はじめに
国連が、現代世界が抱える様々な問題の啓発・解決を目指して、さまざまな国際年を定めていることは知られています。たとえば「国際婦人(女性)年」(1975年)や「国際先住民年」(1993年)などは比較的有名でしょう。しかし、今年が、「国際森林年」や「国際化学年」とならんで、「アフリカ系の人々のための国際年」とされていることを知っている人はどれほどいるでしょうか。
今、なぜ世界が、「アフリカ系の人々のための国際年」を必要としているのか、またそれを契機に何がみえてくるのだろうか、という点について考えてみましょう。
周縁化されるアフリカ系の人びと
2011年が「アフリカ系の人々のための国際年」に定められたのには、いくつかの理由があります。一つの理由は、国際年に指定することを宣言した国連総会の決議をみるとよくわかります。このなかで、繰り返し述べられているのが、「経済的、文化的、社会的、市民的および政治的権利の完全な享受、社会の全ての政治的、経済的、社会的および文化的観点におけるアフリカ系の人々の参加と統合の促進」という言い回しです。この一見わかりづらい言い方は、現代世界において、アフリカ系の人々が政治的にも、経済的にも、社会的にも、十全な権利を与えられていないこと、そして、社会のなかで周縁化され排除・排斥されている現状の認識とそれに対する危機感を表わしています。
グローバル化の進展とともに急激に存在感を増している欧米社会におけるアフリカ系移民が、ホスト社会において自らの文化的価値を否定され、経済的下層に押しやられてきたことは日本のニュースでも報道されています。日本においては、アフリカ系の人々の数自体が欧米に比べるといまだ圧倒的に少数ゆえに、それほど顕在化していないものの、彼らを排除・排斥する意識と態度は、欧米とまったく同種のものがあります。2010年の在留アフリカ人登録数は、1万数千名ほどですが、オーバーステイなども含めた滞日者は四万名ともいわれます。彼らの多くは、警察や社会から常時「犯罪者予備軍」扱いされる不快感と被差別感を訴えています。
歴史的不正義の被害者としてのアフリカ系の人びと
本年が、国際年に指定された第二の理由は、今年が2001年に南アフリカのダーバンで開催された「反人種主義国際会議」から10年目の節目を迎えたことです。ダーバン会議は、世界各国から政府、非政府系の参加者8000名が集結した現代世界の人種主義に反対する一大イベントでしたが、そのなかでもっとも中心的に議論された点は、過去アフリカが被った奴隷交易と植民地支配によって莫大な利益を得てきた欧米諸国からの「謝罪」と「補償」に関するものでした。長期間におよぶ激しい交渉によっても、合意点は見いだせず、結局、「奴隷制、奴隷取引、大西洋越え奴隷取引、アパルトヘイト、ジェノサイドおよび過去の悲劇の結果として無数の男性、女性および子どもたちに加えられた語られざる苦痛と害悪を認め、深く残念に思う」という「遺憾の意の表明」にとどまらざるを得ませんでした。この「害悪」の補償に関しては、欧米諸国の拒絶によって議論は決裂し、「さらに、犯された重大かつ大規模侵害について進んで謝罪をしてきた国家や、適切な場合には、補償を支払った国家があることに留意する」と指摘をするのがせいいっぱいでした。
人類史においてアフリカ系の人々が被った「害悪」に対する、国際社会の不十分な態度を再度見直すことが、ダーバン会議から10年を経た本年の決議に込められたメッセージなのです。
「アフリカの年」から半世紀を経たアフリカ社会
2011年が「アフリカ系の人々のための国際年」とされる、もう一つの理由は、今年が、「アフリカの年」から50年という節目を迎えていることとも関係しています。19世紀後半にヨーロッパ列強によって恣意的に分割され、植民地にされたアフリカは、1960年から1964年のあいだに大半が独立を勝ち取りました。新生アフリカ諸国が人々にバラ色の希望を与え、世界にアフリカの時代の到来をアピールしたのが「アフリカの年」でした。それから半世紀が経過しました。うちつづく内戦、内乱、独裁、人権侵害、それに飢餓、貧困、感染症などによって、バラ色の夢は色あせ、1990年代、アフリカは「絶望の大陸」とも呼ばれました。こうした政治的動乱、経済的破綻、社会的無秩序を経験したアフリカ社会が、社会の再建と修復のために、創意工夫を凝らしてたちあがりつつある時期が、今なのです。
現代世界とレイシズム
アフリカ系の人々を、社会・文化的にも政治・経済的にも中心から排除し周縁化してきた最大の力は、人種差別主義(レイシズム)であることは疑いありません。ではこのレイシズムは、いかにして出現し、どのようにしてアフリカ系の人々をターゲットにしてきたのでしょうか。
レイシズムを考える際に、困難なことがあります。それは、社会的に流通している「人種」イメージと科学的(学術的)に議論されている人種概念がずれていることです。私たちは、通常、白人とか黒人あるいは黄色人種という人間の分類を、自然なもの(生まれながらに定められたもの)と考えがちです。たとえば、「黒人には天性の身体能力がある」とか「黄色人種特有の忍耐強さ」などという表現は、マスメディアなどでも頻繁に目にします。しかし、人種を「生物学的」な「自然」な人間分類として見る見方は、今や完全に否定されています。その証拠に、1970年代まで日本の多くの大学で講義されていた生物学としての「人種学」は、今やどの大学からも姿を消しています。なぜなら、人種は生物学的な人間分類ではなく、きわめて社会的人為的な人間分類であることが明らかになったからです。たとえば身体形質の差異の大きさの点からみると、黒人種とされているカテゴリーのなかの偏差の方が、「人種間」の違いよりも大きいことや、人種を主要に決定する皮膚の色を規定する遺伝子は、人間のもつ遺伝子二万個のなかのわずかな個数に過ぎないこと(にもかかわらず、それをもとにして人間を区分するのは基本的に社会的人為的な行為です)など、人種の「自然性」を疑う根拠が次々に指摘されたのです。
世界史におけるレイシズムの役割
では、人種概念の消滅以前、世界を席巻してきた人種と人種主義とは何だったのでしょうか。この問題を考えるには、「いつからヨーロッパ(人)はアフリカ(人)を劣等視してきたのだろう」という問いが必要になります。ヨーロッパ人がアフリカ人を、自分たちとは異なる「サル」や「知能程度の低い生き物」として蔑むようになるのは、そう古いことではありません。それは、15世紀から16世紀に突然出現した「眼差し」でした。それ以前のアフリカ観は、「世界の富の中心」として憧憬したり、整った大学、都市、王宮を賛美したりするものでしたが、この時代以降、アフリカ(人)観は、文明から未開・野蛮に百八十度反転してしまいます。もちろんそれには社会的歴史的な根拠がありました。
この時代から始まるヨーロッパの「大航海時代」は、欧州と南北アメリカ、それにアジアを結ぶ世界経済システムを作り出しました。初期の世界システムを支えていたのは、アジア・アラビアから欧州へ輸出された茶とコーヒー、それに伴い消費される砂糖生産のために「新大陸」で開拓されたサトウキビプランテーション、そして、そこで働く労働力としてのアフリカ人奴隷でした。こうしてヨーロッパに成立するティー文化とカフェ文化を享受したのは、新たに社会の主人公となった新興市民階層です。この市民階層が作り出した新しい人間観・社会観こそが、今日私たちが暮らす近代社会にも受け継がれる、自由や平等の精神でした。しかし、人間は生まれながらにして誰にでも自由と平等を希求する権利があるという近代市民の思想は、アフリカ人を奴隷として酷使する行為とはまったく相いれないものです。だが、アフリカ人奴隷の労働力こそは、ヨーロッパに富をもたらし市民社会と産業革命を生み出す源泉でした。人間の自由とアフリカ人の奴隷化、この両立不可能な困難な命題を両立させるために考案された唯一の解決策が、アフリカ人を人間の範疇から除外し、非人間としてとらえる「レイシズム」でした。こうして、17世紀から19世紀にかけて、すなわちヨーロッパにおいて、近代市民社会が成立し産業革命が進展し世界の富の中心になる進歩と繁栄の時代が、アフリカにとっては最悪の奴隷交易の被害がもたらされる暗黒の時代となりました。つまり、近代市民社会の成立とアフリカ蔑視とアフリカ人へのレイシズムの誕生は同じコインの表と裏の関係だったのです。
近代市民社会のオールタナティブを求めて
したがって近代市民社会の土俵にたって、アフリカに対する不公正を論じることは、原理的に不可能な作業ともいえます。なぜなら、アフリカに対する歴史的不正義と、今日のアフリカが抱える困難の遠因を作り出した張本人が、ヨーロッパに出現しその後世界中に拡張・定着していった近代市民社会の仕組みだったからです。こう考えると、「アフリカ系の人びとのための国際年」で取り組むべき課題は、たんに、アフリカ系の人々やアフリカ社会が抱える困難や差別の実態を認識し、問題を改善することだけではないことがわかります。それは、これまで近代市民社会の「常識」とされてきた思考や制度を、根源的に再考し、それとは異なるもう一つの(オールタナティブな)思考と制度を、近代市民社会によって虐げられ歪められてきたアフリカ社会の潜在的な知恵のなかから見出すことであり、現代社会が直面している多くの困難と難題を克服していく手がかりをつかむことにあります。
二つの例をあげましょう。グローバル化が進展すると欧米や日本社会は、急激に多文化化が進行すます。一つの社会のなかに複数の異質な文化集団が共生していく状況が生まれるのです。この多文化状況は、今日、多くの困難を生み出しています。文化間の敵意や憎悪は、特定の民族集団への暴力的排除や民族文化への否定的意識の醸成をもたらします。そこでは、どのようにして異なる民族・異なる文化が共存できるかが重要な課題となるでしょう。アフリカ社会が創造してきた知恵は、これまでの近代市民社会における民族・文化観とは根本的に異なるものでした。たとえば、異なる民族の成員同士が、全的に対立する構造(たとえば日本民族と朝鮮民族の対立のように)を避けるために、それぞれの民族のなかに民族の境界を越えて連携する下位集団や、それぞれの民族に同時に帰属する(二重帰属の)下位集団を設定したり、民族を適宜変更することを承認する仕組みを作り出したりすると、すべての民族成員同士が、憎しみ合ったり殺しあったりする可能性は大幅に縮減されることになります。このような仕組みはアフリカでは珍しいものではありません。
あるいは、いったん紛争・衝突が生起したあと、その被害や犠牲の解決する仕組みも、アフリカ的な発想と近代市民社会の原理とはずいぶん異なります。私たちの社会では、加害者を特定し法廷で裁く(処罰する)というやり方を採用していますが、これだと大量殺戮や複雑な民族紛争の処理は困難だし、法廷で処罰することによって、その社会(共同体)に生じた亀裂や敵意が癒やされ修復されることは困難でしょう。アフリカ的な発想では、こうした紛争や殺戮を、近代的な法廷システムによらず、被害者と加害者の真実の告白と赦し、そして和解という法廷外の解決を模索することになります。こうした解決策は、南アフリカのアパルトヘイトによる人権侵害や、ルワンダのジェノサイドによる社会の解体といったケースで実際に用いられ成果をあげています。
もちろん、アフリカ的知恵がすべてバラ色というわけではありません。そこには多くの矛盾や問題が内包されていることは間違いない。しかしながら、18世紀に西欧に成立し、その後の世界秩序の基本枠組みとなってきた、国民国家や市民社会という仕組みが、さまざまな困難と限界を露呈しつつある現代世界において、それとはまったく異なる、もう一つの社会観、人間観の母胎として、アフリカ社会がはぐくんできた叡知が注目されています。「アフリカ系の人びとのための国際年」は、こうした課題を考えるきっかけとして、意義深いものなのです。
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