はじめに
私は現在、大学で社会福祉実習指導室長として福祉の現場に学生を送り出しています。また、以前は様々な現場でソーシャルワーカーとして働いてきました。それらの経験を踏まえて高齢者福祉の状況や、人権や福祉とは何かということをお伝えしたいと思います。
強制入院させられる高齢者
3年ほど前から、私は精神障害者の強制入院の妥当性を審査する仕事をしています。精神障害者を強制入院するケースには2種類あります。本人及び周囲に危害を加える懸念がある場合に、本人の意思に関わらず都道府県知事の命令で強制的に入院させる措置入院と、保護者が在宅で治療支援を続けられないと判断し、医師2名がそれを認めた場合に行われる医療保護入院です。
強制入院させられている患者の中にはかなりの数の高齢者が含まれています。高齢化により認知症等の精神疾患が重症化して家庭での生活が困難になってしまうケースや、ある程度の専門スタッフがいる高齢者の入所施設でも生活が困難な患者が、精神科に強制入院させられているケースです。もうすぐ90歳という人が強制入院させられている、この状況が正しいと言えるでしょうか。施設側が適切な人員配置を行えば強制入院させる必要がないのでは、と感じることが多々ありました。
福祉のあり方を問う視点について
先日、重度の行動障害がある知的障害者を夜間、部屋に鍵を掛けて管理していた入所施設が一部のマスコミから批判されました。確かに狭い部屋に閉じ込められる入所者は大変不自由な思いをされたでしょうから人権侵害と言われても仕方なく、施設もそれなりの責任は問われるべきです。
しかし施設だけを問題視するのは危険です。どこの施設でもそれが望ましい環境であるとは思っていませんが、人員や予算の関係上、仕方なくこのような対応を行っている所が多いのです。それを一方的に問題視すると、その次に出てくるのは重度知的障害者の入所拒否です。本来障害者の生活を支援するはずの施設で入所を拒否されてしまえば、家族だけで生活していかなければなりません。しかし様々な理由からそれが困難になると、強制入院による精神科での生活しかなくなってしまいます。
高齢者の場合でも言えることですが、あくまでも治療を目的とし施錠された建物に入れられる強制入院と、他者とのコミュニケーションを図ることができる入所施設での生活はまったく異質なものです。にもかかわらず、本来施設で生活することが可能な利用者を施設側の事情で強制入院させてしまえば、結局一番つらい思いをするのは利用者本人です。だからこそ施設の問題点は指摘しなければなりませんが、同時にもっと大きな視点で高齢者・障害者福祉のあり方を考えていかなければ、問題の根本的な解決には繋がりません。
生きる活力を保障しない介護保険
そもそも「人権」とは分かりにくいものですが、私は社会福祉の仕事を通じて人権を考える際、「その人が望む、その人らしい生き方を保障すること」が最も大切だと考えています。そのような考え方が福祉の中で実現されているのか、公的介護保険で考えてみましょう。例えば高齢者がストレス解消のために映画鑑賞に行く。あるいはお酒を飲みに行く、孫の顔を見に出かける。これらのことが介護保険のサービスの対象になるかというと、答えはすべて"NO"です。今日の介護保険では高齢者が生きていくためのケアはしてもらえますが、高齢者自身が夢・目標・希望等を持って社会活動に参加することは認められていません。
しかし生きていくためだけの介護で生きる活力は生まれるでしょうか。もし生きる活力も実現したいのなら、それはすべて自力で買わなければなりません。現在の日本には、そのような制度しかないのです。
社会政策の問題として
新自由主義に基づくシステムは社会活動の基本を市場原理にすべて委ねて、政府による規制という社会への影響力を弱くすることで政府の役割を小さくし、その代わり市民に自己責任を求める考え方です。日本は小泉政権の下、新自由主義へ舵取りをしましたが、これがどのような結果をもたらしたかは現在のアメリカや日本の状況を見れば明らかです。一番許せないのは、福祉の分野にまで市場原理を持ち込んで、すべてを貨幣化してしまった上に、高齢者が増加しているにもかかわらず福祉予算を抑制してしまったことです。社会福祉に携わる者の多くが感じていることでしょう。
新自由主義による政策は障害者や高齢者、あるいは派遣労働者等の社会的弱者へ大きな打撃を与えました。昨今、貧困問題がよく取沙汰されていますが、今日の貧困は国の責任です。社会構造の変化によって生じた貧困は、社会構造を変化させた国に責任があります。その最も顕著な例が製造業における派遣労働の規制緩和です。これで企業は大きな収益を上げ、同時に人件費は抑制されるというシステムが認められてしまいました。そしてその中に隠された矛盾が世界的な経済危機によって貧困という形で露呈されたのですから、今こそ社会システムそのものを見直す時期に来ているのではないでしょうか。社会保障のあり方や介護保険のあり方も含めて、日本という国をどういう国にしていきたいのかという意識を、特定の政治家や政党に決めさせるのではなく、私たち一人一人がしっかり意識すべきだと思います。
高齢者施設の状況
北欧の高齢者施設では個室が当たり前で、自宅で使い慣れた家具等をある程度持ち込んで生活することが一般的です。それに対して日本では最新の施設でも個室はなく、プライベートな物を置くスペースさえも非常に限られています。これだけでも日本の現状はかなり遅れていると言わざるを得ません。また日本では珍しい夫婦での入所も北欧では一般的です。日本ではこれまで歳をとってからの生き方に関心が持たれなかった結果が、このような形で現れているのでしょう。しかしいずれにせよ高齢者施設は多くの場合、終の棲家になるのですから、このような現状は変えなければなりません。
また一方、施設で働く人の現状はどうかというと、こちらも重労働で低賃金という非常に厳しい状況です。社会福祉士の資格を持った大卒者の高齢者施設での初任給が18万円程度で、障害者施設ではそれにも及びません。一般企業の高卒者初任給が17万円前後ですから、これがいかに安いかは明らかです。その結果、退職する人が多く、残った労働者の仕事量が増え、もともとの重労働に一層の拍車を掛けているのです。そのような状況で提供されるサービスが決して十分なものではないということも容易に想像できます。
さらに、仕事を続けたくても続けられない、求人を出しても反応が少ないという状態が続くと、4年制大学だけでなく専門学校や短大でも福祉系学科の廃止が多くなり、状況はより厳しい方向へ向かってしまうでしょう。一旦学校がなくなると人材確保が熱望されてもそれを再開することは難しく、最終的には外国人の労働力に頼ることになります。
人口の概況と高齢化
我が国は2005年10月1日現在、総人口が1億2776万人で、1945年以降、人口が前年比で初めてマイナスに転じました。更に65歳以上の人口は過去最高の2560万人で、こちらも初めて総人口の20%を超えています。1970年には24.3%あった15歳未満の人口が、2005年には13.6%に下がった数字が示すように、高齢化のスピードは世界が体験したことのないもので、このままでは2040年代には国民の3人に1人が障害者か高齢者になると予測されています。このような超高齢化社会に向けて考えられたのが公的介護保険制度なのですが、到底それだけで解決できる問題ではありません。
そのためには特に少子化問題に注目しなければなりません。2005年に厚労省が発表した生涯非婚率という50歳まで一度も結婚していない人の比率を見ると、女性が5%未満であるに対して、男性は12%を超えており、更にこの数字は年々増加しているようです。既婚者の平均出産人数は2人を越えているのですから、この生涯非婚率を下げなければ、根本的な少子化対策にはならないでしょう。
高齢者のいる世帯・家族形態
2005年の調査によると全国の4704万世帯中、65歳以上の高齢者のいる一般世帯数は1720万世帯で35.1%を占めています。このうち「一人暮らし高齢者」は386.5万世帯であり、65歳以上の15.1%が一人暮らしという状況です。更に一人暮らし高齢者を性別でみると男性が105万人であるのに対して、女性は281万人になっています。その原因は、家族形態が核家族化の傾向に大きく傾いてしまったことに他なりません。両親と子どもだけで構成される核家族では、子どもが結婚すると独立して別世帯を形成することが多く、そうなると夫婦だけの世帯になってしまいます。それが年月を経て高齢化することに、男女の平均寿命の差や平均婚姻年齢の差が加味されて、先のような状況を生み出しています。つまり核家族は一人暮らしのお婆ちゃんを生み出していく仕組みになっているのです。
私は生徒や自分の子どもに、親との同居を希望する人との結婚を勧めています。核家族とは非常に弱い家族形態です。若い夫婦と幼い子どもだけの家族では夫婦の一方が事故や病気で倒れた場合、生活が維持できなくなってしまいますが、親と同居する拡大家族であれば、収入も子育てもカバーし合うことができます。また拡大家族では児童虐待が発生しにくく、当然高齢者にとっても支援を受けやすい環境です。核家族から拡大家族へ形態をシフトさせていくことは、社会福祉の様々な面で有効なのです。
高齢者虐待とは
高齢者虐待は深刻な問題です。日本には高齢者を65歳以上に定義づけた高齢者虐待防止法という法律があり、そこでは高齢者虐待を①身体的虐待、②心理的虐待、③介護や世話の放棄・放任(ネグレクト)、④性的虐待、⑤経済的虐待に分類しています。①-④については児童虐待にも定義されていますが、本人の意思とは関係なく財産を使われる等の⑤経済的虐待は高齢者独特の虐待です。
高齢者虐待の現状は2003年の調査によると、虐待の種類として心理的虐待、介護・世話の放棄、身体的虐待が上位を占めましたが重複例も多数あり、被虐待者の約8割が認知症高齢者であることが明らかになっています。特徴的な事象として約5割の虐待者が、虐待しているという自覚がなく、虐待により生命が危険な状態にあった例は全体の約1割を占めていました。
日本における高齢者虐待の特徴
この調査を基に日本の高齢者虐待を分析すると、その特徴は①虐待者として比率が最も高いのは息子ですが、日本では欧米に比べて嫁が介護者の割合が高く、その結果、嫁が虐待する割合も高い。②子ども、特に長男は親の介護の責任を引き受けなければならないとする思いが根強く残っているため、特に身体的虐待等の深刻な例は息子に多い。③虐待という考え方や認識がまだ低いこと、また実際に虐待の事実があっても、それを虐待として認めたくない気持ちが高齢者と家族の双方に強い。④高齢者や家族に家庭内の事情を表に出すことに対していわゆる世間体や体面にこだわる傾向が強く、他人を家に入れることを拒否し、結果として虐待が潜在化する。⑤高齢者自身にも権利意識が低く、我慢や諦めの気持ちが強い。⑥利用できるサービス体制の不備も相まって、サービスを利用しない。⑦実際に虐待の事実があっても通報制度や支援体制がなく、また問題について相談したり、高齢者を保護したりする受け皿のないことが事態をより深刻化させている、といったことが挙げられます。
このような高齢者虐待の実態をスウェーデンやアメリカと比較すると、身体的虐待、心理的虐待、介護や世話の放棄・放任(ネグレクト)については日本が発生率が高く、性的虐待や経済的虐待については低いという結果が出ています。
スウェーデンの高齢者虐待とその対応
福祉大国と呼ばれるスウェーデンでも日本より件数は少ないものの、虐待は存在しています。特に最近問題になっているのが、実態が非常に見えにくい施設内での虐待です。スウェーデンにおける高齢者虐待は1980年代から問題視されてきましたが、20年以上経ってもその実態は掴み切れていませんでした。そこでサーラ法(高齢者虐待防止法)とマリア法が制定されました。
サーラ法とはこの法律制定のきっかけとなった、高齢者施設における虐待の内部告発をした准看護師の名をとった法律で、すべての施設職員には施設で虐待があった場合、それを告発する義務があり、それを怠った場合には罰則を規定しています。マリア法は医療面での問題を扱う法律で、患者が検査・介護・治療を受けたときに損傷を受けたり、病気になった場合、あるいは患者が自殺したり、損傷を受けたり転倒したとき、それが安全性の欠如と管理上の問題から起きたと担当医が判断した場合に適用され、こちらにも当然罰則規定が設けられています。
内部告発すれば人間関係を悪くするという警戒感から定着しづらいかも知れませんが、利用者の権利保護の観点から、日本でもこのような明確な防止法が必要でしょう。ただすべての施設内での虐待に悪意があるわけではなく、人員的な問題から仕方なくとった対応が結果的に虐待や利用者の尊厳を傷つけることになってしまうケースも往々にあるはずです。確かにその職員の意識の低さも問題ではありますが、責任を職員や施設だけに押し付けるべきではありません。職員が十分な人権意識を持てるように、国が保障すべきであって、その意識を実践できるような社会福祉のシステムを国は築いていかなければならないはずです。ですから抑止力としての虐待防止法の制定とともに、施設の状況を改善する社会システムの構築を私達自身が求めていく必要があります。
来るべき超高齢化社会に向けて
高齢者世帯の所得は厚労省によると一般世帯の概ね50%の所得しかなく、その金額も年々目減りしていることがわかります。さらに介護保険・後期高齢者医療制度等の度重なる改正で高齢者の自己負担金が増え、それが高齢者の生活を圧迫していることが如実に示されています。こうした状況が高齢者やその家族の精神的余裕を奪って、それが最終的には虐待や介護殺人・心中に発展してしまっていることも十分考えられます。あまり知られていませんが、高齢者の自殺も増えてきています。本当に日本はこのような国で良いのでしょうか。
社会福祉の究極の目標は、人を孤立させないことだと思います。今後は高齢者世帯を孤立させないような地域の福祉力、地域の再組織化に取り組む姿勢を強化すべきです。そして高齢者に限らず社会的な弱者に対する、国家として、市民としての保護や保障のあり方、ひいては個人それぞれの国家観・人間観・福祉観の見直しと確立をしていかなければならないのではないでしょうか。何より私達一人ひとりが日頃からそういった意識を持ち続けることが重要だと思います。
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