最近おこった事件から
先日、タレントの草薙剛さんが深夜の公園で全裸になって騒ぎ、逮捕されるというニュースが大きく報道されました。逮捕自体にも疑問がありますが、取り調べの内容にも疑問を持たれた方も多いのではないでしょうか。草薙さんは公然わいせつ罪で逮捕されたにも関わらず、取り調べの段階で強制的に採尿されています。しかし覚せい剤反応が出なかったため、今度は家宅捜索を受けました。
恐らく警察は最近芸能人の覚せい剤事件が多発しているので、草薙さんを疑ったのでしょう。しかし公然わいせつの罪で逮捕した者に対して家宅捜査を行うことは、警察権力の乱用と言えます。
20年程前にも、スピード違反で現行犯逮捕した女性を37時間も拘束し、全裸にして身体検査と採尿をするといった事件があり、日本弁護士連合会(日弁連)は県警と警察庁に人権侵害の警告を行ったことがありました。
しかし、今回の草薙さんの件を見る限り、警察の対応には多くの問題があるようです。
あとを絶たない人権侵害
このような人権侵害に対して、私達日弁連は創立以来60年間闘ってきました。とりわけ警察や刑務所等、公権力による人権侵害の調査と予防は困難を極めてきました。
以前、広島の刑務所内で受刑者が看守から暴行を受けたという受刑者からの人権侵害申立が広島弁護士会にありました。弁護士会では事件を目撃した別の受刑者との面接を刑務所長に申し入れましたが、所長は拒否をしました。弁護士会の調査に応じる義務はない、と言うのです。この所長の対応に対して広島弁護士会は、弁護士会の人権救済活動に対する不当な侵害だとして、弁護士会自身を原告とする国家賠償請求の裁判を起こしました。一審では負けましたが高裁では勝訴しました。しかし上告審では「所長に弁護士会の調査に応じる義務はない」との判決が出ました。
10年程前には、公安調査庁がイラク戦争に反対する38の市民団体を調査していた事件がありました。法的に公安調査庁は破壊活動防止法に抵触する団体活動に対しては調査権が認められていますが、この時捜査対象になったのは日本ペンクラブや主婦連など破壊活動とはまったく関係のない団体ばかりでした。弁護士会は違法調査と指摘しましたが、公安調査庁は日弁連の警告書の受け取りすら拒否しました。
国内人権機関の必要性
このような市民に対する不当な権利侵害が後を絶たない状況に対して、その再発を防ぐシステムが必要であることは明白です。しかしそれを行うには日弁連では権限があまりにも弱く、公権力への監視や調査を行える、もっと大きな権限が必要です。
そこで求められるのが今回のテーマである国内人権機関の創設なのです。
自由権規約委員会による日本政府への勧告
世界人権宣言は各国政府に対して法的拘束力を持たないと理解されています。そこでその内容を法的に具体化した「市民的政治的権利に関する国際規約(自由権規約)と「経済的社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)」が国連で採択され、締約国に世界人権宣言の内容をなす人権保障を義務づけています。日本政府はこの両規約に批准していますが、この規約は締約国に対して国内での規約の実施状況を5年ごとに文書で報告し、その審査を受ける義務が課せられています。1998年に自由権規約委員会が行った第4回日本政府報告書審査では、「委員会は、締約国に対し、人権侵害の申立を調査するための独立の機関の設置を強く勧告する。とりわけ、委員会は、警察や入国管理局職員による虐待の申立を調査し、救済のため活動できる独立の機関が存在しないことに懸念を有する。委員会は、このような独立した組織ないし機関が締結国によって遅滞なく設置されることを勧告する。」と言われました。
国連が求める国内人権機関
そもそも世界人権宣言の前文には、人権の実現と保障こそが平和を実現するために必要であると謳っています。そのためには政府や裁判所、立法だけではなく、政府から独立した、人権保障を任務とする組織が必要であると1997年の国連総会で決議しています。
またその国内人権機関のあり方についても1993年の国連総会で原則が採択されています。それがいわゆる「パリ原則」で、国内人権機関が扱う人権の範囲は最も広い範囲でなければならないとしています。それは世界人権宣言に謳われた人権であり、日本国憲法で保障された人権であって、また法律に規定がなくても社会が認める人権として保障されるべきというのです。その組織は、少数意見も十分に活かせるような構成にしなければならず、財政的にも、さらに委員の任命・解任も権力からの影響を受けないように求められているのです。
まさに私たち日弁連が求めてきた人権機関でした。私たちは2000年に「政府から独立した国内人権機関をつくろう」をテーマにシンポジウムを開き、国内の様々な人権NGOから意見を集め、必要とされる人権機関について議論を深めていったのです。
人権擁護推進審議会の答申
私達が国内人権機関の設置を目指して活動していた頃、1997年の法務大臣に対する人権救済に関する諮問を受けて、人権擁護推進審議会が設置されました。この審議会が2001年5月に「人権救済制度のあり方について」という答申を出しています。この中で『人権救済機関はこれまでの内部部局型の対応では限界があり、政府から独立性を有し、中立公正さが制度的に担保された組織とする必要がある』と明記されました。またその組織はパリ原則をはじめ、国連が提供する様々な資料を参考にすべきだ、さらにこの機関は人権救済だけでなく、特に法執行官を対象とした人権教育も担うべき、とされていました。
このような充実した答申が法務大臣に渡ったのですから、どれだけ素晴らしい法案が出されるのかと期待していましたが、2002年3月に提出された人権擁護法案は先の答申がまったく反映されていないもので、私たちは愕然としました。
法務省から出てきた人権擁護法案
その内容は人権救済機関を法務大臣の所轄として法務省内に留め、そのトップとなる人権委員会は中央を5人(常勤2名、非常勤3名)としています。私たち弁護士会でさえ日弁連の人権擁護委員会だけで120名、全国52の弁護士会にも人権擁護委員会。それでも手薄なのに、このような体制で全国をカバーできるのでしょうか。委員の任命は国会の同意人事としていますが、実際には法務省が推薦する人をそのまま任命する、いわゆるお飾り人事になってしまう恐れがあります。
事務局も、現在の法務省人権擁護局職員をそのまま横滑りさせる案となっているため、省内で行われる定期的な異動の対象となり、人権のスペシャリストには育たず、十分な機能を果たせない恐れがあります。地方においては地方委員会を設置することになっていますが、その事務は地方法務局に委任するとしています。
法務省としては人権擁護局が消滅すると困る、また財務省から予算が取れないために小さな組織にせざるをえない、という意識があったのでしょう。いずれにせよ法案はその独立性や取扱う人権の範囲などに多くの問題を含んだまま2002年3月に国会審議入りしたのです。
人権擁護法案廃案へ
しかし国会審議が始まった直後の10月、名古屋刑務所内で職員による受刑者への虐待が発覚しました。その事実を重く見た国会は過去10年間に遡って、死刑以外で刑務所内での死亡事例の調査を要求しました。すると虐待が疑われる事例が数十件も挙がったのです。当然刑務所は法務省矯正局の所管です。また法務省はそれ以外に人権侵害が行われていると指摘されている入国管理局も所管しており、それらを十分に監督できない法務省内に人権救済機関を作っても、泥棒に警察の仕事をさせるようなものだという大きな批判が出てきました。
また法案の中には報道による人権侵害を規制するために、マスコミの取材に対する強制的な制限を加える内容が含まれていました。これに対してマスコミから報道の自由の侵害だとして激しい反発を受け、結局2003年10月に廃案になったのです。
その後何度か再提出の動きもありましたが自民党内の意見が分裂し、そのまま現在に至っています。
日弁連が描く国内人権機関
日弁連は野党と一緒にこの法案成立に対して反対運動を行ってきましたが、ただ反対するだけでは不充分です。私たちの取り組みは本来、国内人権機関の設置を求めることから始まっています。よって自分たちの求める国内人権機関の姿を描こうと議論を重ね、昨年、その制度要綱をまとめあげました。
<1>その権限と組織
私たちが描く国内人権機関の権限は国内法における人権に限定せず、広く国際人権法に認められた人権を取り扱うとしています。その組織の構成は、中央委員会を公正取引委員会のような独立性の強い行政委員会とし、内閣総理大臣の所轄として内閣府の下に位置づけます。そして独立性を保つために、<1>中央の委員は15名とし、その選任は国会に設置する推薦委員会が推薦し、公聴会を開いて候補者を審査した上で両議院の同意を得て総理大臣が任命する。<2>人権委員会は職務を行うのに必要な事務局と予算が確保されなければならず、その職員は委員会が独自に任免できなければならない。<3>中央の人権委員会と同様の組織を各地方に地方委員会として設置する、としました。地方委員会も自治体等から独立している必要があり、同時に地方と中央の委員会には上下関係はありません。つまり地方も独自に判断することが望ましく、どちらに申し立てをするかは救済申請者本人が決めれば良いのです。
<2>救済の対象とする人権の範囲と基準
委員会の調査権限については十分にこれを認めますが、その拒否については法務省案にあったような強制的な罰則規定は設けていません。なぜなら人権侵害の救済で新たな人権侵害を行ってはならないからです。しかし公務員については人権委員会の調査に協力すべき義務があり、この違反がある場合は懲戒を求めることができるとしました。
また報道機関による名誉、プライバシー、人格等の侵害を調査・救済の対象とすることは国民の知る権利、表現や報道の自由の重要性等から有力な反対論があります。しかし私たちは報道による深刻な被害が少なからず起こっている現状を見ても、これを除外することはできないと考えました。そこで報道機関による過剰取材や名誉・プライバシー侵害は報道機関の設置する「自主的第三者機関」が優先的に申し立てを受け、被害者がその結論に不服がある場合に限って、人権委員会に救済を申立てることができるようにしました。
私人による人権侵害は、社会的影響力のある組織、集団、個人によりなされるものを対象としました。これに限らず雇用・教育・公共的施設の利用等に関して差別が行われた場合は、救済の対象としています。
これらのことは、昨年10月の第5回審査でも、自由権規約委員会から「締約国が承認したすべての国際人権基準をカバーする幅広い権限と,公権力による人権侵害の救済申立を取り扱い且つ行動する権限とを有する独立した国内人権機関を政府の外に設立」することを勧告された通りです。
<3>人権救済手続ほか必要な活動
調査の結果、人権侵害が認められた場合、委員会は加害者に対して警告や勧告を行いますが、それは刑罰的な意味合いよりも教育的効果による実効性を計ろうとするものと考えています。そのため、委員会は被害の回復は調停や仲裁等の話し合いによる解決を基本としています。公務員の人権侵害に対する懲戒処分や、法令に違反していて放置することができないと思われる場合は、例外的に検察官に告発することも定めています。
これらの救済活動に限定せず、国内人権状況等の調査、人権教育、立法・行政への提言や援助等も委員会は行うべきだと考えています。
今後の課題
先の人権擁護法案がそのままの形で国会に再提出されては大変です。その内容を私達の求めるものに修正して提出させなければなりません。そこで求められるのがNGOの力です。
国内人権機関の設置など無理だと思っている人もいるかもしれませんが、決してそんなことはありません。政府は国連人権理事会で機関の設置を約束しています。また、2008年行われた自由権規約委員会による日本政府報告書第5回審査でも独立した国内人権機関が設立していないことについて、設置に向けて努力していると表明しているのです。国内の強い後押しがあれば、その実現は可能です。私たちNGOやそこに集う市民の力を実現に向けて活用しようではありませんか。
*日弁連の提案する国内人権機関の制度要綱は以下のHPで閲覧できます。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/081118_4.html
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