まず、近世史料編の編集上の特色として、「かわた」と称せられた被差別民を中心とする近世被差別民関係史料集として編集したこと、また、その史料はいずれも新出史料で構成され、人名・地名も若干の例外を除いては史料のまま表記したこと、などが述べられた。
そこで、近世前期の史料からみて明らかになったこととして、十指に余る事例が紹介された。そのひとつが、大坂市中にも辻髪160人、大カネタヽキ11人、山伏290人、道心坊主474人など多様な被差別民の存在が書き上げられたこと(「旧記之内書抜」No.8)。なお、このほかに非人、非人番、聖(隠亡)、夙、陰陽師、座頭などの存在は個々の記録として、それぞれ関係する地域社会での出来事のなかで残されていた。
次に、これらの被差別民の登場がすでに近世初頭の差出帳や検地帳に「御ほう」「しく」「かわた」などと肩書きされていたことを紹介され(「和泉国大鳥郡草部村差出帳」No.18など)、それらが中世とのつながりのあることも示唆されていた。
本史料集の圧巻は、なんといっても寺木さんが指摘されるように、渡辺村の実像を解読することができた史料の発掘であろう。まず、渡辺村の村名が史料に初めて登場したのが慶長5年(1600)11月(「葭小物成運上廻村状」No.51)のことで、秀吉時代に大坂市中5ヶ所に分散させられた渡辺村が元和年間に下難波村に再度集められ、ここでの年貢地・屋敷地・屋敷地所有者の屋号とその所持面積などの生活形態が判明した(「下難波村検地帳」No.21)。さらに、渡辺村は今度は大坂市中から排除され、木津村に移転が決まったのが元禄11年(1698)のことであった(『木津村文書』No41、44)。
目を転じて、大坂周辺の農村部の生活形態についても、北摂と泉州における「かわた高」(No.1、2)にみられる地域差や、南王子村などにみられる大村を形成する摂河泉の特色としての一村独立に向けた村落形態についても紹介された(『浄光寺文書』No.31、32)。
本史料集では、かわた村の生業を多面的に明らかにすることに意を用いるなかで、かわた村の太鼓業の発展についても述べられた(「天明2年・御堂太鼓張替一件」No.59)。太鼓の張替は短くても24年、それが長持ちすれば48年と、その職人技についても言及された。皮革を重要な生業にするかわた村や牛を扱う博労にとって、「生類憐み令」発布の時代は受難の時期であり、差別の増幅される時代であった。そのことは、残された関連史料の数からみても推察できると紹介された(No.60、61、63、64、67、68、69)。かわた村と信仰の関係としては、本願寺寂如の興味深い「消息」について、若干の史料上の問題点をコメントしながら紹介された。
摂河泉のかわた村と大坂市中にあった渡辺村は、同じかわた村であってもその経済力と役人村としての権益から同一には論じられないように、大坂四ヶ所非人と村々の非人番とは、同じ被差別民というレベルの範疇では把握できない集団構成であったことも本史料集で証明された(詳しくは『大阪の部落史通信』第13号所収の寺木氏稿「元禄11年3月『天王寺領内悲田院仲間宗旨御改帳』について」参照)。本編纂事業のなかで初めて四ヶ所非人の宗門改帳(『四天王寺所蔵文書』No.38)が発見され、彼らのさまざまな出自にはじまり、家族構成、集団構成などの実態が解明された研究上の意義は大きいと寺木さんも述べられた。
最後に、別添の延宝4年の更池村絵図の解説がなされ、ホネツカ、ホネハラの記載から近世被差別部落の形成にかかわる史料としての意義についても言及され、第1巻の刊行に相応した有意義な講演であった。
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