講座・講演録

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2012.07.27
講座・講演録

国際人権規約連続学習会
世界人権宣言大阪連絡会議は、2012年4月25日(水)の第29回総会終了後、総会記念シンポジウムとして第338回国際人権規約連続学習会を開催しました。12月集会でもとりあげた「水平社宣言と90年の運動の教訓を「女性」の立場から、語っていただきました。また、同5月24日(木)には戸籍謄本等の本人通知制度の必要性をテーマに取り上げ、第339回国際人権規約連続学習会を開催しました。報告要旨は以下の通りです。(事務局)


第29回総会記念シンポジウム(第338回国際人権規約連続学習会)

「水平社宣言と90年の運動の歴史から学ぶもの -女性の立場から」

塩谷幸子さん(部落解放同盟大阪府連合会執行副委員長、同女性部長)
鈴木裕子さん(女性史研究家)
古久保さくらさん(大阪市立大学大学院創造都市研究科准教授)
進 行 : 中田理恵子さん(部落解放・人権研究所啓発企画室長)

中田:まず「水平社宣言」から学ぶことを伺います。

古久保:水平社宣言が出された1922年前後には、女性史に新時代を開く、いくつかの動きがありました。18年に、女性の経済的自立を主張する与謝野晶子と、国家による母性保護を唱える平塚らいてうの議論に始まる「母性保護論争」が繰り広げられました。その後平塚は、20年に市川房江らと、初の全国規模の市民婦人団体「新婦人協会」を設立、男女の機会均等や家庭の社会的意義の明確化などを求めました。22年にいったん解散するものの、「婦人連盟」として再結成後、「婦選獲得同盟」に参加することによって発展的に解消しました。女性には参政権も夫との法的平等もなかったという時代背景を考えれば、水平社宣言の「男らしき産業的殉教者」「兄弟」などの表現に見られる女性に対する視点の欠落は、時代的制約であると評価せざるを得ないでしょう。
むしろ水平社宣言から学ぶことは、その連続性です。「新婦人協会」設立時にも「婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました」で始まる宣言が出されましたが、現在の女性の運動にまで影響を与え、歴史がつながっていくほどの強さは持ち得ませんでした。また、水平社宣言は、その抽象度の高さゆえに、部落民としての誇りと団結を促し、解放運動の原点を保持し続けてきたという特徴があります。女性運動におけるさまざまな「宣言」と比して、ある種の感嘆を覚えます。

塩谷:私が生まれ育った大阪府羽曳野市の向野部落は、食肉加工を地場産業としています。動物の命を絶つことで人間の命を繋いでいることの原点を、誇りを持って発信する勇気を、水平社宣言の「産業的殉教者」という文言から受け継いで頑張っています。
しかし、宣言には「男らしき」「兄弟」という文言しかありません。部落の女性も地場産業の担い手として地域を支えてきたにもかかわらず、現在でも部落解放同盟の全国大会や府連大会でも女性問題は二番手扱いですし、女性は動員要員と考えられて、中心的な役割からは排除されがちです。この間、私たちは人権を標榜する団体が女性を排除することは社会的にも責任を果たしていないのではないかと追及してきました。同時に、部落の女性自身も、女性差別とは何なのかを教えられてこず、女性解放の視点が欠けていたことを水平社宣言から学んだとも言えます。このことは当事者として、これからの教育の課題であると考えています。

鈴木:水平社宣言は非常に画期的なものでしたが、私は本来「兄弟よ」は「兄弟姉妹よ」、「男らしき」も「女ないし男らしき」とあるべきだと思います。当時の日本社会では、フェミニズムの思想は非常に弱く、浸透していませんでしたし、家父長制がしっかりと根付いていましたから、西光万吉さんらの女性に対する視点は弱かったのではないでしょうか。

中田:次に「90年の運動から学ぶこと」というテーマでご発言をお願いします。

古久保:第2次世界大戦後の「婦人解放運動」(ここでは「婦人による部落解放運動」を指す)は、1956年に京都で開催された部落解放全国婦人大会を機に、より大衆的な規模で女性たちが運動に関わって展開していきました。前年に開催された日本母親大会に部落出身の女性約60人が参加し、その影響を受けて開催されたもので、戦後の婦人解放運動と女性運動の最初の接点がここにあったことは認識しておくべきところです。
婦人解放運動におけるこの大会の意義は、部落女性が、個人的経験を語り合うことによって、自らが置かれている状況についての社会的認識を高められたこと(コンシャスネスレイジング)です。各地域で抱えている貧困や非識字の困難を語り合い共有することで、自分たちが社会を変えていくのだという主体化を進めていったことは特筆すべきでしょう。
婦人解放運動をつうじて、行政に要求して、実効性のある施策を獲得していった点は特に重要です。大会では各地の取り組みが紹介され、参加者はそれを持ち帰り、それぞれの地域にふさわしい形に変容して実行されました。同時にこれは、当事者による地域改善運動の側面も持っていました。当事者性を部落出身であることにおきながら、婦人解放運動で女性たちが最初に求めたのは子どもの保育・教育の保障でした。毎日のように市役所に詰めかけて行政交渉を行い、保育園や学童保育などをかち取ったことは、戦後の女性運動の中でも突出した成果です。
同時に婦人解放運動は、性的役割秩序において期待される母親像を前提とするものでもありました。また、運動の男性指導者から、部落差別に基づくものとして、「男性の甲斐性のなさを女性は責めるべきではない」という批判が出され、これが受け入れられてきたのです。そのため、婦人解放運動は、ともに部落差別と闘う者として夫婦間の絆を強めた反面、夫からのDVなど夫婦間の問題を問題視しにくくし、DVそのものを批判する論議を妨げてしまった可能性も否定できません。
しかし、一概に性別役割分業に基づいた運動だったとのみ評価することもあたわないでしょう。生活保護費の男女平等を実現させるなど、婦人解放運動の日本女性全体への影響も注視すべきであり、今まさに女性史における婦人解放運動の意義を検証し、正しく評価することが必要な時期に来ていると考えます。

塩谷:向野地区の大先輩・糸若柳子さんは、全国水平社の設立大会にも参加され、「婦人水平社」の結成を呼びかけたひとりで、「女が変われば部落が変わる」と言い続けてこられました。「誇れる人間でありたい、労わってもらいたいとは思わない」という生き方を貫かれた反面、生活保護とは国が基本的人権を保障するためのものなら、私は受給すると承諾されたことも印象に残っています。糸若さんの生き方を伝えることが、次代の運動を育てることになると思っているところです。
解放運動の中で女性が中心になった最初の取り組みは識字運動です。生きる力としての文字を取り返し、資格を取得して就労に結びつける取り組みに発展しました。行政交渉で大きな成果を上げたのは保育運動です。家に親がいても、子どもたちに適切な保育を与えられない現状では、健全な発達という意味で「保育に欠ける状態」であると訴え、地域の中で皆保育をかち取りました。さらに安定就労のために、ゼロ歳児保育や長時間保育、病児保育を要求し続けました。男性ばかりか、おばあちゃんたちからも「今の若い親はすぐに保育所に預ける、私たちの時には…」と「女が女を敵に回す」発言が出る中で頑張ってきました。また、全国婦人集会で大阪の女性が「産みたくても経済的な事情で産めなかった」と訴えたことを機に、妊産婦担当ヘルパーや出産・育児一時金といった制度も実現させました。
実は私たちは、それが女性差別だとは気付いておらず、部落差別だと受け止めていました。1975年の国際婦人年以降、「ジェンダー」や「フェミニズム」など、見たことも聞いたこともないカタカナ言葉が出てきて、集会に参加しても意味さえ分からないこともありましたが、さまざまな女性運動団体と関わり学ぶ中で、私たちがしてきたのは、女性解放のための取り組みだったのだと気付いたのです。95年には、北京で開催された国連の世界女性会議のマイノリティーワークショップに反差別国際運動というNGOと連帯して、部落女性としてはじめて参加。2009年に堺で開催された日本女性会議の分科会では、複合差別をテーマに部落女性の実態報告をさせてもらいました。労働組合と連帯し、女性の職域拡大にも取り組んできました。
要求の中には何年もかかって実現したものもあります。生活保護費の男女差の撤廃がそうです。当時は生活保護の審議委員は男性ばかりで、まず女性を審議会に入れるのに数年を要しました。その後、女性差別撤廃条約が批准され、運動を始めてから7年後にやっと男女同額になったのです。部落の中には生活保護世帯が多かったことで、この矛盾が見えてきたわけですが、部落の女性にとどまらず、社会全体の課題としてシステムを変えていくために、その最先端で当事者が声を上げるという役割を、私たち部落女性は担ってきたと自負しています。

鈴木:女性水平運動家のひとりである高橋くら子は「愛と自由のために」という原稿の中で「我が姉妹よ、お互いに希望を持って、光明の世界へ、自由の世界、愛の国へ進みましょう」と、女性たちの団結と連帯を訴えました。また、九州の婦人水平社運動の中心を担った西田ハルは、煙草専売局(現・日本たばこ産業)の労働者で、労働争議においても活躍しました。福岡では労働運動と部落解放運動が結びついていたというのがひとつの特徴です。

中田:今後、目指すべき方向について、また運動に期待することについて、お願いします。

古久保:「特別措置法」によって圧倒的な貧困や住環境の劣悪さは改善されたものの、特措法体制終了後、経済的に困窮した人たちが再び旧同和地区に流入しているという実態があります。また、差別が非常に厳しい時代の不安定就労や低賃金労働のため、貧困状態で高齢期を迎えるといった新たな問題も生じていますし、2012年現在にあってすら、結婚差別や土地差別が次々に指摘されています。
今後、婦人解放運動あるいは部落解放運動において、地域における生活課題を表現しあいながら形にしていき、行政との連携によって公的サービスにつなげることで改善していく、コンシャスネスレイジングの姿勢が再び非常に重要になっているのではないかと思います。地域に根差し、地域の独立性を尊重する手法を、部落解放運動は決して手放すべきではないと考えます。
そこで期待されるのが、旧同和地区における福祉のまちづくり戦略です。そこでは恐らく、再び女性たちがこの動きを担うことが必要となるでしょう。あるいは個人責任の名の下、学校の内外で教育成果を求める風潮の中で、やはり地域力が試されることになります。
その時、改めて「よそ者」と部落解放運動をしてきた人たちは対峙せざるを得ないでしょう。たとえば彼らの女性の権利意識についての主張が、男性活動家のみならず、地域で婦人解放運動に取り組んできた女性たちとの間に軋轢を生むかもしれません。地区外の人を巻き込みながら、より豊かに人間らしく生きる社会を作っていくための運動を、女性の視点を持ちつつ、衝突を繰り返しながらもお互いが歩み寄り受け入れていくという過程を含めて行い続けていくことに、これからの解放運動の未来を期待したいと思っています。

塩谷:「しんどい」と言うだけでなく、部落女性への調査結果を数字にすることで差別の実態に社会性を持たせ、内閣府と交渉する際の材料にもしています。たとえば解放同盟中央本部女性部の調査では、夫からの暴力を受けている人が3割にのぼることが分かりました。実際はもっと多いものと思われますし、そのほとんどは泣き寝入りです。労働問題では、部落の女性は男性並みに働きながらも、収入は男性の半分、部落外の女性よりも低いことも明らかになりました。こうした結果、昨年、内閣府が策定した「第3次男女共同参画基本方針」の中に「同和問題等に加え、さらに女性であることで複合的な条件に置かれている場合」という文言が入りました。「特別措置法」の失効により、部落問題は解決済みとの認識が広がる中で、このことは画期的です。
しかし、一番変わらないといけないのは、解放同盟の組織内なのです。表に立つのは男性ばかりですし、全国大会の代議員定数女性3割という目標達成には至っていません。やっと中央本部で「男女平等社会実現基本方針」が定義され、大阪府連にも「セクハラ対策委員会」ができました。しかし女性自身でも女性差別を見抜けていない人が多く、その意識改革も今後の「内なる課題」です。先ほど、「福祉のまちづくり」のお話がありましたが、住んでよかったといえるまちづくりを担っていくために、向野支部では若い世代に向けた女性の課題解決のための学習会や、女性として部落問題と向き合うことをテーマにした冊子づくりなどに取り組んでいるところです。

鈴木:まず求められるのは、複合差別の解明と、連帯・団結の強化です。ともすれば、フェミニストは性差別だけ、男性のコミュニストやソーシャリストは階級差別だけを問題にする傾向があります。私の知る限りでは、複合差別の視点を持っていたのは山川菊枝くらいではないでしょうか。これを解明することは、今後の部落解放運動に大いに役立つものと思われます。そういう意味でも、解放同盟女性部の前進に期待しています。さらに日本では、いまだに家父長制がはびこっています。明治国家は女性を家庭内に押し込んで、女性の独立を極力阻止してきました。この克服も大きな課題です。

中田:ありがとうございました。私も解放同盟という、大きな人権団体の中の女性問題は今後も強化していくべきではないかと思います。参加者のみなさま、ご清聴ありがとうございました。