みなさん、こんにちは、園田です。
最初にお話をしておきたいことが1つあります。それは、ある小学校でのことです。私の考えも含めてお話します。ひとりの女の子が入学し、背中に黒いランドセルを背負って、毎日、通学を始めました。教室へ行くと、「男みたい」と。学校の行き帰りも他学年から中傷を受けます。「女は赤のランドセルちがうんか。うわー、お前のだけ変なの。」と。そういうことが日々重ねられます。
家に帰って、相談します。家の人も学校に相談に行きまして、担任が対応します。担任は学校で、一年生の教室で子どもたちに精いっぱい説明をします。しかし、悲しいかな、なかなかうまく届かない。他の先生にも相談します。そして、もらったアドバイスをそのまま教室へ持ち帰って、一年生に話をしますが、いっこうに問題は解決しません。その子はとうとう学校へ行けなくなって、保護者は悩んだ末、学校、変わろうか、それしか道がない、ということで、実際に学校を変わってしまいました。
なぜ、黒いランドセルを背負っていたのか。その子には3歳上のお兄ちゃんがいました。小学校に入学しますが、実際に、ランドセルを背負って学校へ行けたのは、わずか1回。すでに小児ガンにおかされて非常に重篤な状態にあったわけです。2回目のランドセルを背負うことなく、この世を去ってしまいました。妹が大きくなって入学。晴れの入学だから、新しいランドセルを買おうよ、と勧めましたが「この黒いランドセル背負って、私、学校へ行く。大好きなお兄ちゃんと一緒に学校に行く」と妹は強く望みました。周囲も、ならば、ということで、見守ったわけです。しかしながら、その子の願いが無惨にも、つぶされてしまったわけです。
ところが、転校先の学校では、最初は、やはり違和感を持ったのか、子どもたちから声が上がりました。担任が保護者にたずねます。「きっとわけがあるんだと思います。よかったら黒いランドセルのわけを教えて下さい。」家の人は兄のアルバムを広げながら、経緯を語り、それを担任は学校へ持ち帰り、会議でその内容をきちっと伝えました。すると「これは貴重な学習材じゃないか。学校をあげて、このことにつながる取り組みをしよう」ということになりました。保護者も胸をなで下ろし、その女の子は、胸をはってお兄ちゃんと学校へ行けるということが続いています。(参考・毎日新聞2002年6月28日)
後者の学校は学校をあげて、一人ひとりの子どもを大事にする教育を基盤にすえた実践が、日々なされています。ですから、黒いランドセルという事象は、まさしく既成のテキスト、副読本、教科書を越えた、子どもたちにも内的必然性のある学習材にされたのでしょう。結果的には、周囲の子どもたちもステップアップし、その子自身も快活に学校に行けるようになったということです。同じ公立小学校です。この温度差は何なのでしょうか。
同和教育、あるいは人権教育というのは、1つの引き出しなんだと。教育というものは、いろいろとたくさんの引き出しがある中で、同和教育、人権教育という引き出しが1つあると言われます。とんでもないことですよ。同和教育、人権教育というのは、教育の基盤そのものです。1つの引き出しなどと思わないでください。
数学の授業の最中も、体育の授業の最中も、休み時間も、給食中も学校の行き帰りも、人間が生活している限り、同和教育・人権教育というのは、常に生かされねばならない。そう思えてなりません。
特に今日的には、学力問題、とりわけ基礎学力、つまり基礎的な知識や技能の習得ということが、大流行時代にあります。これ、5年後もそうなのか、10年後もそうなのかと考えますと、絶対そうだと言い切れる人は少ないと思います。なぜなら、世界的潮流から言いますと、日本のように時間をかけて繰り返し反復練習をもって、という流れとは大きく異なっている、というのが事実です。
基礎学力というのは反復練習によって、定着する子どもは10人のうち何人いるでしょうね?そういう子どもたちというのは、反復練習しなくても1回で、さっと吸収してしまう力をもつ子が多い。とりわけしんどい子どもにとっては、反復練習は、その定着率は極めて低い。剥落現象。数カ月もすれば、剥がれ落ちてしまう。テストをしたときには、まあまあよかったのに、という問題が多いわけです。
つまり、基礎的な知識や技能というものは機能的に習得される、ということが、いわば学問的世界の中では定説、世界的潮流からも言われています。「機能的」とは言い換えれば「使うことによって」ということです。生活の中で使う、学習の中で使う、困っている仲間に向けて使う、そういうことを通じて剥がれ落ちない、身についたものになっていくんだ、ということです。
「機能的に」ということで言えば、もっと大きな枠組みがあります。さまざまな日々の生活や総合学習というものに注目したいと思います。とりわけ総合学習では実際に使わざるを得ないわけですからね。使う必然性もある。そのことを、私たちは、もう一度、肝に銘じておかなければならないだろうなと思います。
1.「集団的自尊感情」をはぐくむ
いずれにせよ、今子どもたちにとって、課題になっているのは、1つは「豊かな学力」の形成です。もう1つは「人権感覚」の育成です。この「豊かな学力」と「人権感覚」の2つがそなわれば、まさに「鬼に金棒」。これほど有力なものはないわけですよ。
じゃあ、教師はたいへんだ。学力の保障も、豊かな人権感覚も育まなければならない。そうでなくても忙しいのにと、こうなるのでしょうか。
私は、それは発想として、ちがうと思う。むしろ、その重要な2本柱が、クロスするところを、きちっと押さえさえすれば、子どもたちの中に、それらは育まれていくものでしょう。
そのクロスするところの押さえとは、1つは、子どもたちの集団の力というものを、強く厚く信頼をして、日々、それの形成に取り組んでいくこと。もう1つは、個々の子どもたちの自尊感情というものを相互に育むこと。これらを結んで、これは私の造語ですが「集団的自尊感情」を育むこと。これが、いま求められているのだと確信します。
集団的自尊感情の形成というものを、どの場面においても、教師が、あるいは地域・家庭のさまざまな人びとが、いつも背中に背負いながら、息を吸い暮らしておれば、結果として、人権感覚と学力づくり、両揃え、子どもたち自身が相互に育つと考えております。
そんなようなことを、きょうは、時間をとって具体的にお話させていただきたいと思います。
日本の中学生2000人に、元慶応大の河地和子さんが2003年にアンケート調査しました。あっと驚くような結果が出ています。
「自分が過保護だと感じている」中学生は、何パーセントぐらいでしょう?反対に親が自分に無関心だと感じている中学生は、何パーセントでしょう?「うちの親は過保護だ」と感じている子どもは、6パーセント弱なのです。逆に「無関心、もう少しこっちを振り向いてよ」そう願っているのに、いっこうに保護者は無関心だ、と思っている中学生が、60パーセントもいるのです。
私は、目を疑いました。これ、数字が逆転しているんじゃないか、と。確かめましたが、事実です。でも、保護者にすれば「いや、うちの子を大事にしていますよ。」「過干渉にはならないように、適切に対応しているはず、サービスもしているはずだ。」と言いたいでしょうね。ところが、本人である子ども自身は、自分の押してほしいツボを押してもらえてない。親が押しているはずのツボと、子どもが押してほしいツボのズレが、こういう数字になる。この数字は、単に数字で留まるだけじゃなくて、いろいろな事象となって現われていると思います。
保護者の命を奪ってしまう、あるいは家を焼き尽くしてしまう。まったく関係のない人の命を奪うなどなど……。若者が起こす事件がいま大きな社会問題になっているところです。秋葉原で起こった連続殺人事件の容疑者も「どうせ、おれなんか。」「しょせん、自分なんか。」という思いにかられていました。大阪教育大学附属小学校で一瞬にして8人の子どもたちの命を奪ってしまった加害者もそうでした。
自尊感情を奪われている子どもは、学習に関しても「どうせ」「しょせん」ということで、生きる意欲の芽すら自らはぎ取ってしまっている状況にあります。
2つめのデータ。これも興味深いので示しました。愛知県の高浜市というところで、2002年おこなわれた調査です。これも見て愕然としました。子どもに聞くんです、「あなたは今、自分のことが好きですか。」と。すると17パーセントの子どもが「好きです。」「どちらかといえば好きです。」と答えています。17パーセントですよ。10人に2人もいないのです。数から言えば、非常に低いですよね。
一方、その保護者たちに聞きました。「あなたのお子さんは、自分のことが好きだと思っているでしょうか。」「うちの子は自分のことを好きだと思っている。」と答えた保護者が、なんと56パーセントです。親が見つめている子どもと、本人の子どもとの、これまた3倍以上の大きなギャップですよね。教師と子どものギャップも否定はできないと思いますが、家に帰っても自分に対して、何かモヤモヤを引きずっている子どもたちが年々増えているのは事実です。これは、社会的経済的問題も大きく反映していることは確かでしょう。また、一方で、狭い意味での学力ということが、あまりにも声高に叫ばれて、その中で脱落せざるを得ない。学びから逃走する、と言いますけど、逃走させられているんですからね。
こういうデータが示している子どもたちの叫びを注視しながら「自分っていけるやんか。見捨てたもんじゃなかった。先生だって応援してくれているし、友だちだって何か自分のことをすごく大事してくれる。そういう自分をもういっぺん大事にしなくっちゃ。」という思いを再度育み合いたいと思えてなりません。子どもたち自らが「今を生きる自信と、明日につながる希望。」この2つをむくむくと育むためには、やっぱり自尊感情がキーワードだな、と強く思います。
先日、ある県に行きました時に「先生がおっしゃる自尊感情というのは、これは自己肯定感ということと一緒と考えていいんですか。」と、ひとりの校長さんがおっしゃった。「いや、もうおっしゃる通りです。私は言葉の響きとして自尊感情というのが大好きですから。」と言いました。そしたら、校長さんが言われました。「私は自己肯定感という言葉が、好きなんですよ。なぜならば、自己肯定感というのは、セルフ、『自己』という意味のセルフ。もう1つは漢字で自分の『自』と学校の『校』を書きまして自校肯定感。自己肯定感と自校肯定感というのは、一対のものだと考えておりますから。」と。これは、なかなか駄ジャレた考えだな、と思いました。自己肯定感という言葉も、そのように使えばいいかなと思いました。
子どもたちは、自分が好きになれば、周囲の仲間も先生も、ひいてはこの環境である学校も好きになる。その前提は、やはり学校や周囲が自分を大事にしてくれる、という事実と実感が持てるかどうかにほかなりません。この学校いいな、と感じる気持ちの中で、だんだんと、そこで育まれている自分というものに目覚め始める、ということです。
これから自尊感情の話を中心に進め、そしてそれを、集団的形成ということになって、やっと本物の自尊感情というものが形成されるんだ、ということを具体的に話させていただきたいと思っているところです。
2.いま子どもたちは2つのことを「~がっている」
2006年、栗山千明という女優さんの顔が大写しになったテレビコマーシャルが、夕方の時間帯によく流れました。彼女は、こう言います。「命は大切だ 命を大切に そんなこと何千何万回と言われるより」。この次に1行の言葉が入りまして「誰かがそう言ってくれたら それだけで生きていける AC公共広告機構」。
このCMを初めて聞いた時、ええこと言うてるなあ、と思いましてね。晩ご飯食べているときに、ふと見たコマーシャルですが。これは、メモしなくては、授業のネタにも使えると思いました。「命は大切だ 命を大切に そんなこと何千何万回と言われるより」。これは、はっきり言いまして、現代教育批判ですよ。学校で、あるいは親から「命、大事にせい。人権、大事にせんかい。いじめしたら、あかん。お年寄り大事にせよ。下級生を大事にしろ。動物・植物・環境も大事にしなさい……。」と。ぜんぶつながると思いますが。まあ、象徴として「命」という言葉を入れているんでしょう。
「命は大切だ 命を大切に そんなこと何千何万回言われるより」。その次のカギかっこの中に入る言葉を、あえて空白にしましてね。子どもたちにプリントを配ったらどうでしょう。「ねえ、みんなだったら、ここに、どんな1行がほしい?」「だれかが、こんな1行を言ってくれたら、それだけで生きていける、そんな1行書いてよ」ということで、あるときプリントを配りました。すると、まさに、その子ならではの、その子にしか書けないニーズ、1行が書き込まれてきました。
CMの中で栗山千明は、このように語っています。「命は大切だ 命を大切に そんなこと何千何万回言われより あなたが大切だ 誰かがそう言ってくれたら それだけで生きていける。」つまり、あんたが大事やねん、あんたなくてはならんわ、あんたがいてくれるだけで何かいい感じ、落ち着くねん。誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける。自分はもう自ら命を絶つこと、自死の道を選ぶこともなく、あるいは、いじめ心がわき上がってきたとしても、いやいや、自分が大事にされている限り、その気持ちは相手にも伝えなくっちゃ。まさに、自分が大事であると同時に、ほかの人も大事だという感情がこみ上げてくる。その付け根のところには「あんたが大事やねん」という言葉につながる、すべての言葉や表情や行動が関係しているのですよね。そのようなメッセージをもらった本人は、結果として、自尊感情が大きくはぐくまれるんです。
「自分って、見捨てたものじゃなかった、自分って、こんなに見てくれている人がいる、このように評価してくれている人がいる、だから……。」というふうになるわけです。これ自尊感情がはぐくまれるときの、強力なメッセージだと思います。
そのようなメッセージをもらった本人は、自分だけがぬくぬくと自尊感情を太らすんじゃなくて、次に思うことが必ずあります。それは「このように自分を大事に思ってくれている、その人を恨むわけにいかない、泣かすわけにいかない、裏切るわけにはいかない、その人を大事にしなくっちゃ、その人の横にいる人も、その向うにいる人も大事にしなくっちゃ。」ということ。健全な自尊感情です。
じゃあ、そのような健全な自尊感情というのは、どういうふうにして、はぐくまれていくのか、ということを、少し図で示します。
ぼくは自尊感情という言葉を持ち出すまでもなく、今の子どもたちは大きく求めているものが、2つあると思っているんですよ。つまり「~がっている」ものが、2つあると思っているんです。物欲としてではないですよ、物的には今の企業戦略でもって、いっぱいほしいものがあると思いますが。内面において求めているものは、2つあります。
それを座標軸で表わしますと、非常によくわかります。1つ、求めているもの、それは「自分のことを認められたがっている」ということ。自分のことを認めてほしい、振り向いてほしい。熟語でいえば「承認」です。もう1つは「自分のこと、話したい。聴いてほしい」ということ。「表現」です。
「承認」と「表現」というのが、満たされている子ども。それは、ここにいる子どもですよね。座標でいうところの第1象限。第1象限にいる子どもは、まさしく認められたがっている自分のことを認めてもらえているのです。さらに、自分の話を聴いてもらいたがっている、その表現も満たされているところ。まさに、ここはプラス・プラスのステージです。ここが、みなさん方の教室であれば、授業中、自分を認めてくれる、あるいは自分の話にうなずいてくれる、そんな授業であれば、非常に居心地のよい授業ですから、子どもは学習意欲も出て、「え?この子がこういう顔をしてこんなことを発言してくれるか。」という感動的な授業が生まれると思うんです。
一番しんどいのは、第3象現にいる子どもです。ここは、まったく逆のマイナス・マイナスの場所です。ここは、認めてもらいたがっている自分を、いっこうに認めてもらえないわけですから。熟語で言えば「否定」や「無視」される世界でしょう。そして同時に、「表現」の反対は、言いたいことも言えない雰囲気ですから、「抑圧」と言っていいですね。抑圧世界です。
このステージは、しんどくて、しんどくて、自分が押しつぶされてしまう。その結果として閉じこもってしまう、引きこもってしまう。元気な子どもたちなら、この世界から飛び出したくなる。飛び出すことを大人たちは「逸脱行動」と言いますが、本人がいたたまれない世界にいるということでしょう。
いずれにせよ、子どもたちとつきあう限りは、どの子どももこの第1ステージに連れ出して、そこでともに学び合い高まり合いたい。授業もここをめざしたいと思います。
この第一象限にいる者は、結果として自分が大事にされている。だって、ちょっと発言した言葉を、先生も受けとめてくれて「しまった、間違ったことを言った。」としても、嘲笑、笑いの対象とされるのではなくて、「いや今のこれ、こういうことを言いたかったんじゃない?」ということで、先生も仲間もフォローしてくれる。そういうわけですから、自分のまちがい、誤答に対してでも、きちっと耳を傾けてフォローしてくれる世界というのは、ここにあるわけですから。
「教室は、まちがうところだ。」なんて言っておきながら、教師はそんなことをまったく出来ずに、あるいは、まちがったときには、妙な表情を一笑とともに返してしまうということになれば、スローガンは一挙に壊れてしまって、子どもにとっては「やっぱり。これから少々のことは言わないでおこう。」となってしまいますよね。
ちょっと「居場所論」の話もしておきたいと思います。今、よく「居場所」という言葉が言われます。「居場所」とは、「子どもたちにとって、自分のことを認めてくれる場所」「自分の話をきいてくれる場所」、よく考えれば、そうじゃありません。「自分のことを認めてくれる人」、「自分のこと、自分の話に耳を傾けてくれる人」がいるわけです。この第1ステージには。人がいるわけですから「居場所」というより、重要なのは「居人」だと思います。私は、まず第1ステージは「居人」だと思います。自分の話に耳を傾けてくれるクラスメート、あるいは担任、ひいては家の人、親戚の人、近所のおじちゃん、隣のおばちゃん。自分のことを認めてくれる、話もうなずいて聞いてくれる。それ「居人」なんですよ。「居人」がいるところが、結果として「居場所」になるわけです。
そういう意味で、私たちは、クラスでしんどいAさんは、いったいこのクラスで何人の「居人」を持っているだろうか。何人の「居人」と出会うような環境を、教師として担任として、整備できているだろうか。これが、問われていると思います。
まず、担任である自分自身が、あのAさん、Bさんの「居人」たり得ているのかどうかということだと思います。Aさん、Bさんにとって、その「居人」が1人より2人、2人より3人と増えていくと、だんだん、自分の思ったことが言えるし、何か勉強やる気が起こってきた、ということになりますよね。
ただ「居人」という言葉はどの辞書にも載っていません。「居場所」は載っていますが。なので「居人って、これ、ちょっと耳慣れない言葉だなあ。違和感あるなあ。」と思われる方は、その言葉の前に「個人的な」という意味で「個」という字を付けますと、それぞれにAさんの個人的な「居人」、Bさんの個人的な「居人」となります。
これをつなげると、「個居人(こいびと)」となります。あんまり受けませんね。(笑)
やっぱり、子どもは「居人」「個居人(こいびと)」を求めている。私たち自身がAさんBさんにとって「個居人(こいびと)」たり得ているだろうか、あるいはAさんBさんにとって、すぐ横に「個居人(こいびと)」を何人つくれているか、ということが、結果として、質の高い集団をつくる。
その質の高い集団が、質の高い授業を成立させるんですから。集団の質が、授業の質を大きく規定する。これは、当然のことです。集団の質が高まることによって、その授業の質が高まっていくわけであります。この相関は、崩すことはできません。そういう意味で、大切なのは「居人」なんだろうな、と。
この「居人」が豊かに存在する教室をつくるために、私たちは、教師が、第1発信者でありたい、と思います。「あんたが、大事やねん」という、先ほどのCMで栗山千明が言っている言葉の第1発信者は、やっぱり教師だ。そして、それがやがて子どもたちに伝わり、子どもたちが子どもたちに伝える、ということになってくる。だからといって、教師が何でもかんでもやらねばと思っても、この時代、無理です。教師だけで自己完結できません。30本の棒を立てて、その上にお皿を回し、30本の皿回しを1人の人間がやろうなんて、それは、不可能なことです。こっちの皿が止まりかけてきたら、またこっちも。フラフラになるわけです。そうではなくて、イメージとすれば、お皿同士が接近してお互いが回り合うような、そういうイメージになるためには、やっぱり子どもたちがつながって、お互いが学びあう、高まりあう、かかわりあう、という関係性を、どう私たちが構築するか。それを構築するための環境整備人として私たちは、どう暗躍するか。コーディネーターの役割ですよね。それが今日的な教師の役割として、大事だろうと思います。しかし、第1発信者としての教師の役割は否定できないけれど、ということです。
自尊感情も、そうです。たとえば、私はよく授業を見せてもらいますが、教室の小さなことを見ています。担任がキャッチできない子どものつぶやきが聞こえてくるときがあります。たとえば、ある子どもがポロッと素敵なつぶやきを発します。それが担任には聞こえていません、私には聞こえています。すると、隣の子が「それ、手をあげて、言い、言い。」と、つぶやきを発した子どもにうながす場面に遭遇します。すると、本人は自信が出てきて、発言となる。つぶやきが埋もれてしまわず、発言として生かされる。仲間のひと言でですよ。すごいことです、これ。発言した子は、うれしく、同時にうながした子も、自分がうながしてよかった、となります。こういう些細なことの積み重ねが、私は、とても大事だと思っているんです。
そんなことが、結果として「つながる自尊感情形成」つまり「集団的自尊感情の形成」へと高まっていくことになるわけですから。
3.大切にしたい 凹型状況の子どもたち
この自尊感情というものについて、もう少し踏み込んで、きょうは復習を兼ねてやっておきたいと思います。
自尊感情というのは、大きく2つに分けることができます。ひとつは「健全でない自尊感情」=「危ない自尊感情」です。この危ない自尊感情を、自尊感情と言わない、カテゴリーから外す人もいますが、あえて私はこれも象徴的に、とりあげておきたいと思います。
「健全でない自尊感情」、これは自分のことをすごく大事に思っています。他者から「あなたが大切だ、すごいね、さすがや」という価値を、なかなか付与されずに、結果として自分からばっかり周囲に「私って、こんなにイケている!」と発信します。周りからすれば「あの子、自己チューやんか。」と。まともに言えば、歪んだ自己愛そのものです、これは。なぜなら、自分の優位性は誇示しますが、同時に他者を見くびったり見下げて、自分の優位性を誇示してしまう、ということになりがちです。世の中ではよく「あの人は自尊心の固まりね」「あの人はプライド高いからね」と言われるのは、そういうことでしょう。
乳幼児期から、まさしくチヤホヤともてはやされて、周囲から本当に共感のもとにプラスメッセージを送られていたわけではなくて、またバシッと突っ込まれたこともなくて、折れずに細く細くきたからでしょうね。
私たちは、ですから、こういう歪んだ自己愛、健全でない自尊感情を育てようとは最初から思いませんが、この本人にとっては、他者からのプラス・メッセージがまったく閉ざされているために、ある意味で劣等意識の裏返しとして、ついつい自己発信せざるを得ないということです。放置はできないと思いますが。
大事なのは「健全な自尊感情」です。では、これは、どうしたら育まれるか。私は、この自尊感情につきましては、若者言葉、中学生や高校生の言葉で言えば、「イケてるし」という「イケてる感覚」、それを自尊感情というふうにつなげてもいいだろうと思います。もう少しまじめに言いますと、自尊感情というのは、「単なる自信ではなく、自分の存在そのものに対する揺るぎない自信」であると思います。単に英語がよくできる、数学の点がいいとか、そういう単なる自信ではなく、自尊感情というのは、自分の存在そのものに対する揺るぎない自信、ということであろうと思います。
それでは「イケてる感覚」の反対、対極は何か。それは「どうせ、おれなんか」「しょせん私なんか」という気分です。「しょせん」×「どうせ」=「オワってる」ですよ。「オワってる感覚」です。かつては中学生、高校生がよく口にしましたけど、今は小学生でもよく使いますよね。さらには、幼稚園の子どもにまで伝播しています。「もう、おれってオワってる。」と。幼稚園の子どもがスコップ投げながら砂場で言います。たまたま、私は、その言葉をキャッチしましたから、近づいていって、「オワってる?お前さんなんか、まだ始まってもいないゾ。」と言いたかったんですけど。何かそういう実感を乳幼児期から持たざるを得ないという土壌があるんでしょうか。
「オワってる感覚」にさいなまれる子どもというのは、自尊感情ではなく自己差別感情をいだいています。自分で自分を差別し、自分の人生を肯定できない者が、どうして社会的に存在する差別に対して本気で立ち上がることができますか。その子どもたちにとっては「もうオワっているし。」というのは、もうすでに学びのシャッターを下ろしているわけですからね。そこへ私たちが、学習材を吟味して、世の中には、歴史的にも、このような許せぬ現実がある、みんなどう思うか?と突きつけたとしましても、シャッターを下ろしている子どもにとっては、まさに単なる一情報でしかなく、シャッターからポンと跳ね返るだけのものとなってしまうわけです。
そういう意味で言えば、やっぱりシャッターを上げてもらうような、自分ってそうじゃなかったんだと、そういう感情との再度の出会い。これは、欠かせないことだと思えてなりません。
「健全な自尊感情」は、また2つに分けて考えるということが適切だと思います。 1つは「状況的自尊感情」と言われるものです。もう1つは「核心的自尊感情」と言われるものです。
「状況的」というのは、こういうことです。図示すれば、Aさんはふくらんだ状況にあります。何か突出している所があるわけです。秀でているところがあるわけですよ。そこへ他者が「すごいね、上手やね」「よくできるね」とか「すてきね」とか「すばらしい」と言う。そう言われると、他者からのプラスメッセージによって、本人の「状況的自尊感情」はますます育まれるであろうということです。
だから、小学校中心に、友だちのよいところを探しましょう、という路線が流行中ですが、これは、まさにそれですよ。「よいところ探し」という路線は、「状況的自尊感情」をはぐくむための1つのノウハウということで、今、全国津々浦々、重視されていることですよね。
私が一番言いたいのは「状況的」というのならば、どこかが秀でた凸型だけではない。凹型の状況も忘れるな、ということです。Bさんは、自分のここが凹んでいるから、自分のことが好きになれない、自分の存在そのものに対してもシャッターを下ろさざるを得ない。そういうBさんにこそ、私たちはおとなとして、教育のプロとして「とんでもない、すごいやん、Bさん。」とプラスメッセージを送りたいものだと思います。
凹んでいる、マイナス側面にプラスのメッセージ、プラスのストロークを。これは、かたちの上では矛盾します。かなり無理なこと。しかしながら、かたちの上で、形式論理の上で矛盾することなのに、現実に生み出している事実がある。ですから、ぼくは教育実践の事実というものは、かたちを越えてしまうところがあって、やっぱりすばらしいと思っています。現場実践というものは、いわば臨床の知と言われるものでしょうね。子どもと織りなす事実というのは、やはり形式論理を越えてしまうんですよ。
凹型について、もう少し具体的にイメージしてもらうために、例を挙げます。たとえば、これは学生に尋ねたわけですが、自分の小学校時代を思い出してもらったとき、ある男子学生は、こんなことに書いてくれました。
これは小学校低学年のときの体験です。22歳の学生です。
「ある図工の授業のとき、紙粘土でものをつくるとき、ぼくは城をつくろうとがんばっていた。だが、できあがったのを見た友だちに『城に見えへん』と言われ、大きなショックを受けた。そのとき担任の先生が自分に、『すごいね、これ。君の考えている世界が小さくなって表われたね』とほめてくれた。あまり、うまく城を表現できていなかったけれど、担任の先生は、その城を、ぼくの個性から生まれた、ぼくの世界だと認めてくれた。」
これだけのことです。しかし、そこには大きな事実が編み込まれてますね。
紙粘土でお城をつくったんですよ。「できたかな、いまいちやな。」という思いがあったかもわかりません。そのとき、すぐ横から「こんなん、お城に見えへん。」と、きたわけですよ。やっぱりなあ、自分は苦手だ、と思って凹んでいるところへ、仲間からマイナスのメッセージがとんでくると、ますますダブル凹み状態になりますよね。そこへ担任の先生が、机間巡視にやってきます。「君、これ何、つくったの?」「お城です。」「あっ、お城か、ふーん。まだ20分あるからな、がんばりなー。」なんて、やりがちですよね、励ましているつもり。でも、子どもにとっては「さよか」ってもんですよ。
この先生は「すごいね、これ。」と倒置法できます。次に「君の考えている世界が、小さくなって表われたね。」これ芸術的にすぐれているという観点というより、むしろその子どもの目線に立って、そのオブジェを見つめているうちに、Bさんワールドがここにかたちとなっている、ということが共感されたんだと思います。「ほめる」んじゃなくて、やっぱり「共感」ですよね、大切なのは。シンパシィーです。共感の結果、「Bさんお城がここに出来上がったね。」と言ってもらえると、本人は結果として「ほめられた。」といい気分になれるんです。この先生が口にした言葉は、教育的評価ではないと思いますよ。むしろ、現実想像力をもって、その子どもに肯定的メッセージをさりげなく届けたのだと思います。
第2次とりまとめの中にも人権感覚を育成するにあたっては、自尊感情を培うことはもとより、共感能力や想像力、人間関係調整力を育むことが求められるとあります。想像力というのは、未来に向けてだけではありません。今を想像する。今、その相手の気持ちをおもんぱかる。この先生は、まさに現実想像力をもってされたんだと思います。すると、本人は「ほめられた。」と。そして「あまりうまく城を表現できていなかったけれど、担任の先生は、ぼくの個性から生まれた、ぼくの世界だと認めてくれたんだ。」と。これは、まちがいなく次につながる気持ち、学習意欲をはぐくんでいます。
もう1つ、紹介します。これは女子学生です。この学生は高学年のときのことを思い出しています。
「5年になって担任が替わった。その最初の授業で『自分の短所を言おう。』と先生は言い始めた。私は『テレビを見過ぎる。』と答えた。すると先生は『いろんなことに興味があるんだね、いいことだよ。』とほめてくれた。自分で短所だと思っていたことが個性だったり、自分だけの価値観であったりするんだ、と思うと同時に、久しぶりにほめられた私は、とてもうれしくて、もっと自分を磨きたいと思うようになった。」
自分の5年生のときのことが、昨日のことのように心の中に残っているんですね。
まず、最初の授業ですから4月です。4月といえば、授業のときに普通やるのは「みなさん、それぞれ、自分の長所を言いましょう。そして、お互いのよい所を学び合いましょう。」これが、普通の路線じゃないですか。ところが、この担任は、あえて「短所」と限定します。
そうそう、学級と言いますけど、4月には学級はありません。教室はあります。黒板もありますが、学級はないですよね。学級というのは、子どもたちが仲間と喜怒哀楽を教師ともども共有しながら、1年ないし2年かかって形成するものです。つまり、学級は「ある」ものではなくて、「なる」ものです。学級というものは、苦労して苦労して、つくり上げるものです。そういう意味で、4月にはまだありません。
真面目に自分の欠点、短所を言えば、いじめや冷やかしのネタに使われないとも限りません。そのときに、彼女は「テレビを見過ぎます。」と言った。家で言われているんでしょう、「あんた、テレビばっかり見て。お姉ちゃんは、もっと勉強した。お兄ちゃんは、よく本を読んだ。あんた、もうオワってるわ。」と。こういう言葉が耳に聞こえてきそうです。彼女は、「テレビ見過ぎます。」と凹んだ自分をさらします。それに対して、担任はさりげなく言います。「いいことだよ、あんたって好奇心旺盛やな、いろんなことに興味があるんやな。好奇心旺盛丸や。」と。この肯定的意味づけ。これは「リフレーミング」と言われるものですね。枠組みの転換です。ラベルの付け替えです。きっと、次々に出される短所を、この担任は、一つずつ反転していったのでしょう。結果として彼女は「え?自分で短所だと思っていたことが、個性だったり自分だけの価値観であったりするんや。」と思うと同時に「久しぶりに、ほめられた私は、もっと自分を磨きたいと思いました。」ここです、大事なのは。ワクワクと、まさしく学びの醍醐味、前向きの学習意欲が育まれる瞬間を、このように大学生になった時点で表現しています。
ゲーテという人が、こういうことを言っています、「人はただ自分が愛する人からだけ学ぶものである。」含蓄のある言葉です。この学生もそうだと思いますよ。この先生は自分のことを応援してくれている。私が大事にされている感じがした。その先生にならば、ということで、自分を磨く気持ちが、いわば自己学習力がムクムクとわきあがってくるんですよね。「子どもはただ自分が愛する先生からだけ学ぶものである。」「子どもはただ自分が愛する大人からだけ学ぶものである。」このようにゲーテの言葉を言い換えますと、おそろしくなりますけどね。一面、真理ですよね。そういう側面も忘れてはならないと思います。こういう言葉をもらったときに、自分って、結構イケてたんや、見捨てたもんじゃなかった、「もっとテレビ見よ。」じゃなくて「もっと、私、いろいろ意欲的にやろう。やればできる。」となる。覚醒される瞬間なんですよ。
つぎのこれも凹型だと思います。これから紹介するのは管理栄養士を養成する栄養学部に学ぶ学生のレポートの一部です。
「6年生のときに、私たちは、男・女5、6人で、ちょっと遠回りをして家に帰りました。途中で公園がありました。カバンを置いて遊びました。私はブランコをしていました。男の子たちは、やがて石の投げ合いを始めました。『あぶない、やめとき。』注意したにもかかわらず、続けていた結果、投げた石が相手の額に直撃、血が流れ落ちました。みんなが、あわてて、囲みます。『どうしよう?』とか言うて。『おばちゃん、呼びに行こう。』と怪我した子の家へかけつけていくと、家の人がたまたまいて、そこへ来てくれました。おばちゃんは、こう言いました『心配いらん、おばちゃんは、これから病院へ連れて行く、あんたら気つけて帰りなさい。トボトボと家路につきます。家に帰っても食事がおいしくありません。夜も寝付きにくい。翌日、心配しながら、こわい気持ちで学校へ行くと、幸いにも怪我した子は包帯を巻いて学校へきていました。少しホッとしますが、やがて担任の先生が教室へ来ます。開口一番、『きのう、こんなことがあった。そこにいた者、立て。』(これは、おこられる。凹んでいます。凹型状態です。)周りの子も立つので、私もおこられるのを覚悟で立ちました。包帯巻いている子も立ちました。すると、先生は、このように言いました。幸い包帯巻いて学校へ来れる軽傷で済んだということが、この場合の状況にはありますけどね。『よかったー、本当によかった。なあ、みんな。一個の大事な命がなくならんで、本当によかった。この6年1組はな、一人でもいなくなったら、6年1組でなくなるんやから……。』。先生がこのように言ってくれて、私は涙が出てなりませんでした。おこられると思っていたのに、この先生は、怪我した子のことをすごく心配していると同時に、わたしたち一人ひとりのことも、とても大事に思ってくれていることが、ビンビンと伝わってきました。これからは、このようなことが絶対起こらないように、ときには体をはってでも止める決心をしたものでした。」
このように彼女は書いています。
これは身体的な怪我だけではなくて、内面を深く傷つける出来事も含めて、こういうときに、教師・大人のスタンスというのは、「やばい、どうしよう。」と怒鳴り散らしたり説教して、感情が高まりますが、ピンチこそチャンスなんですよね。子どもたちにとって、ピンチのときは、なんとか前に進もうという思いになっているわけですから。また、上から目線でお説教をすると、これは、まさに興ざめで「もう、うるさい、わかってる。うっとうしいー。」と、子どもも聴く耳を持たなくなるでしょうが、逆に凹型状況のときに、先生からのそんなプラスメッセージをもらうとね、強烈に響きます。先生は、それを戦略としてやったのか、ごく自然にやったのかはもちろんわかりませんが、結果としてピンチこそチャンスだ、メッセージが届くチャンスなんだ、ということを教えてくれます。
凹型状況の例をもう1つ紹介します。これは私が横で聞いて鳥肌が立った実践です。
ある県の指導主事の方と一緒に講演会場へ移動中のときです。その指導主事さんが、「園田先生、ちょっと聴いてください。先日、私はこんな場面に遭遇しました。」と話されて、その話を聴いている内に私自身もその場にいるような、全身鳥肌状態になりました。
その指導主事さんが行かれた学校は、真珠の養殖で有名な地域の近くの小規模校です。60人規模の小学校の中で、人権教育の発表会がおこなわれました。子どもたちは一堂に会して、人権作文を各学年の代表者が読み、いろいろな感想を述べあって話し合いを深めていくという設定です。後ろには、県あげて、たくさんの参観者が子どもたちを取り囲んでいる。子どもの数より多いぐらいの参加者。最後に6年生のAという女の子が自分の作文を読みます。
「自分のつらいこと、それは私の肌の色が黒い、顔の色が黒いこと。普段はそうではないけれど、何かもめ事があると、『色が黒いくせに。』『黒いくせに。』『なんで、そんな黒いの?』と。このように自分のとても気にしていることを言われて、家に帰って泣いてしまいます。学校に行くことができなくなるぐらい、とてもつらいんです。」という意味のことを、涙を流しながら、でも最後まで読み切ります。シーンとした会場で読み終わりますと、次々に手があがりましてね。それを聴いていた子どもたちからは「これから絶対、言わないから、ごめんなさい。」「冗談のつもりでした。許して下さい。」「軽いつもりでいてたけどれも、こんなに深く悲しんでいるということを、きょう初めて知りました。本当に絶対、これから言わないから、許して下さい。」などの率直な意見が、それぞれの子どもの言葉で語られていったようです。ぶっつけ本番の授業ですから、これはすごい実践的営みが蓄積されていて、その一端を公開されたのだと思います。教師は、ほとんど采配ふるわずに、子どもたちの力で学びの場がつくられていく人権教育発表会だったようです。
Aさんに対する感想出しが一定おさまったかなと思ったら、一番前に座っていた1年生の小柄な女の子が、すっと自分で手をあげると同時に立ち上がってひとこと、こう言ったそうです。「Aねえちゃんは、色が黒いのがよう似合う」。そして、何もなかったように、座った。この1年生の発言、どうでしょう?すごいですね。他の子どもたちの感想とは、異質です。他の子どもたちは、Aさんの肌の色が黒いことを彼女の欠点だと思っている。彼女もそう思い、気にしていることを、私たちが周囲からまたマイナス・メッセージを送っていたんだ、ごめんなさいね、という路線です。悪いことではありません。率直な気持ちを伝えたのでしょう。しかし、この1年生の子は、Aねえちゃんのお肌の色は欠点、凹んでいる点だ、という認識がありませんよね。「Aねえちゃんは、色が黒いのがよう似合う」、つまり1年生の子にとっては、Aねえちゃんは、なくてはならない人なんですよ。学校でも声かけてくれる、学校の行き帰りも自分を守ってくれる、家でも遊んでくれる、ときにはお勉強も教えてくれるかもわかりませんね。私にとっては、なくてはならない大好きなAねえちゃんは、今よりもお肌の色が白かったら、私のAねえちゃんではなくなってしまうわけですよ。今ある、そのAねえちゃんが、私にとっては、なくてはならないAねえちゃんっていうことを、その認識を、1年生語で短くみごとに表現しきったんでしょうね。
それをメッセージとして送られたAさんが、「あ、自分の丸ごとを、この1年生は大事にしてくれている。」と思ったとき、Aさんが抱く感情、これが核心的自尊感情なのです。秀でている凹んでいる、そんなことを越えて、存在、自分の存在そのものに対する揺るぎない自信を与えてくれるきっかけになっています。この1年生は、どうしてそのように言えたのか。おそらく、幼稚園時代から、家でも学校でもあるいはAさんからも自分が丸ごと大事にされているがゆえに、Aさんに対しても、そういうメッセージを送ったのでしょう。
つまり、健全な自尊感情というのは、こういうふうに相互性があります。健全でない自尊感情は、相互性はありません。一方向です。閉ざされています。健全な自尊感情というのは、つねに開かれていて、双方向、乱反射していくと言いますか、そういう雰囲気をつくっている。ですから、関係性をもって集団的に形成されるものが健全な自尊感情だと思いますね。
このようなことが、実際の授業において、実際の生活場面において、形成されていかなければなりません。私たちは、そういう意味で、子どもたちのプラスメッセージつまり肯定的側面あるいは支持的側面、あるいは共感的側面というものを、大事にして学校へきているかどうか。子どもたちは、それを求めて学校へきているんですから、極端に言えば。その学校をくぐり抜けることによって、子どもたちの将来社会を、そしてまた今の学級社会をつくっていけるわけですから。そういう意味では、いい授業も、学力保障とつながらなくっちゃはじまらないと、そう思えてなりません。
自分さえよかったら、自分さえ貯金のようにたくさんの学力をため込んだら、それで、その子の人生の成功は、可能性としてあるかもわかりません。しかし、OECD(経済協力開発機構)が非常に重要なことを言っています。学ぶことについて2つ提言してます。1つは、人生の成功のためだ、と。もう1つは、正常に機能する社会づくりのためだ、と言ってます。その社会づくりに貢献するために学ぶ。そういう意味で、将来社会に関してのみならず、いまの学級社会づくりにおいても同じこと。つまり仲間とつながり共生するということも学ぶ大きなめあての一つであることを、私たちは自覚して実践せねばなりません。
4.つながり、学び合い、高まり合う教室・学校づくり
じゃあ、その「つながる」ために何が必要なのか、ということです。みなさん方の学校・教室では、どうでしょう?クラスの中で、男と女、あるいは個々それぞれがつながっているでしょうか。低学年と高学年、あるいは中3と中1が、高2と高3が、つながる機会があるでしょうか。「いや、バラバラ。」「去年はよかったけど、今年はバラバラや。」もしそうおっしゃるならば、1つのクラスに男と女がバーンと割れている。男同士も、何か縦の序列でバラバラ。女は小グループとかしてバラバラ。頭、悩ましている。そんな場合、原因ははっきりしています。「つなぎ」があるかないかです。「つなぎ」がないからつながらないんです。英語で言えば、ボンドです。ボンドのない社会はつながりません。水と油は分離するじゃないですか。その水と油でさえ、ボンドがあればつながるんですから。液体である酢酸、酢と油はつながりません。分離します。酢と油ですら、一定のボンドが投じられると、みごとに一体化します。卵黄ですね。黄身が投じられることによって、攪拌するとマヨネーズができあがる。これが、象徴的です。
ボンドには、大きく分けて2つあると思うんです。1つは「人間ボンド」です。ヒューマン・ボンドです。もう1つは「文化ボンド」、カルチャー・ボンドです。
「人間ボンド」とは何か。まずは、教師です。その先生が、たとえばドッチボール大好きだったら、サッカー大好きやったら「おい、やろうぜ、遊ぼうぜ。」ということで、その先生を中心につながる。ギターがうまい先生なら、ギターを通じて子どもが一体となって毎朝歌いあう。中学校の社会科の教師ですが、とっても生徒から人気がある先生がいます。この先生は、いつもこういうことを言っているわけです。「思いつきでいいから、バンバン答えろよ。まちがったら、絶対先生がフォローするから。」だから、子どもたちは小学校のときよりも、率直に積極的に意見交換ができて、50分の授業が、あっという間に楽しく済んでしまう。テストだって、みんないい点をとれると言います。結局、その先生が、ボンド役なんですね。
教師だけではありません。たとえば、発達障害をもったAさんがいるおかげで、クラスが一体化して、Aさんに目をそそぎ、その結果としてクラスが集団として形成をされていくというケースがあります。障害をもつ仲間がいるおかげで、今度、運動会種目のリレー競技を、どうクリアするのか。知恵を集めて、みんなでみごとに達成する。これは、まさにヒューマン・ボンドとしての存在であります。
一方「文化ボンド」というのは、5つあります。1つは「遊び」です。いま、いろんな参加型ゲームが開発されています。バースディチェーン、あれも1つのつながざるを得ない状況を埋め込んだゲームです。さあ、何分で、誕生日順にリングができるか。これはつながざるを得ませんから。
2つめの文化ボンドは、学級で起こる「事件・出来事」です。私が小学校5年生を担任しているとき、実際に起こりました。5月です。算数の時間です。答えられないので突っ立っているサチコさんという女の子がいました。「じゃあ、座って考えようか。」と言おうかしら、と思った瞬間、後ろから、男の子の発言が飛んできました。「こんな問題わからんかったら、もうおしまいやな。」4年生のときに、ずいぶん荒れたというふうにとられられていた子どもたちと1年間つきあうことになった初っぱな。その言葉に、私、直撃されました。サチコはなおさらでしょう。しばらく間をおきました。いっこうに周りからのフォローはありません。これ以上、沈黙が続くと、サチコはもう立ち上がれないと思って、私はこう言いました「おかしい、今、おかしいことが2つあった。」冷静さを装って言いました。ボール1つは返ってきましたね。良心派と思われる女子が、やっぱり気づきましてね、「ダイスケくん、そんなこと、あんたかて言われたら、いややろ。あやまり。サチコさん、めっちゃ悲しいと思う、あやまらなあかんと思う。」と。本人は真っ赤な顔をしてむくれていましたけどね。
もう1つの、おかしいことには、誰も気づきません。「もう1つのおかしさ」とは何か。当然、5年生にもなって、仲間が仲間にずいぶん傷つけられた状況にあるのに、周りが何もフォローしない。教師がタオルを投げ込まざるを得ない。
「ダイスケは、今『わからんかったらおしまい』って言ったけど、この先生はな、勉強ってわからんかったら、そこから始まるねん、そこからスタートするのが勉強やと思ってる。ついでに言わせてな、みんなは今、自分の答えは合っていて、サチコは答えられない、サチコは0点で自分はできていたから100点と、こう思うていたら、大まちがいやで。自分だけできている状態では、50点だけの値打ちしかないなあ。」私からメッセージを送るチャンスをダイスケがくれたと思って言いました。その点数主義には、むきになりましたね。「なんで、どうしたら100点?」ときましたから、待ってましたとばかりに「困っている仲間、今、悩んでいる仲間に対してな。」そこまで言いましたら、「教えたったら、ええんやろ。」と返ってきた。「教えたらあかん。悩んでいる相手に、困っている相手に、優しくヒントを伝えられたら、やっと75点の値打ちやで。」。「エーッ」って言いました。「その結果、困っている相手が『わかったわ』と言ってくれたら、相手にそう言わせたら、やっと100点の値打ちになるなあ。そんなクラスつくりたいと、この担任は思ってるねん。みんなと一緒につくりたいねん。」ということを言いました。
この点数主義は、先ほどOECDで紹介した「人生の成功」「人生の個人的成功」、これだけでは50点だ、それは100点ではない、それでは完結していない。「正常に機能する社会の実現」、それへの貢献が加わって、初めて100点だということと重なります。
「ついでに言わしてな、もう1つ、ある。」みんなにこの前に書いてもらったんです。「こんな先生はいやだ、こんな先生になってほしい。」ということで書いてもらっていました。そのときに、サチコは、こう書いています。「こわい先生は、いやです。でも、やさしすぎもいやです。みんなといっしょにあそんでくれる先生になってほしいです。」その次です、「勉強をひとりひとりにやさしくおしえてくれる先生になってほしいです。」これをみんなに読みました。すると、シーンと静まりかえった教室で、すすり泣く声が聞こえました。私は「『勉強をひとりひとりにやさしくおしえてくれる先生になってほしいです。』、でもサチコさんは勉強をひとりひとりにやさしくおしえてくれる仲間がほしいです、そういう気持ちもあったと思うよな。」ということを言いました。このクラス、受けとめるボード、いっぱい持っているやん。すさんだクラスだと思っていたけど、とんでもない、と思えてなりませんでした。同時に「勉強しんどいですよ。」と引き継ぎを受けたサチコさんは、「勉強、ひとりひとりにやさしくおしえてくれる先生になってほしい。」、学びたがっているやんか、という思いが強く私に伝わりました。しかも、しんどい子ほど、やっぱり、いろんな修羅場をくぐり抜けているからでしょう。「私にやさしく」と書いていません。「勉強をひとりひとりにやさしく」って書いています。仲間に目を向けているという優しさを、これまでの修羅場の中で培っているんだなと思って、私はサチコに惚れましたね。この一文は、子どもたちにも響きましたけど、私は初めて読んだとき、ほんとに涙が出てしまいました。
同和教育の先輩は、このように教えてくれました「なあ、どの子も学びたがっているねん。とりわけ、しんどい子ほど学びたがってる。」このひと言は若いぼくには、非常に強烈でした。信じがたいほど、強烈。発想の転換を余儀なくされるぐらいに。はっきりと残された言葉です。
「学びたがっている、どの子も。」ですから「とりわけ、しんどい子ほど学びたがっている。」というのは、逆に言えば、教師サイドが「いい授業、質の高い授業というのは、どんな授業や。」と知りたいなら、それはサチコさんに聞いたらいいんです。しんどい子に聞いたらいいんですよ。しんどい子ほど、学びたがっている、ということです。
上野英信の岩波新書『地の底の笑い話』というのがあります。その本の扉の裏側に、鹿児島県の民衆のことわざが紹介されています。不適切な表現がありますが、原文のまま紹介します。
「歌は唖(むご)にききやい 道ゃめくらにききやい 理屈ゃつんぼにききやい 丈夫なやちゃ、いいごっばっかい」(鹿児島県俚諺)
「歌」のすばらしさ、「歌」の本質を聞きたかったら、言葉を奪われている人に聞けよ。「道」の本質を聞きたかったら知りたかったら、視覚を奪われている人に聞けよ。そうすれば、その「道」とは何かという本質を一番深く教えてくれるよ。理屈・論理、それを知りたかったら学びたかったら、それは聴覚を奪われている人にきけよ。「丈夫なやちゃ、いいごっばっかい。」健常者というのは、いつも本音じゃなくて、きれいごとしか言わんで。
すごいこと言ってます。本質を突いていますよね。この言葉から、連ねて考えたのは、質の高い授業って何やねん?それは点数を取れた子どもに聞いて「先生、きょうの授業よくわかった」。それも大事かもわからないけれど、勉強のしんどい子どもに聞け。「先生、勉強好きになったわ。何か自分って、できるようになってきたと思うわ。だって先生も友だちも、いっぱい教えてくれるし、応援してくれるやんか。何か急に自分にやる気起こったわ。」そういうふうに言ってくれる授業だったかどうか。そこをこそ勉強しんどい子に聞けよ、と。
また、どんな学級集団が、すばらしい集団か。学級の質について聞きたかったら、リーダー的存在に聞くのもいいかもしれない、班長会議を開くのもいいでしょう。でも、もっと重要なのは、学校行きたくても行けない子、あるいはいじめにあって苦しみながら、元気を失っている子ども。しんどい立場におかれたその子の声に耳を傾けよ。その子が心開いてくれるような取り組みをせよ。ときには、家に行って聞けよ。その子の一番心の奥深いところで、こんな教室やったらな、こんな仲間がいたらな、ということが聞けたときに、具体的なクラス実践の展望が開けてくるんやろ、ということまで、このことわざは教えてくれますね。
それから、3つめの文化ボンドは、学級や学年でおこなわれる自主活動です。これはさまざまな制作活動や栽培活動や新聞活動などです。特に教師の「学級新聞活動」は非常に重要ですから、ちょっと紹介します。
これはある県の仲間の実践です。「女子ウザイ 死ンでホシイ」こういうことが書かれてきました。この先生は、毎日、新聞を出しているです。A4版の手書きで。授業の終わりに紙を配りまして、きょう一日最もうっとうしかったこと、あるいは感動したことを、子どもたちは殴り書きします。その日、回収しまして、職員室で見ます。その中に、この走り書き、殴り書きがありました。学級新聞「発行第29号5月12日」、29号ですから、一定続いていますから、その殴り書きをトップ記事にしまして、あと担任がコメントを載せています。「つらい文章だ。いったい何があったか。」このようにまず、聞いています。受けとめています。突き放しません。その次に「でも、何があったのか。軽々しく『死ぬ』という言葉を出してほしくないなあ。人間の命はかけがえのないものだ。」最初に受けとめます、受容します。受容しっぱなしではありません。「でも……。」からは、要求します。受容と要求。受けと要求というのは、セットですよね、私たちの仕事というのは。それをみごとにバランスよく出しています。
受容と要求というのは、簡単に言えば「ウケとツッコミ」です。これは生徒指導においても、授業においても、そうです。この絶妙なバランスが大事です。教師のこの自主的な新聞活動が有効にクラスのボンドとして機能しています。象徴的なのは、子どもたちからタイトルを募集した結果「きずな」というタイトルにしよう、と。「きずな」というのは、英語で「ボンド」ですから。発行当時は、床に新聞が落ちたまま、生徒が帰るんです。机の中に押し込まれている、ゴミ箱にクシャクシャにして捨てられていたようですが、号を重ね、こういう内容が続いていくうちに、子どもも保護者も、愛読者になっていったということです。これは、「きずな」を通じて、つながりを深めていった典型的な例だと思います。
4つめのボンドは「学校行事」です。これからは、文化祭、修学旅行とあるわけでしょ。これらは友だちが仲間へとつながるための「ボンド」です。
5つめのボンドは、究極ボンド「授業」です。授業に一番たくさん時間を使うわけですから、授業がボンドですよ。ところがそのボンドが、残念ながら逆に、ハサミやカッターナイフのようなかたちで、使われているというケースも少なくありません。
たとえば教師が発言しっぱなしの授業で、まったくリアクションなし。「流れ星型」、むなしく発問が消え去っていく授業です。次に、比較的ましな授業は、教師が発言する。Aさんが返答します、「このおじいさん、非常に怒っていると思う。」と。「怒っている」と、板書します。「他に?」と聞きます。そしたらBさん、「夜も寝られないぐらい、悲しんでいる。」と。すぐに「悲しんでいる」と黒板に書きます。そして「他に?」、次、Cさんが「うらんでいると思う。」と発言。また「うらんでいる」と書く。この「他に?」という言葉、これ、切断語でしょう?子どものつながりをぶった切っていく言葉ですよね。これは、禁句です。
せめて、「つづいて」。こう言えば、A発言に対して「つづいて」というのは、「他に」とよく似ているけれど、「私は少しちがうけど」ということで、子どもの間でつなぎが生まれるやないですか。結果として、教師が発問した後、Aが発言し、それがB、それがCというふうにパスとして連続して、発言がつながっていく。意思もつながっていきます、意見もつながっていきます。
最初の、切って「他に」「他に」というスタイルは、バレーボールの「扇型パス」に似ています。だから「扇型」授業。子どもが意見をつないでいく、3人がつなげば「三角パス」ですね。「デルタ型」の授業が成立します。5人つながれば「星型」の授業。究極は「ダイヤモンド型」になってきますね。
このダイヤモンド型授業というを、去年、私は静岡市の小学校で目の当たりにしました。大変感動しました。立松和平の文学作品の授業をしていました、子どもたち自身が。
そこでは、子どもたちが次々と発言をつないでいきます。教師の存在感は大きいのですが、ほとんど口をはさみません。ここというときにはバシッと鋭い問いを発しますが。さまざまな子どもがまさに論客として育っています。一人ひとりが市民権を得て授業に参加して、まさに学びの蓄積と共同が目の当たりにできました。この詳細は、月刊誌『解放教育』2008年4月号(明治図書)をぜひお読みください。感動のほとばしりをたっぷり書かせていただいていますので。子どもたちがそれぞれ豊かに育ってきますと、45分なんて時間枠には納まりきりません。10分ほど超過しましたけれど、子どもたちの集中は切れません。授業の中でも、子どもたちは仲間と深くつながり結ばれていくわけです。
学校においては、集団性を生かした授業というスタイルしかできません。集団的な学びあいによってこそ、子どもたちの学習力は高まっていきます。ですから、30人学級なら30人学級ならではの集団のよさを逆手にとって、子どもたち同士で学びあう。それによって、お互いの人格を認め合い、相互に力をつけていく方法と内容の構築こそが必要です。
そういうイメージで、子どもたちの意見が重なりあい、高まっていくような授業をつくっていくこと。その結果、学ぶことの喜びにおわらず、互いが生まれてきて得をした、この場で学ぶことが心地よいということが、子どもともども実践されますよう、今後いっそう期待いたします。
最後になりますが、確かに年々現場は忙しくなってきています。が、今一度、自分は日々仕事を愉しんでいるかしら、という点検軸だけは忘れたくありません。やっぱり、教師という仕事を愉しまなくっちゃ。それが原点だと思います。そこから染み出す教師のまなざしが、やがては子どもたちに元気と意欲を与えることにもなると確信いたします。
ご静聴ありがとうございました。
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