1.自治基本条例制定の意義
自治基本条例について定義すると、<1>自治体最高規範性を担保した条例である。<2>その最高規範としての自治体運営理念・原則が確立されている。<3>市民(市民団体)、政治(議会・議員)、行政(首長・職員)、3者それぞれの定義づけ、役割、責務が明記されている。以上の3点が明確にされていなければ自治基本条例とはいいがたい。
さらに、<4>市民(住民)自治のシステムと、議会、行政を包含した団体自治との関係性が明記されている。<5>市民参画、住民投票、行政評価、パブリックコメント制度、外部監査、NPO支援、住民自治協議会システムなど自治体独自制度の根拠条例であることが加わればより充実した自治基本条例であるといえる。
「市民(住民)自治」の定義については、行政学的にも法律学的にもあいまいであり、自治基本条例で明確化する必要がある。自論としては、「市民(住民)自治」は2通りあり、ひとつは縦糸としてのNPOなどにみられる市民課題共同解決的なアソシエーション型自治と、横糸としての地域共同統治的なコミュニティ型自治である。そして、この2つがそろって「市民(住民)自治」は活性化されていく。
2.自治基本条例を必要とする時代背景
ひとつは市町村合併が一番の契機になっている。また、自治基本条例をつくろうという大きな意義として、地方自治法上存在しない「市民(住民)自治」規定について、自治基本条例によって裏付けるということがある。さらに、国の三位一体改革(財政縮小)からくる自治体の財政危機も背景にある。その一例が会社更生法型から民事再生法型への転換を想定した自治体破綻法制の改革であり、その予兆としての公債発行の準許可制から自由化への移行の動きである。地方自治体にとってこれら危機感をもたざるを得ない状況のなか、自治体の効率性や経済性追求、住民自治システムへの期待や体質強化など、市民(住民)と一緒になってやっていかなければとてもできないという認識がもたれてきている。
戦後、都市部では、地域住民団体の乱立による人材資源の無駄づかいという問題が生じてきている。その原因である各省庁が所管の団体のみを強化したいというエゴから、地域の人材資源の取り合いになり、枯渇し、地域における総合的課題解決能力が喪失されてしまっている。一方、郡部では、ひどいところでは集落の閉鎖・廃村が課題になってきているが、そこでは区長なり自治会長という一個人に役職が重なりヘトヘトになるという状況がある。
こういった状況を打破しようというのが、住民自治協議会システムへ向かっていった一因であり、その先端を行っているグループのひとつが例えば福岡市である。福岡市では、公的システムとして、小学校区単位で住民自治協議会システムとしての「まちづくり協議会」を設置し、ここに交付金を渡すというようにしている。このような制度の導入は各地でも増えてきており、自治会(町内会)・区長会を中核にすえながら、課題別の団体を集め、総合的なまちづくり計画・政策をつくっていくという方向にある。
この地域自治システムをつくっていこうとした場合、必ず問題にでてくるのが「人権」である。
例えば、同和地区を有する小学校区の問題や外国人との問題であるが、このとき、自治基本条例に「人権の原則」があるという意義は大きい。住民自治協議会をつくっていくということは、「小さな」合併協議であり、市民の現場レベルでの人権との向きあいであり、人権が市民に根付くチャンスでもある。あわせて、「自治基本条例」づくりとは、実体を伴った市民(住民)自治と団体自治とのシステム強化であり、システム転換である。
3.自治基本条例に関わる幾つかの重要概念
自治基本条例にかかわって、「参画」、「協働」、「まちづくり」の定義をきちんとするべきだと思う。
「参画」とは、「参加」と違い、意思形成プロセスから実行、評価、修正などすべてに関わっていなければならない。「協働」とは、「協働生産」という意味であり、「協力」ではない。「まちづくり」とは、コミュニティレベルにおける社会資本形成の営みであり、形成された資本の活性化の営みである。社会資本(Social Capital)とは、ヒューマン(社会関係資本)、ソフト(社会的共通資本)、ハード(インフラ)の3層構造をなしている。一番基礎に、社会を支えるリーダー、ボランティア、コミュニティ団体、NPO団体などの人的、組織的資本を意味する社会関係資本があり、次いで技術的、制度的、慣習的、倫理的資本としての社会的共通資本があり、その上に鉄道、道路、上下水道、通信インフラなどのハード(インフラ)がある。
この三層構造を小学校区ほどの単位で把握し、持続可能な発展を考えていくのが「まちづくり計画」になり、「まちづくり」とは、三層にわたる社会資本の形成もしくは再活性化ということになる。ハード(インフラ)があってもソフト(社会的共通資本)がなければどうしようもない、ハード(インフラ)とソフト(社会的共通資本)があってもそれを使いこなすヒューマン(社会関係資本)がなければどうにもならない、ということである。
(文責:松下 龍仁)
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