでしょうか」と、訴えていました。業者側からの答弁書が先日出ましたが、200円を何に使ったのかは言えない。200円をもし差し引かないと、貸金を200円分低く設定せざるを得ない、そういう性質のお金だという説明でした。こんな人をばかにした話があるでしょうか。このような労働は、明日の生活を見通すことができないがゆえに、結婚するとか、将来子どもを産んで育てるとか、そういったことも展望することができない。少子化の問題は、このような究極の非正規雇用の拡大に起因しているのだと痛感させられます。

 非正規雇用の拡大は、少子化だけではなく、雇用保険や年金、健康保険などの社会保障に参加することのできない働き手を多く生み出していくということでもあり、したがって、いまリ、タイアして、年金の給付を受けている人たちの問題にも発展していくわけです。非正規雇用が拡大して、社会のなかに貧富の格差が拡大しているというOECDの対日経済審査報告書の内容を見て、非正規雇用の問題は、この形態で働いている人たちだけの問題としてとらえることができない。みんなの問題であり、私自身の問題だととらえる必要があると実感させられました。

 これらの形態で働いている人たちは、生活の基盤が非常に不安定だというこせだけではなく、業者側にすれば日雇いであり、使い捨てでいいのだと考えているのではないかと思えるような配置の仕方をしています?私の知っている方は、労働者の就業先を確認しないまま、派遣労働者を1日建築現場に派遣したことをずいぶん責めていました。なぜかというと、派遣先の職場が建築の解体現場で、有害物質である石綿がもうもうと舞っているようなところで作業をするように命じられた。そういう報告を労働者から受けたというわけです。その労働者は防護マスクなども支給されないまま、その現場で働かなければ、その日の生活の糧が得られない。まわりの人たちはみんな石綿用の粉塵マスクをして働いているのに、彼は自分の持っていたタオルを口と鼻にまいて、1日作業したということです。そのことを派遣元にいた労働者が厨いて、こんなことをしてしまったと、自分を責める、という状況があります。

 建築現場に派遣される労働者に安全保護具は支給しない、支給するとしても自分でその費用をまかなえと、賃金からいろいろな名目で差し引かれる。ある人はスニーカーのまま廃材が重なっている現場に入って、五寸釘を踏んでしまい、労災の適用もされなかった。こんなふうに、どうなってもいいという扱われ方、自分が人間であるという気持ちを捨てなければ続けていけないようなハードな仕事に従事して、明日からの展望も持てないというなかで、若者たちが働いている。

■フリーターをめぐる論争から

 このような若者たちのなかに何が起きているのか、といぅことも大きな問題になっています。

 『静座』2007年1月号で、フリーターの肩書きの赤木智弘という人が問題提起をしました。その間層提起に対して反論が掲載され、さらに六月号では赤木さんが再反論をするという論争が展開されました。この赤木さんは、たまたまバブル崩壊後の「失われた10年」と言われる時代に就職せざるを得ないという年代に生まれて、スポット派遣のような、人間性をなくしてしまう労働に死ぬまで従事しなければならない、そんな人間の気持ちがわかるか、と書いています。それに対して、ある人が君たちは何もかも失ってしまったというけれども、命だけは持っているじゃないか。正社員だって働き過ぎで過労死する人もいる。君たちには命はあるじゃないか」と言った。だけど、これほど打撃的な言葉はないと反論しています。私もその気持ちはとてもよくわかります。そして彼はこう言います。「私たちは機械のように生きたいとは思っていない。人間として生きたい。こういう状態から脱却するためには、もののたとえとして、もう戦争しかないのだ、と言いたいのだ。戦争しかないという自分の主張に対して、革命をやれと言ってくれる人もいる。だけど革命は、自分たちの要求が多数者の要求であるという確信にあふれなければ実行することはできない。自分たちは少数派なんだ」と。彼は、たまたま正社員として就職できた人たちは、たまたま正社員になっただけであって、そういう人たちが既得権の上にあぐらをかいているという状況を、非常に問題意識をもって見ているわけです。

 そのうえで、経済財政諮問会議の八代尚宏さん、この人は、規制緩和を労働分野でどんどん進めていけばいいという論理をもった人で、「労働ビッグバン構想」といって、正社員の既得権を剥奪して非正規雇用との間で、権利の格差をなくしていくことによって競争を促進させ〔未来の明るい日本をつくる、という論理を立てていますが、赤木さんは、「むしろ八代さんの言うほうに共感を感じる」と言っています。彼はまた、「保守主義思想というのは、そんな恵まれない自分たちを、いまの現実の社会のなかで再位置づけしてくれる。31歳の日本人の男性として」と言います。この言葉のなかには、外国人よりも優位にある日本人として、女性よりも社会のなかで優位に立つ男性として、そして31歳の自分は、それよりも若い者たちから敬われるべき存在として社会のなかに再位置づけしてくれるという意味合いを含んでいます。

 貧困の拡大、差別の拡大、究極の細切れ雇用の拡大と一言で言われますが、これは私たちが連帯のシステムとして築いてきた社会保障などさまざまな社会の仕組みから、徐々に排除されていく、そして人びとの生活や未来を築いていく連帯の基盤というものを奪っていくだけではなく、差別をこのようにして容認することにつながる、保守主義のなかに人びとを誘導していくことでもある、ということを実感させられました。

 背筋が寒くなる思いがすると同時に、私に何ができるのだろうかと考えるきっかけも与えてくれた論争でした。工手の「論争」にふれで、「説教だけはしてはならない」と息いました。自分の問題として、この社会の構造にどう挑んでいけるのか、その姿を彼らが見て、どう思うかはわからないけれども、真撃にこの間題に取り組む、差別をなくしていく、格差を、貧困を根施していくという努力を、彼らに見てもらいたいと思いました。私たちの回答というのは、そういうことしかないのではないかと思います。

■労働法制の再編と労働市場の構造変化

 この貧困と差別に挑んでいくにあたっては、なぜそういった現象が鑑み出されているのか、という構造を見ておく

 必要があります。1986年には、労働法、社会保障法が大きな改革を受けることになりました。男女雇用機会均等法、労働基準法、労働者派遣法、そして最後に年金法です。年金法は第三号被保険者という専業主婦の年金権を保障するということで改革が行われたわけですが、これらの4つの法制度が、今日の時代をつくったと、私はとらえています。

 パートタイム労働者は、いくら長く働いても、働き手として自立した生活を営む主体ではない、ある意味では、自立して生きる労働者から排除された存在であり、家計補助的な低賃金は、女性に対する差別を象徴する言葉でした。しかし今日、もっと見えない形で、この差別が強化される。そうなった重要なキーワードがあることに私たちは気づくべきだと思います。

 企業はよく、パートのこういう格差を司法の世界で問題にしたとき、次のような反論をしてきたものでした。「パートタイム労働者、壷時間労働者というものは、仕事と生活の両立を図る。そういう意味で、企業との結びつきの弱い労働者である。だから、貸金は低くても、簡単に首を切られたとしても、やむを得ない」という言い方です。私はここにも、非常に深刻な差別があると考えます。正社員として働いている人たちは、この言葉を開いて、どう受けとめたのか。おそらく企業における自分たちの責任の重大性であるとか、あるいは、企業から期待されている存在として誇りすら感じたのかもしれません。しかし、この言葉の中に、自分たちが正畢雇用であるゆえに差別されているという側面を見出した人はどれだけいたでしょうか。労働組合のなかに、云-トタイム労働者の低賃金を改善していくエネルギーが自分の問題として育ってこなかった理由の1つがここにあるような気がします。正社貞だから、仕事と家庭の両立をしなくていいのか、「仕事も仕事も」 の生活を強いられているのは、「正社員だから」 の差別ではないのか。男性だから青天井の残業でも、がんばって働かなければならないというのは、差別ではないのか?このような発想で、差別を告発し、是正していくことができなかったことは、とても残念でした。

 パートタイム労働者が低賃金であることと、年間3000時間を超えて働ぐ正社員男性が4人に1人もいるという長時間労働が蔓延したこと、これが、コインの裏と表の関係にあるのだ、ということです。

 この格差が、改善されないまま、いろいろな形で非正規雇用が多様化していきます。パートタイム労働者のなかにも、期間の定めをおいた雇用がひろがってきました。不思議なことですが、パートタイム労働者に対する保護法制が確立されると、期間の定めをおいた雇用が、パートタイム労働者のなかに増える。パートであることに加えて、期間の定めをおいて細切れで働く人が増えています。この細切れ雇用は、雇用調整弁的な役割と言われていましたが、今日においては、安上がりだからというところに最大の魅力があって、それも、雇用の節目節目に労働条件をダンゼングできるという、たいへんな便法を与えられる、そういった形態になっています。時給100円下げようか、それでもよければ働かせてやると言われても、働き手は「ありがとうございました」と頭を下げなければならない、こういう強烈な力関係の格差があるなかで働く労働者が増えているということです。

 そして先ほど言いました派遣という形は、労働関係のなかに商取引関係を含んでいます。派遣会社に登録して、仕事があると、派遣先に派遣され、その都度、貸金を支払われるという労働形態なのですが、形の上では、派遣元も労働法上の責任を負い、派遣先も労働法上の責任を負い。だから労働者は労働法によって、ずいぶん保護されているように見えます。しかし、労働者の労働条件を決めるのは、実質的には派遣元と派遣先の業者間の取引契約です。この業者間契約というのは、労働法による競争抑制的な規制は働きません。むしろ、競争しろという独占禁止法の規定が働きます。労働法は、競争を抑制することによって産業の基盤を築こうとする法律です。なぜ働き手に競争を抑制しなければならないのかと言うと、フィラデルフィア宣言の冒頭に出てくる、「労働は商品ではない」という二言につきます。商品ならば、生産や在庫を調整して、価格を保つことができますが、人間は、一度この世に生まれた以上、生きていかなければいけません。その日その日の生活をするお金が必要です。だから自分たちの労働の価格が下落していくときにも、冷凍庫のなかで冬眠するわけにはいかない。人間の労働は、商品よりも値崩れしやすい。これを競争原理にさらしていると、社会は深刻な危機に立ち至るから、兢争を抑制しなければならない。労働法は、人類の長年の歴史から得た教訓、その叡智の結晶として、労働における競争を抑制するためにつくられたものです。

 それに対して、独占禁止法は競争しろと要求します。派遣の世界でいちばん典型的なのは、ユーザーとの間で、面摸して、「あなたに決めた」と派遣先に言われても、2週間なり1カ月なり、「待機してください」と言われることが、少なくありません。待機させられている問に派遣先は、競合他社との間で、面接をして、いくらで労働者を派遣できるか、料金の値踏みをしているわけです。競争入札によって、働き手の労働が競争にさらされることが、当たり前になりました。そして待機している間に時給が200円、300円と下落させられていく。それでも前の職場をやめているから契約を結ばなければいけない。こんなふうにして値崩れの運鎖のなかにあるのが派遣労働であり、時給は大幅に下がり、雇用期間も究極の値崩れとして、日々雇用やスポット派遣がひろがったという構造にあるわけです。

■非正規雇用の増大がもたらすもの

 1990年代の半ばぐらいから、非正規雇用が正規雇用を駆逐するという関係が成立するようになりました。400万人を超える人たちが、正規雇用としての職場を奪われています。その半面、これを上回る数の非正規雇用が拡大していて、この現象の構造をとらえると、正規雇用で働いている人たちが、非正規雇用で働いている人たちに対する差別の問題を自分たちの問題として取り組まないできたことが打撃を与えたのか、という構造が見えてきます。非正規雇用で働いている人たちと正規雇用で働いている人たちが、職場でいっしょに働くことが、めずらしくなくなりました。そのなかで、いろいろなコミュニケーション・ギャップ、差別の問題、暴力の問題が浮上してきています。

 同じ職場で、同じ役割、同じ労働に従事しているのに、待遇に格差があるということに対して、働き手はあまり敏感には反応できません。人間というのは、差別に直面したとき、怒りを瞬時に感じますが、生き延びていくために、いったんそれをおさめる、その差別を自分のなかで、飲み込んでいくという作業を、よく強いられるものです。

 私は自治体で働いている非常勤労働者の方と、意見交換したり、法律上のアドバイスをすることも多かったのですが、自治労が毎回、非常勤労働者からアンケート調査をしています。それを見ると、賃金の格差を刻印される賃金支給日には職場に行きたくなくなるとか、自分たちには支給されない一時金が正職員に支給される日にはほんとうに体が動かなくて、出勤できないと訴えています。貸金というのは差別の刻印であり、職場には必要ない存在なのだということを金銭で刻印していくという、非常に大きなダメージを人間に加えるものです。そのダメージと向き合いながらでしか、自分の生計を維持していくことができないという人間にとって、適度な向き合い方というのを、自分のなかで形成していくというのも、当たり前のことだと思います。

 アンケート調査では、気持ちを切り換えないと働き続けられないと多くの人が訴えています。それらの人の蔚を開きました。「気持ちの切り換えって、差別されている分だけは働かない、自分の力は発揮しない、ということではないのか。私もよくそうしてきたから」と言うと、「ほんとうにその通りです」という答えが返ってきます。そんなふうにして、自分のなかに、差別をぐっと飲み込んでいる。

 この差別に立ち向かっていくすれば、それはそれで、重い課題になってきます。私はよく、差別に挑んでいこうとする人たちから悩みを打ち明けられます。差別に挑もうとすると、職場の仲間から、必ずといっそいいほど言われるのは、「あなただからできるのよ。私は.関係ないわ」という言葉です。差別されている者同士の間で、孤立感を強いられる。そのときにどう言ったらいいのかと相談を受けて、「そうよ。でもこういうふうに挑んでいけるというのは、幸せなんだと、言ってやったらいいんじゃないの」と答えたことがありますが、なかなか苦しい。でも、それでも、差別を撤廃していくという流れが、脈々と引き継がれて、大きくなってきている、ということはたいしたものだと思います。これは文化運動でもあるし、人間として奥の深い問題を提起されていると思ったりします。

■雇用のダンピングは社会の衰退を招く

 正社負の既得権を剥奪して格差をなくし、競争を促進させようという八代尚宏さんのような考え方は、使用者側の考え方としては、必然性を痛感させられます。貸金を払う側から見ると、同じ役割と同じ仕事をしているのに、非正規労働者がこんなにも貸金が低くて、ダンピングできる。それに引き換え、正社員はコストが高くて、1人雇えば将来の生活展哩まで保障しなければならない、だからコストが増えつづける。同じ役割を果たしているなら同じ貸金、低位平準化にしたいが、正社員には労働法上できないので、そこで考えられたのが、成果主義や業績主義の導入です。

 多くの職場で、非正畢雇用化が進むと同時に、正社員には、どれだけ成果を上げたのかが問われるようになりました。正社員は、どれだけ働けるかの世界で、自分のプライドを維持しているという側面もなきにLもあらずですから、そのプライドがくすぐられます。そしてこのような制度を受け入れていくとなると、もはや雇用の姿を喪失させられる事態になってしまいます。なぜかと言うと、労働契約、雇用契約というのは、そもそも労務を提供すること自体が目的であって、結果を問わないからです。正社員に、労働関係上、結果によって支払うということが、プリオンのように埋め込まれると、もはや雇用としての姿を失って、労働法上の保護がきかなくなってしまう、という構造にあるわけです。

 派遣労働も、独占禁止法の適用を受ける商取引を内部に含むことによって、労働者保護が破壊されています。しかし、正規雇用も、雇用という契約関係のなかに、「結果」「成果」という法的にはなんら関係のない要素が埋め込まれることによって、法的な保護の基盤を失ってしまいます。私はこれを、非正規雇用については、労働の商取引化、正規雇用については雇用の液状化と呼んで、労働の破壊が双方から進んでいくと指摘してきました。その結果としての今日ではないのか、と思えてなりません。

 こういう事態が進行していくと、経済的な基盤を突き崩し、自治体財政も非常な危機に見舞われていきます。税金を納められない人が増えるからです。国の財政的基盤も損なわれますし、なによりも大事なことは人間そのものが破壊されてしまうということです。

 ハラスメントやコミュニケーション・ギャップ、みんなで仕事をする力の衰退、人間を破壊へと導いてしまう過大なストレスが、いま職場を覆うようになっています。そもそも差別というのは、未来に向かって働きかけていく力を人間から奪うものだと思います。その意味では、差別はフラストレーションをもたらし、人びとから生きる意欲を奪う。そのことが、使用者にとっても生産性を低下させるという深刻な効果を及ぼします。

 また、差別は暴力をもたらします。言葉による暴力だけではなく、現実の職場のなかでは、身体的な暴力が非常に多くなっています。暴力の結果として、1人が働けなくなってしまったとすれば、日本の政策では、この労働者に医者に行けというところにとどまります。しかし、この労働者は生活できないことによって、税金を払うことができません。医者にかかるので医療費を支払わなければなりません。医療費の7割は保険の財源から拠出されることになります。つまり、労働者が1人傷つき、倒れることによって、社会の大きな損失につながるわけです。

 労働者の人権が損なわれているということは、私たちの問題です。そういう視点で、社会が一致して、この差別と暴力、格差に挑んでいくという力をつくるということが、いま問われていることではないかと思います。

 労働における差別に関しては、労使の共通した、挑んでいかなければならない課題であり、そうでなければ未来はないと思います。差別の壁に挑んでいくということは、自分の内なる差別と闘わなければならない。そして、人びとと連帯するということも、求められてきます。闘いと連帯、これを統一して推し進めていくということは困難ではありますが、ぜひとも、そのような運動をつくりあげていきたいものだと思います。

著書

労働ダンピング―雇用の多様化の果てに (岩波新書)

労働ビッグバンと女の仕事・賃金

労働者派遣法の解説