講座・講演録

部落問題・人権問題にかかわる講座情報、講演録を各カテゴリー毎にまとめました。

Home講座・講演録>本文
2013.10.05
講座・講演録

351回国際人権規約連続学習会

水俣病問題を考える
―放置され切捨てられてきた水俣病患者の人権回復の闘い

田中 泰雄 さん (弁護士)

水俣病公式確認から50年以上が過ぎ去りましたが、未だ水俣病は終わっていません。それはこの国の水俣病政策に根本的な誤りがあったからです。水俣病50年の歴史を振り返ると、行政が行ったのは被害拡大を防ぐことではなく、チッソ水俣工場のアセトアルデヒドの増産擁護でした。認定制度によって水俣病の発生は1960年で終わったとみせかけ、アセトアルデヒド生産は1968年まで続けられ、メチル水銀の被害は不知火海一円に取り返しがつかないほど広がりました。これに対し、被害者は様々な闘いを挑み続けてきました。2004年10月15日の最高裁判決と2013年4月16日の最高裁判決は被害者側の主張を認め、国の水俣病政策の誤りをただすものでしたが、政府・環境省は聞き入れようとしていません。今日は放置され、切捨てられてきた水俣病患者達の人権回復の闘いの歴史を振り返りたいと思います。

水俣病とは
水俣病は一般的にはチッソ水俣工場から排出されたメチル水銀が魚介類に蓄積し、その不知火海の魚介類を食べた不知火海周辺住民にひきおこされた主として中枢神経系の中毒疾患です。症状として一番多いのは四肢末端優位の感覚障害であり、他に運動失調、求心性視野狭窄、難聴などがあります。チッソ水俣工場のアセトアルデヒドの生産は1932年から行われていたのですが、戦後、増産に次ぐ増産の中で最初は動物に異常な症状が出て、ついには人間にも出てきたのです。公式的には1956年5月に厚生省へ報告されたことで発見されたとなっています。当時すでに、多くの人がチッソの工場排水で汚染された水俣湾の魚介を食べた事が原因だと考えていました。しかし国や熊本県が、証拠がないとして採捕禁止規定を適用しない状態が続き、その間にチッソが排水先を百間港から水俣川河口に変えたため、有毒物質が一層広がってしまいました。

チッソや国、県の初期対応
当初、チッソ側は関わりを否定していましたが、密かに猫へ排水投与実験を行い、1959年10月には病気の発症を確認していました。この実験は後日判明します。同年7月、熊本大学は有機水銀説を公表し、同11月に国も厚生省食品衛生調査会で「原因はある種の有機水銀化合物」だと断定しました。しかし、それを調査した水俣食中毒部会は答申を出した当日、解散させられ、翌日には通産大臣が「水俣病と水銀とを関連付けるのは時期尚早」と発表します。熊本県は60年には「水俣湾産魚介類の多量摂取による食中毒」と認識していましたが、魚介類の採取禁止による漁業補償を怖れて、食中毒原因の特定を行いませんでした。それどころか、補償対象になる患者をいかに少なくするか、ということで動いていきます。
そのことを象徴するのが1959年12月30日の「見舞金契約」です。工場排水が原因として確定していなかった段階で、チッソが患者にわずかなお金を払い、将来工場排水が確定的になっても新たな補償はしないという内容です。そして審査会で認定した人だけに補償する枠組みを作りました。さらに非常に厳しい患者差別があった当時、本人申請に限定しました。なるべく被害者を少なくして、チッソに負担をかけない構造を作ったのです。
1960年に、経企庁を中心に水俣病総合調査研究連絡協議会を立ち上げましたが、3,4年で解消します。公害が発生して原因究明しても、必ず反論が出て中和されてしまう歴史の始まりです。59~60年にかけて行われた熊本大学による多発地区住民の検診や、熊本県衛生研究所の3年にわたる毛髪水銀量調査も、結果が活かされず、追跡調査も行われませんでした。それどころか、毛髪水銀調査自体が秘匿されたことを、1971年に宮澤信雄さん(元NHKアナウンサー)が明らかにしました。
1968年5月、ようやくチッソはアセトアルデヒド酢酸設備の製造を停止します。それを待っていたかのように政府は9月に初めて「水俣病はチッソのメチル水銀による公害」との見解を出しました。ただし、「患者の発生は昭和35年を最後として収束している」という誤った認識も発表しています。

水俣病事件はなぜ引きおこされたのか
高度経済成長による産業優先・人命軽視により、水俣病は生じました。チッソは工場排水が原因とわっていても排水を流し続け、国はそれを擁護し、患者を放置していました。国の責任は非常に重大なのに、なかなか認めませんでした。  
水俣病に限らず、様々な公害が問題になる中、1969年12月に「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が施行され、これが1974年には「公害健康被害補償法」に変わります。水俣病も法律に基づいた簡単な申請手続きで認定されたら救済・補償する枠組みを作りました。しかし、常に認定は補償と関係していたので、なかなか認定されませんでした。1970年2月の認定審査会で、「水俣病関係では本審査会判定は公害補償と関連があるので、その点も考慮して慎重を要する」という説明までしています。

46年旧次官通知と52年判断基準
このような現状に対して動き出されたのがチッソ水俣病患者連盟委員長川本輝夫さんです。審査会で認定されなかった川本さんが行政不服の申し立てを行います。この時、発足後まもない環境庁は現地調査や参考人の聞き取りをするなど、かなり熱心な審議をしてくれたようです。1971年8月、環境庁が川本さんの認定方法が間違っていたと言う認定棄却取消しの裁決を出します。そして「水俣病に見られる神経症状のいずれかがあり、それが明らかに他の原因によるものである場合は別として、メチル水銀経口摂取の影響によるものであることが否定できない場合は水俣病として救済する」という通知(46年旧次官通知)を出します。一つでも症状があればよいと言ったのです。この通知によって認定申請者の数が増加し、認定される方もそれなりに増加します。並行してチッソの責任を追及する裁判が行われ、見舞金契約は公序良俗違反により無効になりました。
1973年、チッソ相手の熊本第一訴訟でも患者側が1600~1800万の損害賠償を勝ち取ります。チッソと補償協定が結ばれ、認定をされれば公健法にはない慰謝料が支払われ、さらに生涯の療養手当等も補償されるようになりました。補償協定の当事者だけでなく、今後認定される人にも同様の補償をすることになりましたが、結果、一人の患者に対する補償が高額になります。そのためチッソが再び認定抑制に動きます。同年、有明海で第3水俣病事件が発生します。熊大医学部が汚染されている水俣地域と対岸の御所の浦住民及び天草郡有明町との健康比較調査を行い、有明町でも同じような症状の人が出ていると大騒ぎになりました。国は原因を突き詰めて調べずに「水銀の汚染はない」といって収束させた上に、この騒動によってさらに患者の認定抑制に傾いていきました。
国は認定基準検討会を作って、基準を厳しく考え直そうとします。1977年には、感覚障害に加えて何か1つ症状がないと水俣病とは認めないという52年判断条件が出ました。この基準で棄却患者が増加します。46年旧次官通知はメチル水銀の被害者はもれなく救済する趣旨だったのですが、今度は典型的な症状が2つ以上そろわなければ棄却するという方針転換です。実際、その頃認定患者累積数が非常に増加し、チッソが立ち行かない事態になってきていました。国と県はチッソを支援するために熊本県債を出し、チッソも、国や県も補償を抑制するため、患者を制限していきます。
発生・拡大・放置・切捨てという4つの責任
認定制度は常にチッソの負担が考慮され、正しく機能せず、破たん状態になります。そのため、各地でチッソだけではなく国、熊本県を相手にした国家賠償訴訟が起きます。県外患者による初めての訴訟が関西訴訟です。水俣病を直接発生させたのはチッソですが、国・県にも病気を拡大させた責任があります。認定審査の在り方についても裁判になりました。
1985年8月の熊本第2次訴訟福岡高裁判決は、52年判断条件の見直しを要求し、補償協定と連動したため正しく認定できていないことを明らかにしました。この判決に対して環境庁は、それまで水俣病に関わりのなかった医師3名と、判断条件をつくるのに関与した当事者5名で水俣病医学専門家会議を開き、52年判断を支持する結論を出させます。ところが実際に汚染された地域には感覚障害の人がたくさんいるので、感覚障害がありながら申請を棄却された人に、再申請しない事を条件に医療費の自己負担分を支給する特別医療事業を行いました。
裁判が長期化し、裁判所は和解勧告を出しますが、国は拒否します。環境庁は中央公審対策審議会に相談し、水俣病問題専門委員会を開き、52年判断条件を守ると答申させます。第1回会議で特殊疾病対策室長は「国の条件判断が否定されたら、申請者の大幅な増加、負担増によるチッソの倒産という事も考えられ、現行の水俣病対策の基本が崩れる」と述べています。会議は、国と熊本県に賠償責任はない、公健法上の未認定患者は水俣病ではない、財政負担はなるべく軽くすることの3点が前提で行われました。
1995年、自民・社会・さきがけの3党連立政権により「戦後50年の総括」が行われ、水俣病の政治解決が行われます。これは第2の見舞金契約と言ってもいいような、患者の窮状に付け込んだもので、①汚染地域に居住し、四肢末端優位の感覚障害がある人を健康不安者として医療費と療養手当を支給する。②チッソが和解一時金260万円を支払う代わりに、水俣病に係る認定申請・行政不服審査請求・国賠訴訟などの紛争を一切やめる。③村山首相が「遺憾の意」を表明するという枠組みでした。国・県に賠償責任はない、公健法上の未認定患者は水俣病被害者ではないという前提でしたが、1万350人余りの人がこの政治解決に「苦渋の選択」として応じました。

2つの最高裁判決
関西訴訟だけは政治解決に応じることなく「国と県が被害を発生拡大させた責任を問う」、「自分たちは水俣病患者だと認めさせる」ために裁判を続けました。その結果、2001年4月、国と県が排水を止めておけばこれほど水俣病は拡大しなかったという行政責任が大阪高裁で認められました。国や県は上告しましたが、2004年10月、最高裁も国・熊本県の行政責任を認め、52年判断条件を否定しました。判決後、私たちは環境省と繰り返し交渉しました。2005年には環境大臣の私的懇談会の提言書にも認定基準の見直しが必要と書かれますが、行政の根幹にかかわることは簡単に動かせないと言って、52年判断条件の見直しは拒否されました。
環境省は1995年の政治解決で終わりにしたかったのに、最高裁で国が敗けたため、再び患者の申請が増加しました。現地で救済訴訟が再び起こされ、対応を迫られます。そこで2009年水俣病救済特措法が出ます。四肢末端の感覚障害や全身性の感覚障害が認められたら210万円払うという、認定はせずに一時金で処理する制度を再開したのです。しかも、この法律はチッソの分社化を許し、責任逃れを認めたチッソ救済法が本質です。
我々は2007年3月、関西訴訟で水俣病と認められたFさんの認定義務付け訴訟を行いました。国賠訴訟で水俣病と認められているのに、認定棄却する国側の姿勢をただし、Fさんに対する正当な補償を求めました。これは2010年7月に大阪地裁で勝訴判決が出ます。しかし12年4月に大阪高裁で逆転敗訴して、国の言い分が認められました。その後、今年4月に最高裁で弁論が開かれて「四肢末端優位の感覚障害のみの水俣病が存在しないという科学的な実証はない」という判決が出ました。通常水俣病に認められる症状があれば、有機水銀の影響だと認めると言う、非常にまっとうな結論でした。しかもそれは裁判所でも判断できる、環境省の独断で判断できるものではないということを明らかにしました。これに対して環境省は、単に運用の問題を言われただけだと言っています。

まだまだこの問題は決着がつきません。Fさんの訴訟は終わりましたが、他にも関西訴訟の勝訴原告で争っている方がおられます。今後も活動を続け、国の間違った政策を正していこうと思います。