はじめに
1979年6月、日本が国際人権規約を批准し、同年9月21日から条約が発効して今年は30周年に当たります。国際人権規約の批准には、大阪における批准促進運動が大きな役割を果たしました。世界人権宣言大阪連絡会議(以下、世人大)はこの取り組みを継承しています。世人大の歩みを振り返るにあたって、国際人権規約批准運動から振り返ってみます。
国際人権規約とは
国際人権規約は世界人権宣言を発展させ条約化したもので、1966年12月国連で採択されました。採択当初は「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)」、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」、「市民的及び政治的権利に関する国際規約についての選択議定書(個人通報制度を規定した自由権規約についての第1選択議定書)」の3つから構成されていました。現在ではこれらに死刑廃止を規定した「自由権規約についての第2選択議定書」と、まだ発効はしていませんが既に国連総会で採択されている個人通報制度を規定した「社会権規約についての選択議定書」とを含めた5つの条約で構成されています。
残念ながら現時点で日本はどの選択議定書も批准していませんが、民主党は「自由権規約についての第1選択議定書」の批准をマニュフェストに掲げていますので、今回成立する新政権において批准することが期待できます。
国際人権規約批准促進大阪府民会議結成
採択から10年後の1976年、1月3日に「社会権規約」が、3月23日に「自由権規約」と「自由権規約についての第1選択議定書」が、国際的に発効しています。これをきっかけに日本国内においても、国際人権法学者や憲法学者が新聞紙上等で国際人権規約の重要性、日本が批准する必要性を呼びかけていました。この呼びかけに応えて私たちも必死に勉強して、1976年3月の部落解放同盟第31回全国大会で国際人権規約批准運動に取り組む方針を採択し、3月22日に神戸商船大学の芹田健太郎助教授を招いて国際人権規約発効記念講演集会を開催しました。そして翌1977年3月23日、大阪の被差別部落出身で、日弁連会長を歴任された和島岩吉弁護士を会長とする、国際人権規約批准促進大阪府民会議(以下批准促進会議)が結成されたのです。
国際人権規約大阪府民会議へ発展
批准促進会議は国際人権規約の学習に力を入れていました。また署名や自治体の議会決議を獲得する取り組みも展開され、それをもとに外務大臣へ早期批准を求めるといった、政府に対する要請行動も展開されました。そして大阪だけでなく、東京での批准を求める集会にも積極的な役割を果たしました。その結果、国際人権規約批准案件は1979年5月8日に衆議院、6月7日に参議院を通過して正式に批准することになったのです。
1979年6月14日の国際人権規約批准記念大阪府民集会開催を経て、批准促進会議は条約の批准後も国際人権規約の普及宣伝、具体化と完全批准を求めると同時に、他の人権条約、とりわけあらゆる形態の人種差別の撤廃に関する条約(「人種差別撤廃条約」)の批准を求めていくために、同年12月10日、国際人権規約大阪府民会議として存続することを決定しました。
国際人権規約連続学習会の開催
国際人権規約連続学習会の記念すべき第1回は1980年2月21日の大阪経済法科大学の金東勲教授による「在日韓国・朝鮮人の実態と人権擁護」と題した学習会です。これ以降、8月を除く毎月1回開催された連続学習会は今回で309回を数えるまでに至り、これから述べる一連の活動の啓発・世論喚起に大きな役割を担いました。
他にも1980年12月の国際人権シンポジウムや、1982年12月の第1回反差別国際会議の開催といった国際的な連帯活動にも積極的に協力してきました。このような活動に取り組んでいた国際人権規約大阪府民会議が世人大に移行していきます。
世界人権宣言大阪連絡会議の誕生
1983年3月、和島岩吉先生を代表に世界人権宣言35周年大阪実行委員会が結成されました。そして集会の開催や冊子『世界人権宣言35周年を記念した取り組みを強めよう』の発刊に取り組みました。大阪の動きを受けて、9月には全国でも世界人権宣言35周年中央実行委員会が結成されます。
世界人権宣言35周年記念大阪集会(以下、○○周年集会)はバングラディッシュ初代大統領で、国連人権小委員会委員長のアブサイド・チョードリさん等をゲストに迎えて、12月10日に開催されました。翌1984年1月に世界人権宣言35周年記念大阪実行委員会拡大幹事会が開催され、実行委員会を世界人権宣言大阪連絡会議として存続・発展させることと、市町村ごとに設置されていた各地実行委員会にも発展的存続と大阪連絡会議への参加を要請することが決められたのです。この会議を経て1984年3月22日に結成総会が開催されて世人大が組織されました。この年の12月集会は人種差別撤廃条約・女性差別撤廃条約の早期批准を求めた集会になりました。
人種差別撤廃条約批准を求める取り組み
日本政府が1985年に女性差別撤廃条約を批准したため、その後の活動は人種差別撤廃条約批准への働きかけが中心になりました。後に人種差別撤廃条約に関する日本政府報告書を審査することになる国連人種差別撤廃委員会委員長のルイス・バレンシア・ロドリゲスさんを講師に迎えた1985年の37周年記念・平和と人権大阪集会や、アメリカ・虹の連合代表のジェシー・ルイス・ジャクソンさんを講師に迎えた1986年の38周年集会等を開催しています。当時、国内では中曽根首相の人種差別発言問題や在日外国人に対する指紋押捺問題がありましたが、ジャクソンさんは「その国が文明化されている基準は社会的弱者の受けている取り扱いを見ればわかる」と重要な指摘をしてくださいました。
反アパルトヘイトの取り組み
1987年4月にはアパルトヘイトの撤廃と平和の確立を求める集会の開催や、ユニークな取り組みとして「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展インおおさか」を11月8日~12月9日にかけて府内9ヵ所で実施したこともありました。更にアパルトヘイトの早期廃絶を求める議会決議に向けた要請行動を展開して、1990年10月31日には大阪のすべての自治体でその決議を勝ち取ることができました。これは大阪の誇りです。
そしてアパルトヘイトの象徴的存在であった活動家ネルソン・マンデラさんが1990年2月に釈放された後、日本にお招きして10月28日に扇町プールで開催された歓迎西日本集会へも世人大は参加しました。その集会でマンデラさんと握手した時の写真は私の宝物です。マンデラさんの、獄中の闘士とは思えないほど柔らかな手の感触は今でも覚えています。アパルトヘイトを支える法律は1991年6月に廃止され、1994年4月にマンデラさんは大統領に選出されます。
これらの活動と並行して、1988年1月の反差別国際運動(IMADR)結成にも世人大は参加していますし、1988年には40周年集会として第2回反差別国際会議も開催しています。
アジア・太平洋人権情報センターの設立に参加
世人大はアジア・太平洋人権情報センターの設立にも大きく貢献してきました。今回成立した鳩山新政権はアジアを重視した外交政策を掲げ、東アジア共同体構想を打ち出しています。私達も以前から人権重視に視点を置いたアジア共同体構想を掲げています。
41周年集会は「アジア・大洋州のマイノリティと人権」をテーマに、同44周年集会では「アジアにおけるマイノリティの人権状況と課題」をテーマに開催しました。アジア・太平洋人権情報センター設立に向けた訪欧調査団に代表派遣や、中国楽山民族歌舞団公演の実施、あるいはアジア・太平洋人権情報センター設立推進委員会設立総会やアジア・太平洋人権会議へ参加しました。
1993年8月からアジア・太平洋人権情報センター設立に向けた資金カンパ活動の取り組みながら、従来の講演会形式の学習だけではなく、シンポジウムや世界先住民・マイノリティフェスティバルを開催、12月の集会に岡林信康さんや喜納昌吉&チャンプルーズの公演を取り入れる等、文化的な視点にも着目するようになりました。そして1994年12月にアジア・太平洋人権情報センターが開設されたのです。
人権教育のための国連10年の推進
日本は1995年12月15日に146番目の国として人種差別撤廃条約に加入しました。ここから取り組みは、人種差別撤廃条約の実施と人権教育のための国連10年の推進にシフトしていきます。この「国連10年」については府が政府より早く行動計画を策定する等、大阪が全国の先頭を走っていました。1995年7月には「人権教育のための国連10年推進大阪連絡会」が結成されます。1998年の50周年集会は「国連10年」と「アジアの人権」をいう2つのテーマを結びつけて開催しました。
2000年12月6日、人権教育及び人権啓発の推進に関する法律が公布・施行されます。これは1999年7月に出された人権擁護推進審議会の「教育・啓発」答申が基となっています。当初この答申では人権教育・啓発に対する財政的措置の必要性は認めていましたが、法的措置までは言及していませんでした。しかしそれでは不安定になるという批判があがり、運動の盛り上がりもあって、最終的には法制定へと辿り着きました。これによって人権教育・啓発に法的根拠ができたのです。
今日の重点的な取り組み
日本が人種差別撤廃条約を批准したことで政府は国連・人種差別撤廃委員会に国内状況を報告する義務を負うことになりました。人種差別撤廃条約では、「人種」の定義を人種、皮膚の色、世系、民族的出身、種族的出身の5つに基づく差別であると規定しています。人種差別撤廃委員会は2002年8月に採択した「世系(descent)」に関する一般的勧告ⅩⅩⅨで、部落差別やインドのカースト制度に基づく差別は世系に含まれると明記しています。日本政府は、「世系」には部落差別が含まれないと報告していますが、委員会の勧告を尊重することが求められています。
「人権教育の国連10年」は2004年12月に終了し、それは引き続き「人権教育の世界プログラム」として継承されました。これに「国内人権機関」を設置するための法整備や「職業と世系に基づく差別」等に因んだ取り組みを加えたものが、今日の重点課題です。
世人大の組織の現状
1990年5月13日に和島岩吉代表が逝去され、1991年3月の第8回総会において代表幹事に当時の大阪市立大学学長、崎山耕作さんが就任されています。そして2005年4月の第22回総会において代表幹事に京都大学名誉教授の上杉孝實さんが就任され、崎山耕作さんは顧問に就任されました。
現在の世人大は加盟する51団体、19大学、51地域連絡会議による緩やかなネットワーク組織になっています。これは大阪における、人権に関する最も広範な団体の一つです。昨年度の年間予算は1877万円で、年1回の総会、全体会、拡大幹事会と、年2回の拡大事務局会議が開催されています。
今後の課題
国連の人権活動と連帯して、世人大は結成以降25年、批准促進会議結成以降では32年間続けてきた中で以上のような成果を上げてきました。
今後の課題としては<1>国連が採択した人権関係諸条約の中で、日本が未批准の条約の批准、特に障害者権利条約と個人通報を認めた条約の早期批准の実現、<2>日本が締結した国際人権諸条約の国内での実施、特に自由権規約委員会、社会権規約委員会、女性差別撤廃委員会、人種差別撤廃委員会、子どもの権利委員会等から日本政府に出された勧告の実施、<3>「人権教育・啓発推進法」の具体化や、「人権侵害救済法」(仮称)の早期制定を求めていくことがあげられます。これらは新政権発足によって努力すれば一定の成果は期待できるようになりました。特に民主党と社民党のマニュフェストにもある人権侵害救済法の制定は今後の試金石になるでしょう。しかし、民主党の中に救済法に反対する意見も少数ですがあることは事実ですし、政治のあり方そのものが変わろうとしている現時点において、どのように働きかけるべきかが不明確なこともありますので、決して油断することはできません。
また、時間はかかるでしょうが、<4>「差別禁止法」の検討と制定を求めていくことや、<5>アジア・太平洋地域における地域的人権保障の実現を求めていくこともあげられます。特に差別禁止法は人権侵害救済法の成立後に現実性が出てくると考えられます。救済法に基づいて人権委員会が差別をやめさせようとしても、就職差別や身元調査、差別表現等、現行法だけではカバーできない部分が出てきます。するとこれらを禁止する法的根拠が必要となるでしょう。その時こそが議論のチャンスです。
更に⑥「職業と世系に基づく差別」の撤廃を求めていくことも重要です。部落差別やカースト制度に基づく差別は日本やインドだけではなく、南アジア全体やアフリカにも存在しています。またインド人の移民の増加によってその範囲は世界中に広がっています。アパルトヘイト廃絶に成功した国際社会において、差別に呻吟する人びとが3億人に及ぶといわれる「職業と世系に基づく差別」は今後の最重要課題であるという視点を持ち続けなければなりません。
そしてこれらの課題の実現に向けて、⑦世人大の拡大と活動の活性化を図っていくことが今後の課題といえるでしょう。
おわりに
人類の歴史は自由や平等の拡大、人権の確立を求めてきた歴史です。しかし日本国憲法に「不断の努力」とある通り、すべての人が自らの手で守ろうとする努力の上にすべての人権は存在します。また、イエーリングの「権利のための闘争」にもある通り、いかなる権利も闘争、即ち努力なしには獲得できないものなのです。
その点において、世人大の活動を、これまで支えて頂いた皆様に感謝するとともに、旧に倍する今後の支援ならびに、一層の参画をお願いいたします。
|