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2009.05.22
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社会権条約の個人通報制度から見た日本の人権課題
-生活水準の権利を中心に

熊野勝之(弁護士)


2008年・社会権から見た日本の人権状況

 2008年12月10日世界人権宣言60周年を記念して国連総会で社会権条約の個人通報制度が満場一致で採択されました。これは画期的なことです。しかも、国際的金融危機・経済危機の最中に採択されたことは二重の意味で画期的です。

 2007年米国サブプライムローン破綻は、たちまちのうちに国際的金融危機・経済危機を引き起こし、2008年9月15日大手投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻以降急激に、わが国でも派遣切りによる生活困窮・社宅からの追い出しによるホームレスの大量の発生を引き起こしました。これは労働の権利、居住の権利を含む適切な生活水準の権利など社会権条約が保障する社会権の重大な侵害です。その最中に、社会権は、それが侵害された場合には個人が裁判所で救済を求めることができる権利であることを国連総会が間接的に確認したことになるからです。

 言い換えれば、同じ金融危機・経済危機に陥りながら、日本のように解雇即生活の困窮、解雇即ホームレスにはならない国が少なくない中で、わが国がそうなってしまったのは、国会・内閣・裁判所が戦後一貫して社会権、中でも健康で文化的な最低限度の生活をする権利を尊重せず、特に1979年社会権条約を批准し、適切な生活水準の権利を実現する義務を負いながらも、あたかも批准してないかのように、社会権条約を無視してきたことに原因があるからです。そして、その最大の原因は、憲法・国際人権条約遵守義務の最終的監視者である裁判所が社会権を、政策の宣言であって個人が裁判所で主張できる権利ではないと決めつけ、責任を果たして来なかったことにあります。

 二重の意味で画期的というのは、第一に、日本の裁判所の否定にも関わらず、社会権は、個人が裁判所で主張できる権利であることを国連総会、いわば世界中が認めたということ、第二は、社会権の個人通報制度を認めることは、社会権の侵害を抑制し、企業が自由勝手に労働者を解雇し人件費を削減することを困難にし、当面、生活保護等の予算を増加させることになるわけで個別政府にとっては一見好ましく思えない政策を敢えて採る、言い換えれば、この危機を乗り越えるには社会権の保障が必要だと世界各国政府の代表が認識したことを示しているからです。

 残念ながら日本国内ではまったく報道されませんでした。そのことが、日本における国際人権条約の認知度、特に、社会権の認知度の低さを示しています。

 そのことを象徴的に示すかのように、採択直後の12月12日千里桃山台団地一括建替え訴訟が最高裁で係争中であるにもかかわらず、建替えに反対する82歳・障害・重病をもつ高齢者に対して自己所有の住居からの強制立ち退きが執行されました。年末には日本の首都の公園に派遣切りで住居を失った労働者のために派遣村が出現し、豊かと言われる国の不況即解雇、解雇即野宿という現実に目に見える形が与えられたのです。

 年明けて1月16日14年前の阪神大震災を生き延びた被災者の中から独居死が昨年1年で518人、中には死後5カ月が経過していた人、自殺者は42人と報じられました(神戸新聞1月15日)。

なぜ国際人権条約か

 近代国家は、憲法で人権を保障しています。しかし、人権を守る意思がない政権のもとでは、国家による人権侵害、国家が放置する人権侵害を国内の力だけで是正することは不可能です。これはナチスドイツ、治安維持法体制下の日本の経験が示すところです。第2次世界大戦終結以前、人権は国内問題であり、他国の人権状態に口出しすることは主権の侵害になるとの考え方が支配的でした。その痛烈な反省から第2次世界大戦の連合国は国際連合を作りました。

 国連憲章は「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳等々を確認し、大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進する」ために力を合わせることを誓っています。

 歴史、文化、価値観を異にする多様な国からなる国際社会を「恐怖及び欠乏のない世界」にするためには人権の共通認識を確立しなければなりません。そのために世界人権宣言が作られ、これに法的拘束力を与えるために国際人権条約が作られました。

 「欠乏の無い世界」を実現するために社会権条約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際条約)が、「恐怖からの自由」を実現するために自由権条約(市民的及び政治的権利に関する国際条約)が作られました。

 自由権条約については、同時にオプション(選択議定書)として個人通報制度が作られました。これは、自由権を侵害された個人が、直接国連に通報し、自国政府へ勧告してもらえる制度で、個人を人権の主体として認めた画期的な制度です。

自由権と社会権

 世界人権宣言の時には一つにまとめられていた人権が、条約化の段階で自由権と社会権の二つの文書になりました。これは東西冷戦の激化を背景に、人権が歴史的に認められてきた時間的順序と権利の性質によっています。先に認められた自由権は、個人が国家から干渉されない自由(表現の自由など)として自覚され、社会権は、国家が国民の生活水準を向上するために社会政策として行われていたことのうち、人としての尊厳のため欠かせない内容を個人が政府に直接要求できる個人の権利として高めたもの、国家の関与を求める部分が大きい権利として認識されたものです。具体的には労働権や、社会保障・生活水準・健康・教育に関する権利、そして文化的権利です。その歴史的経緯から、社会権は政府が裁量によって行う政策だから不満があっても個人が裁判所に直接請求して実現してもらえる具体的権利ではないと考えられていました。

人権実現の方法

 国際人権条約が予定する人権実現の方法は、条約に加盟した国(締約国)に人権実現義務を負わせること、人権実現状況を定期的に国連に報告して審査を受け、批判と勧告を受け容れ、勧告に従って人権状況を改善するというシステムです。「国際社会で名誉ある地位を占めたい」と願う締約国の廉恥心に訴えて人権を実現しようとするもので、違反したからといって経済制裁・武力制裁がなされるわけではありません。しかし違反は、条約という法的拘束力のある義務の違反であって、道義的な非難ではありません。

 同じく人権を実現する義務といっても、社会権と自由権では権利の性質によって違いが出る場合があります。特に、人権の実現に資源(予算)を要する場合、その国の経済力では直ぐに実現できない場合があります。このことを社会権条約2条1項は「この条約の締約国は、立法措置を含むすべての適当な方法により、この条約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成するため、自国における利用可能な手段を最大限に用いることにより、行動をとることを約束する。」と定めています。条文は「完全な実現」は「漸進的に達成する」(直ちに実現できる内容は直ちに達成する)という文言ですが、これを社会権のすべてが「漸進的」にしか実現できない性質の権利であるかのように都合よく 捉え、政策は個人が裁判所で直ちに認めてもらうことは困難だから権利とは言えないという理由付けを政府がしました。わが国の裁判所では現在も、社会権は権利でなく政策の宣言にすぎないとする見方が続いています。

締約国の義務・政府が個人に負う義務の種類

 しかし1990年代に入って国際人権法の分野で、政府が個人に人権を保障することに対応して負う義務のレベルの分析が進み、自由権、社会権双方にレベルないしタイプの異なる3つの義務があることが明らかになり、それまでの自由権と社会権を2項対立的に捉え、両者を性質の異なった権利と考えることが誤りであることが分かってきました。

 その3つとは<1>尊重義務:個人が自らの資産、努力で人権を享受している場合、政府はこれを尊重し侵害してはならない義務、<2>保護義務:私人による侵害から個人を保護する義務、<3>充足義務:自己の努力で人権を享受できない個人に、政府が援助して人権実現に足りないところを充足する義務です。

 この分析が画期的なことは、社会権をすべて国家の関与(給付)を要する権利と捉え、国家の経済力、予算に依存するから直ちに実現できない、国会の裁量の余地が大きいから立法がされない限り裁判所限りで決められないことを理由に、個人が裁判所で請求できない権利であることを正当化してきた根拠のうち、尊重義務、保護義務に対応する権利については予算に関係なく、裁判所限りで判断できる(裁判規範性がある)ことが明らかになったことです。更に、充足義務についても、権利の最小限の中核となる内容については、裁判所が判断できなければ社会権を権利として認めた意味がないことが、次に述べる社会権条約一般的意見3で明らかにされました。これによって、社会権が特別扱いされる時代は終わった筈なのです。

社会権条約委員会の活動方法

 国連社会権条約委員会が政府に義務を履行させる主な方法は次の通りです。

 <1>一般的意見の公表

 社会権条約委員会は条文の解釈等について特別報告者を定めて調査し、十分な検討の上、委員全員が一致した解釈等を一般的意見として公表します。それは条約上の権利の実現目標や報告書審査の基準となります。

 例えば1990年に出された一般的意見では締約国の義務の性格や最小限の核となる義務が示され、1991年には11条に規定された居住の権利を「適切な生活水準に対する権利から生ずる適切な住居に対する人権は、すべての経済的、社会的及び文化的権利の享受にとって中心的重要性をもつ」と位置づけた上で、最小限共通の要素を挙げています。この要素を要約すると①占有の法的保障、②すべての人の住居を取得し維持する権利、③居住は一定の質的要素をもったものとする、となります。特に居住の権利の本質である占有の法的保障とは、現在住んでいる場所を追い出されないことであって、非公式の占有(委員会は不法占拠という言葉を使いません)の場合にも一定の保障がなされなければならないとされています。言い換えれば、強制立ち退きは例外的な場合を除いて原則的に居住の権利と両立し得ないのであって、それが認められる最小限の要件としてA.高度の正当事由があること、B.適切な移転先が提供されること、C.影響を受ける人と真正な協議がなされることが明記されているのです。

 <2>政府報告書審査・最終見解

 以上のような基準を基にして、社会権条約委員会は締約国政府の報告書を審査します。政府報告書には政府にとって都合の悪い点は書かれませんから、委員会はNGOからのカウンターレポートを期待しています。この2つの報告書を基に委員会は審査を行うので、NGOにとっても国内の人権問題を国際社会に訴える絶好の機会です。しかしこれは政府報告に便乗しているので、政府が報告書を提出しない時期や、個別の課題を早急に訴えたい時には個人は何もできません。

 2001年8月委員会は日本政府第2回報告書をに対する「最終見解」を公表しました。特徴的な懸念事項には阪神大震災被災者への対応やホームレスの問題への取り組み、京都のウトロ地区の在日コリアンに対する強制立ち退きの問題が挙げられ、断行仮処分による強制立ち退きが一般的意見違反であることが指摘され、主な勧告として「締約国が自ら、そして都道府県と共同で、日本におけるホームレスの範囲及び原因を判定する調査を実施することを要求する。また、締約国は、ホームレスの人々の適切な生活水準を確保すべく、生活保護法のような既存の法律を十分に適用することを確保するために適切な措置をとるべきであること」がなされています。

社会権と日本の裁判所

 話は批准前に遡りますが、日本は1952年に「あらゆる場合に国連憲章の原則を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力」する意思を宣言し、連合国とサンフランシスコ平和条約を締結、1979年には国際人権条約を批准しました。従って世界人権宣言や国際人権条約を軽視することは平和条約違反であり、条約誠実遵守義務を規定した憲法98条2項、ウイーン条約法条約26条にも違反することにもなります。

 日本の最高裁判所は批准以前ですが1967年、社会権の中心である憲法25条の保障を求めた朝日生存権訴訟で「25条は国の責務を宣言したにとどまり、個々の国民に対して具体的権利を賦与したものでない」という解釈で社会権が裁判上請求できる権利であることを否定しました。以後、この判決は憲法25条の人権保障を停止する戒厳令のような機能を果たしています。

 その呪縛は1979年国際人権条約を批准した後の1989年塩見年金訴訟最高裁判決にも引き継がれ、「社会保障についての権利が国の社会政策により保護されるに値するものであることを確認し、権利の実現に向けて積極的に社会保障政策を推進すべき政治責任を宣明したものであって、個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない。」と判断され、同じ文言が国際基準の著しい進化を無視して20年後の今日も繰り返し使い回されています。

 社会権条約2条1項の「すべての適当な方法」には司法措置も当然含まれます。にもかかわらず、日本の裁判所は社会権条約を裁判規範とすることを嫌っています。なぜでしょうか。その理由の第1は、社会権はもとより、自由権についても、これを認めるのが嫌いな政権が長く続いており、その政権に対する配慮(遠慮)と思われます。第2は、社会権の中には国家予算を必要とする権利があり、内閣、国会に対する配慮(遠慮)です。社会権の解釈は、予算を社会的強者の利権のために使うか、弱者の人権のために使うかのせめぎ合いで、多くの場合、第1の理由から前者に味方することになります。

 第3は、社会権に対応する政府の義務の箇所で見たように、尊重義務、保護義務については、例えば違法な強制立ち退きを認めなければ義務を果たせることで、予算を要しない場合にも、社会権を認めれば、それが否定された場合に得られる強者の利権が否定されることになるからです。このようにひとたび、社会権の裁判規範性を認めると、予算に関係のない部分にも及ぶことを怖れているからです。

 第4は、国際人権条約を裁判規範と認めると、その解釈に国連の人権委員会が一般的意見として出している解釈を無視することができません。国連の解釈は、日本の裁判所の解釈よりはるかに手厚く人権を保障しています。第5は、国際人権条約についての研修の機会がなく、そのため自信を持って適用できないからではないかと思われます。日本政府報告書審査に際しての最終見解で、国連からこの10年間に3回も裁判官、検察官、弁護士に対する国際人権条約の研修をするよう勧告を受けていますが研修が実施されているとは見えません。

 第6に、司法改革の名の下に弁護士数は激増しましたが、裁判官数はあまりにも不足し1件にかける時間数が大きく制限され、その上、裁判の迅速化が強調されますから、自分で自信を持って使えるまで独習する時間がないからです。

 理由第3の例として、例えば吹田市千里桃山台団地訴訟があります。これまで建物区分所有法の建替え要件は、建物の老朽化と持ち主の4/5の多数決の両方が必要でした。しかし2002年の法改正によって老朽化要件が削除され、団地一括建替えでは棟別2/3の多数決だけで建替えが認められるようになったのです。これまで2つの要件によって守られていた居住の権利は、開発業者の利益のための規制緩和によって奪われ、正当に入居していた高齢者が自宅から強制退去させられるという事態を招いてしまったのです。高齢者が住み続けたい住戸を一方的に、周辺の立地条件の似た住戸が5100万円であるのに1840万円で買い取られ、業者は67%の容積率を195%にし、住戸数を380戸から2倍にすることで90億円の利益を上げると見込まれます。ここに権利は利権を規制したところに生まれ、権利を規制緩和すると利権に戻るという人権の方程式が存在しています。

人権に対する個人の義務と責任を

 個人から見た政府報告書制度の限界は先に述べた通りで、個人通報制度は画期的です。ただこの制度は、日本政府が選択議定書を批准しなければ使えません。しかし、批准前は無意味かと言えば、決してそうではなく満場一致で採択されたことによって、社会権条約が単なる宣言に過ぎない、社会権は権利でない等という考えは通用しなくなりました。このことを私たちはあらゆる機会を捉えて声を大にして言う必要があります。

 二つの国際人権条約は前文で、個人が「他人および属する社会に対し義務を負う」「条約の定める権利の増進・擁護のために努力する責任」があると定めています。国家に人権を尊重・遵守・助長する義務があるように、個人にも義務および責任があります。

 私たち一人一人がその義務と責任を負っているという認識を皆さんと共有し個人通報制制度を広め、その批准を求める運動を起こしていきたいと思います。

 私は経済学者ではありませんので経済政策に口を挟むことはできませんが、現在の生活水準の権利の危機は、短期的に資金をばらまくことでは解消できず、日本が30年前に批准している社会権条約と日本国憲法に注目し、人権法を遵守することによって打開策を見出すべきだと思います。これが個人通報制度採択から見えてくる日本の人権課題だと思います。逆に言えば、この2つをこれまでしっかり守っていれば、今日のような事態を招くことはなかったと思うからです。

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