アイヌ女性の過去と現状
今回の活動は、アイヌ女性の歴史にとって初めてのことでありました。
アイヌ民族の歴史として、明治以降の日本の強制的な侵略・同化政策により、少数者となり、さまざまな面で過酷な状況に追いやられ、アイヌ民族の地位は低下していきました。そして、民族としての過酷な差別に加え、民族の中も男尊女卑の家父長制度の社会ですから、私たちアイヌ女性は、差別されるのが当たり前、地位が低いのは当たり前と、小さくなって生きてきたわけです。
劣悪な環境と貧困で、アイヌ女性には教育の機会均等がありませんでした。高等教育や職業訓練を受けることができなかったアイヌ女性が多く存在します。こういった状況に長く置かれたアイヌ女性たちは、人間として、ひとりの女性として、誇りや尊厳が奪われ、これは仕方のないことと受けとめていました。
マイノリティ女性たちとの出会い-複合差別の概念が届く
2002年、反差別国際運動日本委員会から、「マイノリティ女性に対する複合差別プロジエクト」に参加しないかと誘われました。私はこれまでウタリ協会でアイヌ民族の運動をし、アイヌ生活相談員としていろいろな差別の相談を受けてきましたけれども、女性として活動したことは、ほとんどなかったのです。
しかし私個人としては、女性としての差別、抑圧、不利益を感じて生きています。家庭の中で、学校の中で、職場の中で、またウタリ協会の中でも、たとえば、何か発言したいと思っても、男性に差し障りのないことならいいけれど、それ以上を越えて女性の権利を主張すると、「女のくせに」「だまれ」と言われてしまうものです。ほんとうにこの女性問題を何とかしたいと思っていました。
「マイノリティ女性に対する複合差別プロジェクト」に参加して、そこで初めて「民族差別と女性差別は重なるだけではなく、それが絡まったり強化したりして悪い状況におちいるのだ。そのことを解決しなければならない」と言われたとき、私は目の覚める思いをしました。このプロジェクトに参加したとき、初めて私たちアイヌ女性が主体者として活動できることがわかり、本当にすばらしいことだと思いました。
帰ってからその年、「アイヌ女性の複合差別問題フォーラム」を開催しました。そのとき「複合差別とは何か」という講演をしてもらいました。その後、私たちの仲間に自らの被差別体験を語ってもらいました。何時間も、私たち同胞として聞くのがつらいほどの、過酷な被差別体験ばかりでした。終わった後も、フォーラムの中で話ができなかった人たちが私に被差別体験を話しにきました。
普段、私はアイヌ生活相談員として、子どもが学校へ行くのにお金がないとか、生活費がないとか主に生活の悩みを聞いてきました。十数年もこの仕事をしてきましたが、そんな女性としての被差別体験を聞くことは、ほとんどなかったのです。このような場所をつくってみて初めて彼女たちは語ることができるんだとわかったのです。そういった過酷な体験を、「家族も悲しむから誰にも話をしないつもりでいた。墓場までもっていこうと思っていた」とみんな言うのです。
女性差別撤廃委員会日本政府報告書審査会への参加
つらい体験をたくさん話してくれた女性たちに、「このことを必ずニューヨークの女性差別撤廃委員会にNGOレポートとして出します」と言いました。具体的なことは出せませんでしたけれど、「アイヌ女性は教育の機会がない」ことを書き提出しました。
当初は、とてもニューヨークまで私は行くつもりはなかったのです。旅費の心配もありました。文化交流では外国へ行ったことはありますが、国際会議に出て自分たちのことを訴えるというイメージも湧かなかったので、反差別国際連動日本委員会にまかせておけばいいと思っていました。その後、何度も「当事者が行くことが大事だ」と言われたので、とうとう1カ月前ぐらいに決心して、2003年7月、ニューヨークの国連本部に行きました。
マイノリティ女性としては、私と部落解放同盟の山崎さんが参加しました。そこで本当に多くのことを学ぶことができました。まず、アイヌ女性だとわかってもらうためにアイヌの衣装を着て行きました。ロビーイングの一環として、原由利子さんたちは精力的に、委員の人が歩いているのをつかまえて日本からきているマイノリティの当事者です」と紹介してくれました。そのたびに私は、「私たち日本のアイヌ女性は、たいへん困難な状況にあります」とアピールしました。ランチタイムブリーフィングのときもしました。
実際、審査があったとき、日本政府の報告の後、委員から質問がされました。そのとき、マイクを通しての通訳で、私たちは後ろで聞いていたのですが、はっきりと「アイヌ」「日本のアイヌ民族」という言葉を何度か聞きました。私は感激で涙が出ました。国連の場で、具体的にアイヌ女性のことが審議されている、がんばってよかったと思いました。
帰ってきて1カ月後、マイノリティ女性のことに関して懸念と勧告が出されたわけです。歴史上初めてのことだと言われました。それが追い風となって、やればできるんだ、という気持ちになりました。
自分たちの手で実態調査を行う
実態調査の設問では、共通設問とアイヌ民族の差別・文化伝承に関することを70項目以上つくりました。
北海道は非常に広いです。調査遂行のためにはやはり組織の力が必要と思い、アイヌ民族最大の組織であるウタリ協会に依頼をして、協力を得ることにしました。最終的にウタリ協会の14支部、それと1地区で実施しました。いくつかの支部には、調査を断られました。事前にアンケートを送って調査の依頼をしましたが、その設問の内容に心配になったのでしょうか。その決定をしたのは男性だと後に聞きました。今後は男性にも意義をしっかり伝え、調査できるようにしたいと思います。
広い北海道を10月から2月まで調査するのは、真冬ですから、たいへんでした。12人の女性が2人1組になって、実態調査を行いました。まったく初めての試みです。
政府や行政に訴えていくためには、数字やデータが必要なんだ。アイヌはたいへんだと言っても、誰と比べてたいへんなの?何がたいへんなの?と言われてしまう。「数字で表してください」と言われたので数字がほしいんだと説明し、一生懸命やりました。
一緒に調査をやった女性たちは、私よりも若い人たちは2、3人いましたけれど、あとはほとんど年上なのです。いままで差別ばかり受けてきたフチ(おばあさん)たちが、実態調査って何かわからないけれど、汽車や車に乗って遠いところへ行けるからという感じで、楽しい気分で2人1組で出かけます。実際に、みなさんに調査票を渡し、意義を説明して、書いてもらったりすると、それまでの楽しい気分と違うような感覚をもったようです。みんなが質問してくれたり、「すごいことやっているね」と言われたりしました。みんな帰ってきて「やってよかったわ。みんな喜んでくれたよ」と報告してくれきした。
数字やデータもほしいけれど、調査をやる私たちが、自分たちで自分たちのことをやりきったという経験によって自信を身につけ、こういう運動を通じて、連帯感やネットワークづくりができるのだなあと実感しています。
アイヌ女性のエンパワメント
調査の後に3団体がそれぞれ報告書をつくりましたが、ただ報告書はデータの数字ばかりでつまらないから、アイヌ女性たちががんばったことを文章で歴史に残したいと思い、『ウコパラルイ』という本を今年(2007年)の2月に出版しました。「ウコパラルイ」はアイヌの言葉で「しゃべりあう」という意味です。原稿を書いてもらうことは難しいので、今までどんな活動をしたか、どんな思いで参加したかという内容で座談会をし、まとめました。それが大成功でした。水を得た魚のように、みんなしゃべる、しゃべる。その後、隔月ごとに座談会「ウコパラルイ」を開いています。ルールを決めて語り合うこのエンパワメント・カフェに集まるのを、みんな、たいへん楽しみにしています。
3月2日、東京で報告集会がありました。そこにアイヌ女性たちは、積(つ)もり貯金して自費で行きました。アイヌの伝統衣装を着て省庁交渉をしてみたい、議員会館へ行ってみたい、という思いの人もいました。一方、東京のアイヌ女性に「何であんな衣装着てくるの。はずかしい」と言われました。どっちがいいのかなあと考え込んだのです。でもこのことから、みんなの張り切っている気持ちが伝わるのですから。以前はアイヌであることを絶対に知られたくないと言っていた人も一緒に来て、私が演壇の上でしゃべっていると、「私もしゃべりたい」と言ったというのです。
エンパワメントとは「本来自分が持っていた力に気がつく」ということだと森田ゆりさんの著書に書いてありました。私たちアイヌ女性は差別、抑圧されても仕方ない、バカにされても仕方がないとずっと思っていたために、いろんなことが発揮できなかったのだということが、この1年間の活動でわかったのです。アイヌ語で「神様」のことを「カムイ」と言のですけれど、カムイが見守ってアイヌ女性を導いてくれたのだなあ、ここまでこれたんだなあ、という気がしています。
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