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2007.06.11
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大阪の部落史通信・40号(2007.03
 

第三巻からみえる新しい大阪の部落史像

臼井壽光(第三巻編集担当)


  はじめに

 本巻でも、近世1以来の「地域バランスを考えて、初出といえる史料を精選する」という編集基準を踏襲した。さらに出来るだけ多くの史料を収録することを目指し、書冊や一件記録を絞って一紙文書を中心にすることで、四〇〇点を収めることができた。また親しみやすさを考え、図版史料を一〇点近く入れた。編成にも都市大坂の特質を出すことを試みた。その結果、第二巻まで一章を宛てた四ヶ所や三昧聖の史料を一節にまとめることになったが、決して対象史料が希薄になったためではない。

 まず各章の構成を紹介する。

*個々の史料については史料番号(全章を通してふられた算用数字)で示すと同時に、収録した章を漢数字で示した。たとえば、第七章史料番号266は(七―266)と表示した。評者が重要と考える史料である。また、史料の引用にあたっては、大意を「」で示した。

  一 近世3の章別構成と特徴

 第一章「法的規制と役負担」(担当 藤原有和)は支配に関する章である。すでに大坂町触は集成され、岸和田・高槻藩の藩法は自治体史で公刊されている。加えて、近年では奉行所与力・同心史料の紹介が相次いでいるため、訴訟判決や具現化された事例が中心となった。史料7は冊子全体を収めた数少ないもので、堺舳松村「立帰り無宿」皮多が恋敵を殺害して死罪になった一件史料である。公開処刑は時代劇などでは知られるが、平野郷町での皮多・垣外が役を勤める具体的な様相を収録できた(8・9)。岸和田藩では処刑台一つを作るのにもケガレがからんで大変だった(14)。第二巻に引続いて和泉国水間寺を舞台に長期にわたって争われた十分一銭論争を追っているが、事実上旦那場権という認識は消滅していることが分かる(21~29)。死牛処理権がともかくも維新まで続いたことと鮮やかな対比をなす。

 第二章から第四章までは都市を対象にしている。第二章「渡辺村の様相と皮革業の展開」(担当 臼井寿光)は皮多町であった渡辺村の土地問題と主要産業だった皮革業を、第三章「都市社会のなかの被差別民」(担当 臼井)では町式目(84・85・87・89)と垣外の史料を取り上げた。第四章「平野郷町の仕組みと被差別民」(担当 臼井)は法制上は村であるが在郷町として町政を敷いた平野郷町の被差別民の姿を追った。『覚帳』と題された貞享から慶応までの日記が残されており、選定作業により六〇〇点を越す関係記事が選び出された。豊富な内容を持ち、中世自治都市での被差別民のあり方の「残像」が、近世の作法にも残っているのではないかという問題意識を持って史料を選択した。皮多を例にとっても無年貢地に住み(131)、郷全体の賤民と位置づけられ(123)、警察業務にも従事した(129・151・152)などの点は古い有り様を示しているのではないか。

 第五章以下は村社会の史料からなる。都市・城下に居住を許されていない皮多にかかわる史料は村落史料となる。第五章「村社会のなかの被差別民」(担当 森田康夫・臼井)は村社会の視点から、三昧聖と非人番をそれぞれ節とした。後期には被差別民が持つ既得権益(通常これを旦那場権と呼んでいる)を個別にではなく村・地域ぐるみで否定する動きが起きる。特に定住被差別民の場合には、平人対被差別民という関係の基軸にこの動きが加わったため熾烈で過酷な事態となる。三昧聖の場合は、葬具に関与する既得の権益(和泉国朝代村―170)、立木の帰属(同小谷村三昧地―172)、三昧地の由緒(同貝塚村―179)、あるいは葬式の順序(河内国鞍作村―180)や仕来り(同小寺村―181・182)が問題となり、三昧地の管理(事実上の所有)が否定されることとなる。中世から連綿と続いた聖のイエが絶える恐怖を味わう。和泉国熊取谷浦田家当主は家督存続の危機を経験した?末を詳しく書いて子孫に残した(176・177)。

 第六章「様々な生業」(担当 臼井)には生業の、第七章「生活の諸相」(担当 寺木伸明)には生活の、それぞれ体温と息吹の伝わる史料を集めた。紙幅が許せばこの二章を充実させたいと、当初は収録分の倍の史料を翻刻していた。第七章では本村による皮多家屋の規制(河内国荒本村―262・263、同北蛇草村―277)と渡辺村岸部屋九兵衛が新墓を建てることを本山に願い出た一件(287)を挙げておこう。世間では渡辺村三富豪とか四大豪商とか噂されるが、九兵衛は座摩神社太鼓奉納主であり、九兵衛家は大和国東之坂甚右衛門と強い婚姻関係を持ち、弾左衛門の妻を出す家柄でもあって、近世初頭以来の旧家である。

 第八章「被差別民の真宗信仰」(担当 左右田昌幸)は浄土真宗と部落(一部夙)に関わる史料をまとめた。近世1から続くこの章は全国の部落史編纂の中でも特徴ある章立てになっている。部落史のまったく新しい史料群といって過言でない。

 第九章・第十章は幕末に焦点をあてた。第九章「皮多の抵抗と異議申立て」(担当 臼井)では皮多村の村方騒動、第十章「近世社会の解体と被差別民」(担当 臼井)では地域社会が被差別民の封じ込めを画策していく状況を追った。

 個々の重要な史料について、第三巻の「解説」に取り上げられているのでご覧頂きたい。以下、重複を避けるとともに収録できなかった史料も念頭に置き、第三巻全体を見通しての特徴を紹介して案内としたい。

  二 畿内被差別民社会の渡辺村の位置

「類寺首座」の要求

 河内国更池村称名寺の住職が色衣を着けているのを知った渡辺村徳浄寺・正宣寺の門徒は、連日のように津村御坊に抗議にいく。皮多村の寺院の内で、両寺の僧にだけ認められてきた特例が破られたからである。埒が明かないため本山に事実上の抗議文を出すまでにこじれる。本山の説得で口上書(八―337)は引下げたが、急先鋒の徳浄寺門徒側は本山にたいし「類寺首座」「別格」寺院格を要求して運動を起こす。「格別扱い」であった地位が、天保の本山改革以降低まっているとの心証を持った徳浄寺が、「外類寺とひときわ相立つよう別席」着座(八―310)を要求していた渦中の出来事であったから、この抗議も深遠な戦術の一環ともいえる。

 二寺が称名寺をやり玉にあげる論理は、自らの寺が別格であるべきだとする強烈な自己主張とならんで、更池村・河内国向野村が屠畜を専らとする「屠者村」で、皮多村のなかでも希な下々の格下村であり、それが同じ色衣で同格となることは嘆かわしいというにつきる。向野村西称寺も冥加金百両での色衣申請をしていた。私がフィールドにしている播磨などでは皮を扱うことそのもの、皮革業自体が厳しい差別の目に晒されている感覚からいえば、渡辺村の主張はいかにも身勝手な言い分にも見える。「解放令」が出た時、播磨では死牛馬処理を含む皮扱いを多くの皮多村が拒否したのに対して、府域では摂津国下田村・和泉国南王子村など若干の村のほかは皮扱いを拒絶しなかった。南王子村は死牛処理を「汚穢の筋」「堕落の業状」と手厳しいが、それも死牛処理権の放棄についての言葉であって、雪踏作りなど皮革業は続けられている。渡辺村を中軸とする大規模な皮革業ならびに関連業の展開はケガレ意識を払拭するまでになっていたことも事実であろう。それに較べて近世での食肉業への風あたりは府域の皮多村内でも強かった。

「格別の相違」

 さて、門徒達の本山嘆願には両寺が別格というのみならず、「私共村方の儀は諸国類村とは格別の相違」(八―310)つまり寺が最高位というばかりか、渡辺村そのものが諸国の皮多村とは格別の地位にあるというのである。大坂三郷の内の天満組に属し、公儀の御用を担い、公儀もまた特段の扱いをしている、つまりは巨大都市大坂の町組に属していることと、公儀御用を直接に受けていることを格別の村の根拠に上げた。私見によれば渡辺村の格別の地位は<1>大坂町奉行所の御用、<2>畿内・西日本で原皮・鞣革を差配する問屋、<3>金融によって担保されていた。江戸の弾左衛門がその権威と地位を幕府から直接保証されていた場合とは基本的に異なり、正宣・徳浄両寺の寺格問題にみられるように、その地位は絶え間なく揺らぎ、間断ない努力によって日々に維持されるものであったといえよう。どのような意味で渡辺村は特段の村であったのか。

 この歴史からの問いかけに近世3はどう答えたか。<1>の御用については、近年大阪市史編纂所などの努力により八田家など与力・同心家文書の発掘と翻刻が進み、渡辺村が担った御用の総体が明らかになりつつある。紹介が続いているため、第三巻収録予定史料のうちで所収を断念したものもあった。よって今回収録の史料は具体例に偏るが、意味の大きな文書を入れることができた。岸部屋文吉が盗品吟味の役を行なっていたこと(一―4)や、平野郷町や高槻藩の咎人を「御咎申しつけられるべきところ皮多ゆえ役人村にて敲き同様の仕置きを加えるよう仰せ渡し役人村へ引渡す」(一―2・3)として罪人措置を委ねられていることが分かった。藩領の罪人を無宿とはいえ渡辺村に引渡していることが重要である。

西国への広がり

 <2>の皮革業についてはまず九州の府内藩・小倉藩と摩藩の皮専売制(第二章第1節)の新史料を載せた。藩専売制といっても具体化の諸相が区々であるのみならず、明らかな段階があることの一端が示されたと考える。渡辺村皮問屋の立場からいえば、府内藩では地元の皮多が窓口であり、太鼓屋又兵衛はいわば持ち込まれた原皮の買取窓口(買方指定)に留まる。小倉藩では同じ買支配でも預託金を支払い、年間予定枚数を定め、現地介入の権限をもった。摩藩では摂津灘の廻船問屋吉田が売窓口であり、榎並屋宗助らを指定買受人とするが、実際には榎並屋らが売支配(入札差配)を行なっている。現地買い―買取指定―買支配―売支配の大きな流れを確認できる。同時に小倉・摩で顔をみせる商人吉田喜平次の登場は、皮多身分の不可侵の商域と考えられた皮革業であっても、利潤の大きな部分が町商人に渡ってしまう歴史段階にさしかかったことを示唆する。

 年間一〇万枚の原皮が大坂に入津した。その過半は渡辺村を経由したであろう。そこから上質の鞣革のため、大量の原皮が姫路藩高木村や西播磨の皮多村と摂津国火打村に送られた。姫路藩が藩内の鞣革の売買に運上をかける措置に出ると、太鼓屋又兵衛は妹の嫁入り先である河内国新堂村への皮鞣し技術移植に成功する(二―49)。原皮ならびに鞣革の生産と流通の結節点に立って、渡辺村皮問屋・鞣革問屋がこれを掌握していたことがこの村の富と特段の地位を保証したのである。そればかりではない。大規模皮革業の展開は大量の労働力を必要とし、かくして府域はもとより畿内規模で奉公・婚姻の形(七―248・258など)をとって渡辺村への依存が進行したのである。森杉夫氏収集史料から皮多身分の奉公・宗旨送り史料のまとまりを得ることができた。

新たな展望の開拓

 けれども天保末この構造にも翳りが現れる。町奉行の指示で大坂経済の斜陽を調べた筆頭与力内山彦次郎は七万枚にまで激減したと報告しているからである。もちろん座して衰微を待つ皮革問屋ではない。西国諸藩の多くが敷いた専売制による危機を逆手にとって買方指定から売支配に至る権限獲得に動いた。さらには摩藩の場合には琉球皮を含んでいたが、これとは別に対馬藩を介して朝鮮牛皮の輸入にまで手をそめていく。紙幅から断念した史料だが、安政三(一八五六)年にわかに本願寺本山がらみで蝦夷地の獣皮問題が浮上する。対応したのは太鼓銘に多くの名を残す播磨屋源兵衛で鹿皮五~六万枚、牛馬皮・獣皮多数が目論まれた。高田屋嘉兵衛の子孫が真宗に改宗して船運を引受けている。しかし鹿皮については市中白革師に権限があり頓挫する。皮選定と下処理のため渡辺村の皮職人三〇余人を現地に下すことになったのであるが、はたして極寒の地に渡辺村皮職人は降り立ったか。成功すればラッコ・アザラシなど公家・武家社会で珍重された毛皮が新しい渡辺村皮革業の展望を開いたことであろう。

金融による担保

 次に<3>の金融ともかかわる府域皮多村との皮革取引では重要な特徴があった。当人達にとって金公事(金銭に関わる争い)は大問題であったから『奥田家文書』『河内国更池村文書』にも史料を残した。それらと本事業で収集したものなどおよそ五〇点の訴訟史料によると原皮売買や純粋の借金出入りはほとんどない(第二巻141・142に事情の込み入った貸銀出入がある)。皮革代銀の返済滞り、しかも大半が沓皮である。渡辺村池田屋重次郎が荒本村磯七を訴えた内容も沓皮であった(六―223)。後期の順調な皮革需要を支えていたものは雪踏と信じられている。半分は事実である。大坂市中の消費は半端でない。平野郷町・富田新田・北蛇草村(第六章第2節)からも出張っている。江戸物より上質である(随筆『我衣』)との評判で大坂から関東・諸国への送り出しも多い。けれども原皮取引の訴訟があまりないことから、各皮多村での雪踏底革(生皮=板目革)は自前の原皮と、渡辺村を介しない皮多村間の融通でまかなわれた事が推定される。では沓皮とはなにか。渡辺村から高木村業者に仕様の注文を出した手紙によると、油を多めに塩をひかえ柔らかくとある。それが綱貫の革であることは明らかである。皮需要のもう一つがそこにあったのである。良質の沓皮を入手するためには渡辺村への依存は密度の高いものにならざるをえなかったであろう。

  三 生業構造の変化と寺・村方騒動

更池村の場合

 大阪で別格寺院であった渡辺村の二寺に次いで色衣を獲得した称名寺は「奇妙」な寺であった。自寺の住職に最高位の袈裟を請い、法会で内陣に着座させよう(八―314)と願うのは帰依と信心の証であろう。当然住職への信頼と愛着をともなったはずだ。ところが更池皮多村では初期から住職は定着せず、いや明らかに村は住職が長く居着くことを意識的に回避し、無住となることもかまわず後期では三年をめどに交代させた(八―330・331)。

 余力があって色衣を願い出たのでもない。この頃村は大火に遭い頼みの頭門徒河内屋藤兵衛の分家は焼出され、所持の借家も失った。津村別院は二〇〇両に五〇両を積増して納めさせる目論見であったが、一〇〇両を上納し残り一〇〇両は半年先送りとなる。門徒惣代らは上京して、毎年御仏飯米五〇石を上納してきたが、以後は二〇石増しして七〇石を献上するので色衣を早期に許可してくれるよう求めている(八―309)。寺格僧位を上げる献身的な涙ぐましい努力と、住職を駒のように扱う懸隔にとまどってしまう。

 門徒が本山・御坊に出す嘆願書に自寺を「手次」と表現するように、彼らは自寺を介して本山、いや宗主(開祖親鸞へも)に直接帰依しているのである。この論理を極限まで進めれば信仰心があれば、荘厳化した自寺も教団組織も不要ということになるが、村の上層が住職が定着することに神経質になっているのは、純粋な論理の結果ではなく村の大事な寺が住職の私物と化すことを嫌い、また寺争論の火種を警戒したからにほかならない。

渡辺村の場合

 一方の渡辺村二寺も「深刻な不安」を抱えていた。中期頃まで二つの寺は拮抗するほどの力量を誇っていた。しかし直前の本山献金でも一五〇両対五〇両と歴然と差が開き、おそらく以前より本山への貢献も滞りがちになっていたのであろう正宣寺住職は、ここ二代は色衣を許されていない(八―337)。支える有力門徒の財力の違いが歴然としてくるのである。一面ではこれが普通の状態ということもできる。正宣寺は渡辺村を構成していた六つあった町の一つである中之町のみの惣道場であり、徳浄寺はそれ以外のいわば渡辺村全体の惣道場ともいうべき位置にあったからである。中之町に集中していた近世初頭以来の皮問屋は衰微し、村の中心軸は北之町に移っていた(先の播磨屋源兵衛も北之町)。後期・幕末に台頭してきた皮問屋にその地位を脅かされるのである。

 本山は渡辺村には四大富豪があると把握しているが、激しい角逐を展開する播磨屋五兵衛(播五)と大和屋又兵衛(大又)はどちらも新興皮問屋であり、それも幕末に急速に台頭した皮問屋であった。播五は世に有名な太鼓屋又兵衛(太鼓又)の親戚で、息子(徳浄寺住職)の妻は宇和島藩穢多頭の娘、という点で村の伝統社会と地続きにあったが、大又は文化期長州で前貸し金(現地で原皮を集積する仲買・有力皮多に前もってまとまった金銭を渡し送ってきた皮数で決済する。約束までに原皮が届かないと渡した金銭に借金と同じく通常の利子が発生する)訴訟をした時には八軒町和泉屋惣兵衛借家人であった。そして文化期の七瀬新地にはかなりの土地を借受けている(二―83)。後期には北之町に居を移して鞣革問屋にまで成長し(二―53)、太鼓又と張り合い(八―336)そして幕末には播五一族追い落としの急先鋒となる(八―338、九―370)。

村内下層の形成

 村内富豪の世代交代と角逐より悩ましいものは流入者と村内下層の形成であった。ところで村上層部には両者は別のもので、流入者は「厄介者」以外のなにものでもなかった。村の乱れが気になった彼らは、それが信心の低下によるものと考えた。天保一四(一八四三)年正宣寺門徒二五・徳浄寺門徒七五軒の都合一〇〇軒に仏壇もないことが分かり、村が仏壇を買うので本山は本尊百体を下付してくれるようにと願い出ている(八―334)。中之町の住民総数は分からないが、太鼓又一軒で間口一二間の大店というから表店二~三〇店舗、裏店も含め二〇〇世帯は超えなかったと推定すると、かつての中心町であっても二割前後の住民が困窮者となっていたといえる。いうまでもなく一〇〇世帯に新規流入者は想定されていない。

 飛び抜けた皮多富豪とその裾野に広がる富裕層、その対極に分厚く形成される下層・流入者世界、後期~幕末社会の動向を規定しているのはそれであった。新興有力層の形成(第七章第二節)という観点から第三巻をみると、太鼓屋又兵衛(七―290)も中期に台頭した新興皮問屋であり、高木村皮鞣し業者惣兵衛(高惣)と家族ぐるみの付合いをしている岸部屋吉右衛門・吉兵衛(二―53・54・73指図)もその範疇に入る。中期に摩藩牛骨交易で財をなす岸部屋六兵衛(二―73の六太郎・山三郎、七―258)、播五・大又・播源の名を本書で見ることができよう。

 渡辺村の外に出ると更池村に河内屋藤兵衛(河藤 六―204、八―309)がいる。皮多富豪という規定は内田九州男が河藤を解明して具像化したものであるが、子息の婚礼に五〇~六〇両も出した北蛇草村の某家(七―289)、膠業によって財をなした河内国植松村の柴屋(六―228)、空き巣に金に直して二六両も盗まれた平野郷町の平兵衛(四―121)、富田新田の源四郎(第六章第3節)、下田の博労・運送業武兵衛(第九章第3節)などが挙げられるだろう。

村の生業構造の変容

 新興有力者である彼らの意思と行動が小さくない影響をもったことは明らかだが、さらに重要なことは一村の中で従来と異なる生業が生まれ、それを担う者が増えることで村の生業構造が変容することである。変容の第一の意味はケガレである。皮革業の中の鹿革鞣業(島村)、履物業(河内国西郡村・南王子村など)、膠業(植松村)なども、農業型生業構造をめざそうとした伝統的村落指導層からすれば、周辺農村とは異質でケガレ感が強化されるような村の様相を作り出すものと映り、南王子村での村方騒動の遠因となっていた。しかしほとんどの皮多村が旦那場権を持つ以上口実として「掃除と業としての皮扱いとは異なる」といっても無理は大きかったし、なにより先に指摘したように渡辺村を中軸とする皮革業の同心円構造の磁力は皮をケガレとする心性を思考停止にするぐらいの威力があった。

 第二には、新しい生業の興隆と働き口を求めて流入者が増加し、それが地域・村内秩序の不安化をもたらす、と信じられたことにあった。事実、渡辺村へは大量の新規流入者があり、村の北側に住み着き、「字北島」を、やがて近代のスラム「木津北島」を形成し始める。後期の爆発的な皮多村の人口増について、それが自然増であり、無高・小高の分解による増加であったことが分かっている。けれどもそのことは皮多町の人口変動が社会増であったこと、さらに宗門帳などに現れないけれども、かなりの流入者が各地の皮多村に居着いていたことを排除するものではない。度々流入者を泊めるなと触が出されることが、そうした現実を示すし『河内国更池村文書』にも多くの無宿が顔をみせる。色恋沙汰で刃傷に及んだ舳松村四郎も「立帰り無宿」(一―7)であった。

博労業と食肉業

 第三巻が新たに明らかにしたのは皮多博労業と食肉業である。徳浄寺門徒から「屠者村」と名指しされた更池村・向野村のほかに、やや規模は小さいが富田新田にも食肉業は広がっていた。更池村には近代初頭に二一人も屠畜業者がいたことが分かっている。そこには解体従事者や販売人の数は入っていないので規模は倍にはなるだろう。この村で下半期に五〇〇頭が処理された時、向野村は三〇〇頭であった。これまでの研究で更池村での村役人と食肉業者との軋轢のピークが文化中期で、それを過ぎると屠畜そのものが黙認される状況になったことが分かっている。事情は富田新田でも同様であった。ただし文政一二(一八二九)年に屠牛そのものでなく、まだ牛肉扱いが問題化していること(六―219)は、この村への屠畜業の波及が遅れたことを示している。

 博労の原義は牛馬医者であり、近世初頭から地域社会で草場制を支えていた観念は「皮多が病気・事故の牛馬療治をしてくれる」ことにあった。河原巻物にもそう書かれたし島村で貞享元(一六八四)年、住職家の遺産争論があった際「皮多仲間入場の役儀とは牛馬の療治など求めがあれば万事勤める作法」だとされた。亀裂が生じたのは元禄の「生類憐れみ令」であった。「穢多が療治の名に隠れて無益の殺生をしている」と指弾され、疑心の目でみられる。幕府・藩が相次いで皮多博労を禁じる。天王寺牛問屋孫右衛門にとって皮多博労抜きでは円滑な運営が難しいため、多くの皮多博労は牛目利として存続した。幕末には弛緩して博労職が許される藩も出るが、一般博労には許されていた取引牛を布などで飾り立てることを皮多博労には禁じるなどの規制を強いた(六―233)。一方で規制をはねのけ摂津国火打村七右衛門は公然と三日間限定の地域牛市を開いている。

旦那場制の行方

 まとまった史料を入れたのは富田新田源四郎(第六章第3節)と下田村武兵衛派(第九章第2節)の動向である。興味深い争論の経過はぜひとも本書史料に当たっていただきたい。三つほどの注目すべき点を指摘しておく。第一は皮多村の伝統的秩序の大枠を作っていたのが旦那場制であったことである。南王子村役人らは文政六年以来草場の村々が公然と死牛の引渡しを拒否するという驚愕の事態に直面する(第一章解説)。万延元(一八六〇)年には「旧記謂われもないことなので死牛は自由にしたい」(和泉国大鳥郡上神谷郷 一―35)と宣言される。まったく同時期に同郡栂村など九ヵ村が歩調を合わせた行動に出る。「旧に復さねればとても一村相続成り立たず」これを放置していては亡村になると、一大決心をした訴えが江戸までなされる。草場権を確認することはできたが、訴訟費用銀三五貫が残った(一―36)。皮多村存立の基礎に草場権があったことがわかる。村の上層は草場権を持つか、権益を享受する立場にあった。当然前期皮多博労は株持ちであった。しかし牛馬売買を取持つだけの後期皮多博労は無株が主流となる。彼らは草場的地域秩序の否定者、さらに破壊者として歴史に登場してくる。それはそのまま既存の村秩序に反対する勢力となる。大鳥郡にみられた展開は幕末に府域・大和を巻き込んだ一大運動「死牛馬自由処理」訴願の流れなのであり、皮多博労はその一翼を担うのである。

 第二に結果として南王子村・富田新田・下田村に共通して維新以後博労渡世は村の中で認知を得る。源四郎は一触即発の危機を潜り抜けて組頭に復帰し(六―246)、下田村では旧庄屋・高持ち層に替わって彼らが村政を掌握するまでに成長している。

 最後に皮多村村方騒動の多くが寺争論を伴っていることをあげなければならない。ただし、寺争論は博労の絡まない形でも多発した。渡辺村の播五・大又の対立も寺争論として争われたものである。

  四 再編される地域秩序と「国訴」体制

被差別民の排除

 ここまで、時代のイメージを持ってもらうため皮多身分に絞った叙述をしてきた。しかし第三巻には定住被差別民ならびに巡在被差別民についても多くの史料を収録した。とりわけ重視したのは府域農村が自分たちを脅かす「敵」としてこれらの被差別民を措定したばかりか、本気になって排斥を試みた動向である。

 天明飢饉後の農村では、農業で成り立っている村社会を守るためにはよそ者を排除しようとする傾向が強まる。天明八(一七八八)年、和泉国四郡つまり国全体の村が寄合い、諸勧化から座頭・盲人など、主として勧進取締りを幕府・奉行所に訴願する六種類の申合わせを行なった。そして、それを実効あるものとするため経費分担の割合にいたる詳細を文書として残した。被差別民を対象とした組織的嘆願としては、直前の天明三年に和泉国内の御三卿清水領知村々が連署して、堺長吏・非人番の横暴取締りを訴願する動きがあった。この時には説諭され取下げたし、またこれは支配領主への嘆願であった。当時の人々にとって支配領主を越えて嘆願することは新しい挑戦であった。たしかに摂河泉地帯では奉行所が国ごとにあり、ここへ訴願することはありえないことではなかったので、越えられない壁ともいえないが、それにしても法の建前からは明らかに違法訴願である。それが天明後期に起きる。同じ頃、摂津国西成郡村々も支配領主の違いを越えて「諸勧化・薬広め・虚無僧・浪人」徘徊の取締りについて、幕府に対して国触を要求して実現していた(第二巻285)。

 支配領主の枠を越え国をもまたぎ、千を越す村々が次々と署名して触書を求めて訴願する運動を国訴と呼び、畿内に特有の民衆運動だと規定したのは津田秀夫であった。肥料や下肥の価格高騰を抑え、反対に菜種や綿の自由販売に高価格を求めた、明らかな農本主義に基づいた訴願であるとされてきた。第三巻はその経済要求と考えられてきた国訴には、隠されていた側面があること、すなわち経済要求と同時に被差別民抑圧あるいは排斥の要求も、農業成り立ちのためには必要なこととして出されていることを指摘したのである。

 連合した村々が被差別民に対したあり様にはいくつかのパターンがあった。第一のものは郡あるいは国規模の訴願(幕府法令の要求)であり、第二のものは座頭などの仲間組織と交渉して要求を認めさせることであり、第三には特に在村被差別民に対しては申合わせや共同歩調をもって抑圧するものがあった。文化九年の和泉国四郡浪人・虚無僧取締り(五―163)、天保二年同国四郡堺長吏出費抑制取締り(十―379)、天保五年摂津国能勢郡ほか二郡の村方非人番横暴取締り(十―380)などは第一の訴願で、天保七年摂津国島上・島下郡の諸勧化取締り(十―382)、弘化五年和泉国での浪人・座頭・勧化取締り(十―384)、嘉永二年和泉国での諸勧化拒否の申合わせ(十―386)などは第二のパターンに属する。