調査研究

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2005.04.05
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研究所通信320号(2005年4月)より
 

『大阪の部落史』第1巻発刊記念講演会に参加して

  前号で2月5日、大阪市内の大阪人権センターにおいて開催された『大阪の部落史』第1巻発刊記念講演会の概要を紹介したが、それぞれの講演内容に対する感想を寄稿していただいたので紹介する。

「古代における牛馬観の変遷(積山洋)」から

(中尾 健次・大阪教育大学教授)


  「考古」と言えば、"古代よりも古い時代"をイメージする人が多いのではないか。先日、奈良文化財研究所の松井章さんから、『環境考古学への招待』(岩波新書)と題する本をいただいた。「環境考古学」あるいは「動物考古学」という分野は、それこそ原始時代から現代まで、およそ埋蔵文化財の存在する時代を、すべて射程に入れている。その読後感の新鮮な時に積山さんの報告を聞いたので、非常にタイミングが良かった。しかもそれが、私にとって最も身近な、大阪における事例だったから、よりその興味が倍増した。

  積山さんの報告は、大阪府内の遺跡から発掘された牛馬の骨を対象に、その遺跡から判断しうる埋葬の儀礼や牛馬の利用方法などを、古墳時代から近世まで時代を追って整理したものであった。おそらく部落史研究が、こうした埋蔵文化財を対象としたのは、全国的にも珍しいと思う。

  門外漢だけに、かえって興味をかき立てられたし、いろんな想像をめぐらせることになった。古墳時代の中期に現れる馬形埴輪の遺跡については、単なる道具や労働力ではない、当時の支配者の、馬に対する特別な思いを見た。そういえば、アメリカの西部劇で、白人が銃をぶっ放し、先住民が撃たれて死んでいくシーンがあった。カウボーイは絶対に馬を撃たないという話も聞いたことがある。古墳時代の為政者には、埴輪を作った職人や古墳を作った民衆の労働に対する残虐な支配とは裏腹な、馬に対する"愛情"があったのだろうか。

  飛鳥時代には、解体処理された牛馬の骨が多数見られるという。養老厩牧令には、「凡そ官の馬死なば、おのおの皮、脳、角、肝を収れ」とある。ここでも、牛は鳴き声以外、すべて利用できるという言葉を思い出す。そういえば、昔読んだ鶴見俊輔の『北米体験再考』(岩波新書)の中に、次のような一節があった。先住民プエブロ族のポール・バナールから聞いた話という。「動物たちも、神から授かったひとつの命しか持っていません。あなたも、私も、この点は同じことです。これを白人どもは、自分が生きるための食物としてでなく、スポーツとして殺そうというのです。私たちも動物を殺すことがありますが、それは神の与え給うた聖なる食物としてか、でなければ神聖な儀式のときに限られています。儀式のときは、皮も毛も角も内臓も、すべて宗教的意味を持った聖なる目的に使われるのです」(89頁)。同じ思いが、飛鳥時代にも現代にも、時を越えて生きているのかもしれない。

  整理できないまま、さまざまな思いがめぐる。考古編の成果から、まだまだ学ぶことは多い。


「近世前期における被差別民の諸相(寺木伸明)」から

(森田 康夫・樟蔭東女子短期大学名誉教授)


  まず、近世史料編の編集上の特色として、「かわた」と称せられた被差別民を中心とする近世被差別民関係史料集として編集したこと、また、その史料はいずれも新出史料で構成され、人名・地名も若干の例外を除いては史料のまま表記したこと、などが述べられた。

  そこで、近世前期の史料からみて明らかになったこととして、十指に余る事例が紹介された。そのひとつが、大坂市中にも辻髪160人、大カネタヽキ11人、山伏290人、道心坊主474人など多様な被差別民の存在が書き上げられたこと(「旧記之内書抜」No.8)。なお、このほかに非人、非人番、聖(隠亡)、夙、陰陽師、座頭などの存在は個々の記録として、それぞれ関係する地域社会での出来事のなかで残されていた。

  次に、これらの被差別民の登場がすでに近世初頭の差出帳や検地帳に「御ほう」「しく」「かわた」などと肩書きされていたことを紹介され(「和泉国大鳥郡草部村差出帳」No.18など)、それらが中世とのつながりのあることも示唆されていた。

  本史料集の圧巻は、なんといっても寺木さんが指摘されるように、渡辺村の実像を解読することができた史料の発掘であろう。まず、渡辺村の村名が史料に初めて登場したのが慶長5年(1600)11月(「葭小物成運上廻村状」No.51)のことで、秀吉時代に大坂市中5ヶ所に分散させられた渡辺村が元和年間に下難波村に再度集められ、ここでの年貢地・屋敷地・屋敷地所有者の屋号とその所持面積などの生活形態が判明した(「下難波村検地帳」No.21)。さらに、渡辺村は今度は大坂市中から排除され、木津村に移転が決まったのが元禄11年(1698)のことであった(『木津村文書』No41、44)。

  目を転じて、大坂周辺の農村部の生活形態についても、北摂と泉州における「かわた高」(No.1、2)にみられる地域差や、南王子村などにみられる大村を形成する摂河泉の特色としての一村独立に向けた村落形態についても紹介された(『浄光寺文書』No.31、32)。

  本史料集では、かわた村の生業を多面的に明らかにすることに意を用いるなかで、かわた村の太鼓業の発展についても述べられた(「天明2年・御堂太鼓張替一件」No.59)。太鼓の張替は短くても24年、それが長持ちすれば48年と、その職人技についても言及された。皮革を重要な生業にするかわた村や牛を扱う博労にとって、「生類憐み令」発布の時代は受難の時期であり、差別の増幅される時代であった。そのことは、残された関連史料の数からみても推察できると紹介された(No.60、61、63、64、67、68、69)。かわた村と信仰の関係としては、本願寺寂如の興味深い「消息」について、若干の史料上の問題点をコメントしながら紹介された。

  摂河泉のかわた村と大坂市中にあった渡辺村は、同じかわた村であってもその経済力と役人村としての権益から同一には論じられないように、大坂四ヶ所非人と村々の非人番とは、同じ被差別民というレベルの範疇では把握できない集団構成であったことも本史料集で証明された(詳しくは『大阪の部落史通信』第13号所収の寺木氏稿「元禄11年3月『天王寺領内悲田院仲間宗旨御改帳』について」参照)。本編纂事業のなかで初めて四ヶ所非人の宗門改帳(『四天王寺所蔵文書』No.38)が発見され、彼らのさまざまな出自にはじまり、家族構成、集団構成などの実態が解明された研究上の意義は大きいと寺木さんも述べられた。

  最後に、別添の延宝4年の更池村絵図の解説がなされ、ホネツカ、ホネハラの記載から近世被差別部落の形成にかかわる史料としての意義についても言及され、第1巻の刊行に相応した有意義な講演であった。