講座・講演録

部落問題・人権問題にかかわる講座情報、講演録を各カテゴリー毎にまとめました。

Home講座・講演録>本文
2008.09.10
講座・講演録

世界人権宣言と企業の社会的責任

竹村 毅(産業医科大学顧問、元労働省官房参事官)


はじめに

 人権とは何か、差別とは何かと問われた時に、明確に答えられる日本人は少ないのではないでしょうか。その理由に、日本では法的にも公的にも人権や差別を規定していないことが考えられます。そういう意味で、日本人は言葉や概念に対して鈍感なのかもしれません。しかし、国際社会ではそれでは通用しません。

 例えば英語の"Liberty"も"Freedom"も日本語では「自由」と訳されますが、実際はまったく意味の違う言葉です。"Liberty"はフランス革命に謳われているような、法律の範囲内で認められる全てのことを行う権利という意味合いが強い言葉です。一方、"Freedom"は自分達の政府は自分達で決めるといった、束縛されない自由の意味合いが強い言葉です。このように他の国では使い分けられている言葉が、日本ではあいまいになっています。同様のことが人権にもいえるのではないでしょうか。

人権の国際的定義

 そもそも20世紀初頭には「人権」という概念は存在しませんでした。現在、人権を政策の中核に据えているILOも、1919年の設立当時は「人権」ではなく「社会正義」という言葉を使っていました。しかし、それが1944年のILO総会で採択されたフィラデルフィア宣言の1.労働は商品ではない、2.表現及び結社の自由は不断の進歩のために欠くことができない、3.一部の貧困は全体の繁栄にとって危険である、4.すべての人間は、人種、信条又は性にかかわりなく、自由及び尊厳並びに経済的保障及び機会均等等の条件において、物質的福祉及び精神的発展を追及する権利をもつ、という言葉で補完され、現在の「人権」に近づいたのです。そしてそれが翌年の国連憲章前文と第1条での人権の定義に、更に1948年の世界人権宣言と1966年の国際人権規約につながっていったのです。

差別の国際的定義

 差別とは人間の尊厳を侵し、平等を損なうことであることは明らかでしょう。重要なことは差別の根拠となる社会的区別が何であるかということで、これは条約によって異なっています。

 ILOでは人種、皮膚の色、性、宗教、政治的意見、国民的出身、社会的出身の7項目をその区別と定義しています。国連はこれに言語、財産、世系という3つを加えた10項目を定義しています。更にEUでは、国連の10項目に年齢、健康状態、障害、性的志向、国籍、少数民族、遺伝的特性を加えた17項目を差別の根拠となる区別として基本条約に定義づけしようとしています。

 これらの区別はそれ自体だと単なる個人の属性に過ぎませんが、それを根拠に不当な取扱いを受けた場合、制限や排除されたり、優遇されたりした場合に区別は差別になる、そしてそれは犯罪である、ということが条約に記された国際定義になっています。優遇も差別になるということは日本では分かりにくいかもしれませんが、縁故採用のような優遇は、特にアメリカなどでは強く禁止されています。

条約活用の可能性と限界

 国際的に規定されているに関わらず、日本で差別は犯罪ではありません。なぜでしょうか。それは日本が人種差別撤廃条約を批准しているにもかかわらず、その条約の中にある差別を犯罪だと規定する項目を留保しているからです。国連条約を批准しても、委員会で留保が認められれば、その項目だけ批准していないことになります。このようなシステムは、批准国の数を増やしたいという側面を持つ国連条約の限界と言えるかも知れません。日本政府はこの制度を活用して様々な条約で留保を宣言しています。

 このような国連条約に対して、ILO条約はまったく性質の違うものになっていす。ILOでは、条約として成立すれば、加盟国は無条件・無修正で必ず批准しなければなりません。更に憲章で、批准や履行に対して非常に厳しいチェック体制も採られています。例えば19条では条約を批准できていない場合、批准できない原因と批准に向けた努力を毎年報告する義務、22条では批准している条約の実施施策を報告する義務、23条ではその報告を自国の労使に批判して貰う義務を設けています。それ以外にも、条約が履行されていない場合は、当該労使だけでなく、他の加盟国も訴えを起こすことが認められているのです。

 また、国連は政府を拘束するのに対して、ILOは政府・労働者・使用者を拘束しており、条約の内容も国連より具体的なものが多いようです。従って日本において人権問題をもっと積極的に進めていく上で、ILOとの関係性を活用することも重要でしょう。

 しかし、この厳しい条件が日本の条約批准を遅らせるという逆の効果も生み出しています。例えば、強制労働廃止についての105号条約は、刑務所内での作業が条約に抵触します。雇用及び職業についての差別待遇に関する111号条約も、労働者の採用条件を差別にあたると規定しているため、日本の国内法との整合性がつかないということで、批准できていません。

 このような状況を考えると、突き詰めれば日本国憲法にたどり着きます。日本国憲法は20世紀半ばまでの人権基準を基に起草されているので、それ以降の新しい人権には対応できてないようです。

日本固有の差別-部落差別の特殊性

 差別について日本固有の概念があると思います。例えば、識字率が低いことや住環境が悪いなどといった実態的差別という概念です。しかし、これは差別の実態ではなく、差別の結果だと思います。なぜならそれらの実態を改善しても差別がなくならないからです。だからこそ差別の原因を究明して、それを解決していかなければなりません。

 また忌避する、無視するといった心理的差別という点においては、日本の部落差別は世界的に見ても特殊な差別だと思われます。国際的に定義付けられた差別では黒人対白人、女性対男性といった特定の属性を持つグループの社会的関係において、いずれか一方が制限や排除を受けるわけですが、部落差別はこの図式に当てはまりません。

 また、差別の根拠となる特性は、その大半が目で見てわかる違いであるのに対して、部落出身者であるかどうかは見た目では決して分かりません。それを出自まで遡ってまで、出身者であるかどうかを知りたいというのですから、その点でも世界的に類例のない差別といえるのではないでしょうか。

 これ以外にも、私が部落差別を特別なケースだと考える理由として、長い歴史の中で、原因が複雑に折り重なってきた重層的な差別であることや、同じ日本人という同一グループ内での差別であること、近代社会になって深刻化した点や人間の尊厳に直接攻撃している点、あるいは差別者の妄想に基づく差別であること等が列挙できると思います。

 国連ではインドのカースト制度と部落差別が世系に該当するとされていますが、カースト制度は宗教や人種、皮膚の色等様々な定義に当てはまります。しかし、部落差別はそうではありません。だからこそ部落差別は私たち日本人自らの手で解決するように努力していかなければならないと思います。

企業倫理と企業の社会的責任

 次に企業の社会的責任(CSR)について述べたいと思います。私は以前、労働省に勤めており、そこで人権問題に携わってきましたが、そこでの経験から考えても、日本では概念定義がかなり混乱しているようです。経団連の主張などを見ると、企業倫理を整備することでCSRを果たしていこうという意図が伺えますが、これは大きな間違いです。

 そもそも「倫理」とはギリシャ語のエートス(習慣)に由来する英語の"ethics"から翻訳された言葉で、本来の意味は道徳的なものではなく、特性・性質・気立てといったことです。つまりエートスを身につけることで形成される習性と、天性が合わさってできた性格を意味し、一時的な感情や冷静な知能とも区別されるもので、サラリーマン気質や職人気質等に代表される人間及びその集団の後天的性質を意味しています。従って、企業倫理とは、企業というものが長い間の習慣によって身につけた習性、独特の文化的傾向、行動基準等をはっきりと認識し、それを踏み外さないということになるでしょう。

 では、企業倫理を整備することで、企業の社会的責任を果たせるかというと、答えはNOです。昨今の経済界は、規制緩和を求め続けた結果、不正や偽装で摘発されるような会社のトップが中心となっているようですが、彼らだって企業倫理に反しているわけではありません。なぜなら企業の目的は儲けることに他ならないからです。この目的はこれからも変わることはないでしょう。しかし、その手法はどんどん変わり続けます。かつての日本は儲けるという企業倫理を全面に出して、高い効率性と強い競争力を武器に高度経済成長を実現してきました。現在、人件費の更なる効率化を目指して、生産拠点を国内から海外に移している企業も多いようですが、たとえそのことが国内の雇用を減少させ、低賃金労働者問題につながったとしても、企業倫理の観点から見れば何も問題はないということになるのです。

 しかしそのような形での企業の目的追求だけでは、結局は国内の購買力の低下を招き、長期的には利益をあげることにはなりません。その結果、企業も競争力を失うことになります。ですから企業倫理の普及によるCSRの実現という考えは間違いなのです。

 かつての企業間競争といえば同業他社間の単純な競争でしたが、最近ではそこに創造性や独創性が求められているように、競争構造も変化しています。これらを獲得するにはやはり創造性や独創性といった才能を持つ優秀な人材を集めるしかないでしょう。優秀な人材が集まる企業、つまりは労働者にとって魅力的な企業になるために、今日の企業は効率に人間性を、競争に社会性を加えることが求められています。そしてそれこそがCSRだと思います。

社会的貢献と社会的責任

 社会的貢献と社会的責任についても、整理しておきたいと思います。これらは言葉としては似ていますが、まったく意味は違いますので、ご注意ください。

 「社会的貢献」とは英語で"Social Contribution"といい、直訳すると社会的拠出、利益の配分ということになります。これは利益を上げて、それをできるだけ公平に分配し、税金を納め、安定した職場を提供し、自発的に社会的活動や文化的事業に取り組むことを意味します。しかし、これは言い換えれば当たり前のことです。公的社会保障の少ないアメリカでは企業が最低でも利益の5%を寄付という形で社会に還元しています。日本の企業の場合はほとんどがまだこの段階に留まっている段階ではないでしょうか。

 一方、「社会的責任」は"Social Responsibility"で、直訳すると社会的応答性になります。つまり、社会的要請や期待に対する企業や組織の応答能力のことです。EUはこれを、企業が社会及び環境に関する配慮等を、企業活動及びステークホルダー(利害関係者)との相互作用の中に自発的に取り入れようとする概念だと定義しています。

 また工業分野の標準となる国際規格を策定するための非政府組織である国際標準化機構(ISO)は、SRとは「社会及び環境に対して、自己の活動の影響について責任をとるという組織の行動。これらの行動は、1.社会の利益と持続可能な発展と整合性がとれている。2.倫理的ふるまい、適用可能な法律及び国際文書に基づくものである。3.組織の既存の活動と一体化したものである」と定義しています。

 整理しますと、「社会的貢献」が利益の分配を主としているのに対して、「社会的責任」はどういう手段で利益を獲得したのかという、企業の経営理念そのものを明らかにしていくことなのです。残念ながら日本でCSRといえば、環境問題だけが取り上げられているようですが、本来は成熟した社会における企業マネージメントなのです。

これからの企業の繁栄に向けて

 日本では「未来への責任」が語られることが多いのですが、「今ある社会の問題への責任」を果たすことも大切です。特に「格差社会」と言われる今日においては「雇用」という側面で人権を確立することが企業に求められています。労働者を、「人財」として認め、育てていくことが重要になります。そうやって確立された基本姿勢とたゆまぬ努力があれば、来るべき個の時代もその企業は必ず繁栄すると信じています。

著書