調査研究

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2008.01.28
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大阪の部落史通信・41号(2007.12
 

森清五郎と中江兆民

八箇 亮仁(ひょうご部落解放・人権研究所)


はじめに

 本『通信』40号に『自覚と誇り』の書評をさせていただく機会を得て、あらためて近現代部落史にはさまざまな研究課題が残されているという感をうけた。とくに「解放令」の持つ天皇制的な解放思想の問題にあらためて直面させられた感が強い。そこで、この思想がはらむ問題点をさぐる意味でも、今回、西浜町の森清五郎をとりあげ、もう一度拙い文章を書かせていただくことにした。さきの書評では、森清五郎も中心メンバーであった西浜の「公道会」(1888年11月、西浜に創設)の名称に五ヵ条の誓文が反映しているであろうとのべたのであるが、今回はこの点についての直接的検討ではなく、公道会に関わった森清五郎と中江兆民、そして大井憲太郎の関係を少し考えてみたい。

 書評においてはふれることができなかったが、『自覚と誇り』において、北崎豊二氏はこの森清五郎について興味深い記述をされている。いわく、「清五郎は当時、兆民らとの親交を深め、壮士として日本の社会の改革をめざしていました」(31頁)。この表現に接したとき、新鮮な感じをうけた。森清五郎を含めて西浜町の有力者は、帝国議会開催期にはすでに中江兆民と離れてしまっていたというのが、従来のおおかたの評価であったから、私は思わず、次のような勝手読みをしてしまったのである。つまり、少なくとも「壮士」森清五郎は、実は一貫して中江兆民を支持する側にいた、1891年2月21日、兆民が第一議会に辞表を提出したあとの関係がどうなったかは明確ではないにせよ、森は中江兆民を支持しながら行動していたという風に勝手読みをしたのである。しかし、いまあらためて氏の表現を読み返すと、氏のふくみのある表現は、森清五郎が一貫して中江兆民を支持していたというように強調しているわけでもないし、従来の研究に対してとりたてて異を唱えているわけでもないことがわかる。

 しかし、私の内面に点火された森清五郎―中江兆民連携説をこのまま放置することはできそうもない。従来の見方と異なるにせよ、第一議会終了(1891年3月)までの森清五郎像について、より実相に近い形で提起できないであろうか。これが本稿を書かせていただいた最大の理由である。

一 「壮士」森清五郎

 大阪でも、1887年以降、大同団結運動が盛りあがっていた。そしてこの当時の新聞資料によるかぎり、森清五郎が「壮士」として活動していたことが違和感なしに納得できる。1887年11月に「第8回自由平権懇親会」が3年ぶりに開かれ、名称を「関西愛国同盟会」と改称して、壮士グループを巻き込んだ大同運動の一角が形成されるが、同会が条約改正反対のために選んだ上京請願委員のひとりに森清五郎がいたし、1888年1-2月に壮士グループの旧大日本振義会メンバーが保安条例違反の容疑で逮捕されたときには森清五郎も含まれていた。たとえば『東雲新聞』(1888年3月27日)は彼を「先きに拘留されし壮士の一人なる府下西成郡千里町の仝氏は……」と報じている。こうして壮士の動向を報じる新聞記事に森清五郎は頻繁に登場する。

 自由平権懇親会と絡んで森清五郎の名が登場することから、森清五郎と民権壮士たちとのかかわりについては1882年の「自由平権懇親会」結成期、あるいはそれ以降のことと考えられるが、それ以前の森の姿が全く不明というわけではない。すでに白石正明氏が紹介しているように、森清五郎は、問題行動をおこして白洲にかけられた「髪結職」(『大阪日報』1878年10月23日)として登場する。住所が「千里町」であるから、同一人と考えてよいとすれば、彼はその時「31年なる大丈夫」であり、常識的に推定すると1848(嘉永元)年生まれ、1887年当時は満39-40歳ということになる。

 ただ森が多くの壮士と異なっていたのは、その職業ばかりではない。彼が西浜町の住民であり、国事に携わるだけでなく地域振興や差別撤廃活動の場を有していたことである。その典型が保安条例で大阪に来ていた中江兆民らと連携して西浜に護教団体「公道会」を結成したことであろう。1888年11月4日、公道会は西浜町正宣寺で開会式を挙行したが、そこには千余人の来会者が充満したと報じられている。

 また森が中江兆民に加えて大井憲太郎と密接な関係を有していたことが判明するのは1889年2月のことである。大日本帝国憲法発布の「表祝懇親会」を地元で開催した後、同22日に開催された「大赦出獄志士大祝杯会」で、森清五郎は中江兆民・植木枝盛らに交じって賛成人となっている。大井憲太郎らの出獄で、一年後の最初の衆議院議員選挙にむけて分派的活動が活発化することになるが、森清五郎は同年6月、西浜町に「平等会」を結成し、300余人の会員を獲得するなど、西浜町の中心的活動家となっている。

 ただ、この「平等会」結成以降、森を含む西浜町関係者が板垣派に接近すると理解するのが白石氏である。白石氏は『大阪「西浜町」における被差別部落の動向と自由民権運動』「解説」(1971年10月)で次のようにのべている。

 平等会、西浜倶楽部を、大井らと「対立」するものであろうと推測するのは6月21日の関西有志大懇親会後、森らは、板垣ら後の愛国公党派に加って((ママ))いくからである。(128頁)

 確かに「平等会」創設以後、六月には大同団結関西有志大懇親会、10月には非条約改正派連合懇親会が開かれており、そこに森ら西浜町民が参加している。また、11月に大同団結運動解散式を行なった後は、12月の板垣伯旧友懇親会、1890年2月の板垣を招いての「大阪有志懇親会」などに、森清五郎を含む西浜町関係者は名を残している。西浜町の関係者が、これらの懇親会を通して愛国公党派へ接近していったことは十分考えられる。しかし、この旧自由党内の懇親会や板垣派の懇親会に森が参加しているとしても、それが森の明確な反大井・中江離反行動を示す根拠であるとはいいがたい。逆に、「平等会」の創設が大井・中江派を前提としたものであったとし、その立場から森が板垣派とも関係を持続させようとしていたと推測することも不可能ではない。そこで「平等会」をとりまく人間関係やその性格について再検討することが必要となるであろう。

二 森清五郎は変節できるであろうか

 1889年6月の「平等会」創立当時の事情について、『東雲新聞』(6月21日)は次のように伝えている。

 平等会 西成郡西浜町なる平等会の会員三百余名は、一昨19日午後3時より同村の浄正((ママ))寺に於て懇親会を催し、当地浪人なる宮地、安田、菅野、中島の四氏を招きたる由なるが、中々盛んなる宴会なかりし((ママ))と云ふ。

 この記事にみられるように、平等会は、「壮士」から「浪人」へと表現をかえたものの、明らかに森の親しい壮士仲間をも含みこんだ政治的団体であった。ところでこの「平等会」創立当時の事情について、白石氏は次のようにのべている。

 5月10日の大同団結派大会をボイコットした大井ら大同協会派は、5月末来阪、大阪・和歌山を中心に派手に活動を展開。西成郡の香山親彦・堤仁三郎・小林佐兵衛らはこれに呼応して動き(5月30日)、「西成倶楽部」を結成してゆく(『鶏鳴新報』6月11日)。(中略)そして、堤・香山・小林らを先頭にした大井派の動きのなかで、西浜町の公道会・平等会、そして西浜倶楽部と変遷した組織は栗原ら大阪苦楽府のがわへとついてゆく。(中略)兆民がその可能性に思い入れといえるほどの期待をかけた壮士たちは自滅してゆき、みずから東雲新聞社からは浮きあがり、そして西浜町は、自分のもとを離れていっていた。(「中江兆民と『東雲』時代」『部落解放研究』12号、1978年2月、33-35頁)

 白石氏によれば、大井派と板垣・栗原派の分離は西浜町を巻き込んで進行したと想定されているのであるが、その点を了解するとして、はたしてそれは西浜町民の明確な板垣派勝利として結果したのであろうか。とくに森清五郎のように、兆民とともに公道会創設にかかわり、ついで創立した平等会を壮士たちが支援する中にあって、森清五郎がはたしてこの時期、従来の「壮士」的志操を清算できたであろうか。1889年12月、『新日本』1号に次のような広告が登場している。この広告がすでに森清五郎の生き方と関係ないものであったとすれば、たしかに森清五郎は1889年の時点でその「壮士」的志操に幕をおろしたことになる。

 新日本浪人出版之広告
馬城山人大井憲太郎君序 兆民居士中江篤介君序 飛鶴散士菅野道親君著
    政治小説新日本浪人(以下略)

(『中江兆民全集』別巻、岩波書店、1986年、62頁)

 おそらく、森清五郎の身近な人間も含め、西浜町の関係者たちは板垣派へも傾斜を強めたであろう。しかし、少なくとも森清五郎は、「浪人」へと後退しつつある「壮士」に対してエールをおくる大井・中江を清算することはできなかったにちがいない。なぜそう言えるのか、それは次のような西浜町の経緯を森の大井・中江からの離反行為としては説明できないからである。

 菅野道親の政治小説の広告が登場してから2ヵ月後の1890年2月20日、町会議員の改選をひかえ、「西浜町懇親会」が開かれている。『東雲新聞』(2月22日)によれば、従来町内の組合が東西に分かれて「時々不都合を醸す等の事」があったのを憂え、町内の協調をはかろうとしたものであったが、ここで森清五郎は「発起人総代」として趣旨をのべ、発起人を始め堤仁三郎らが「町内全体の一致合同を計らんと彼れ是れ奔走の末、遂に本会を開くに至」ったと経緯を紹介している。「壮士」森清五郎は、孤立していく仲間たちとは異なり、実にねばりづよく地元関係者の大同団結を模索していた。それはたしかに板垣派的な行動ともいえるが、その実質的世話役は森清五郎とさきの大井派の堤仁三郎が果たしているのである。

 また、この「西浜町懇親会」のわずか2日後、西浜町を含む西成郡の各村有志者が結集して「南摂同志会」が設立される。3月にはこの南摂同志会への板垣招待も計画と伝えられたが、3月16日の会合では、森清五郎を含む同会の委員が衆議院議員に中江篤介を推薦することを決定している。この経緯について、白石氏は「それまでの政治的経過をみれば、これはただ兆民の知名度を評価してのものであったといわねばならない。兆民にしても、「新民的の旨義を執りて平民的の旨義を攻撃する」「新民」の推挙とは受けとれなかったであろうが、兆民はこれを受け、立候補し当選する」(『中江兆民全集』月報8、第11巻、1984年6月)と評される。しかし氏の推測とは反対に、兆民推薦の背後に森清五郎の奔走、およびそれに連なる兆民支持者がいたと考える方が自然であろう。

 さらに、中江兆民・佐々木政行の2名が衆議院議員に当選した時の懇親会の様子も興味深い。『大阪朝日新聞』(1890年7月13日)によれば、同年7月11日、西成郡西浜倶楽部主催の懇親会が同郡今宮の商業倶楽部で開催され、森清五郎らが出席したが、それに関連して次のような異変が報じられている。

 但し一昨々日までは同時同所に開く事となり居れる第三回摂河泉有志同盟懇親会も、板垣伯の出席も何故か急に見合せとなりたり。

 おそらくこの「摂河泉有志同盟」は森秀次差別事件時に登場する「摂河泉三ヶ国有志者」「摂河泉三国有志者」に通じる団体で、板垣と近い関係にあったのであろう。それがなぜ急に出席を見合わせたのか。西浜町民に板垣派も多かったが故に懇親会の共催が予定されていたのであろうが、西浜町―森清五郎―中江兆民グループを摂河泉有志同盟―板垣グループが避けたと考えるのが妥当であろう。

 ここに来て、従来から知られている次の断片的な森清五郎評が信憑性を帯びて再認識できるであろう。それは、これもすでに白石氏が紹介している『立憲自由党壮士調』の森清五郎評である。

「大井憲太郎ニ附随セシ壮士」
「又、土着人トシテ狂奔シタルモノ」
「有権者ニアラスシテ、壮士的運動ヲナシタルモノ」

(『立憲自由党壮士調』『復刻 東雲新聞』第二巻、付録の白石論文より再引)

 「立憲自由党」は、1890年11月に開会された第1回帝国議会(1890年11月開会。1891年3月閉会)の最大民党(野党)、旧自由党を中心とした大同団結派の結集した党名であるから、この表現を信じる限り、森清五郎は、1891年初めまで「壮士」としての活動を維持していたのである。とくに「土着人トシテ狂奔シタルモノ」という短評は、中江選出への森の苦労、今回触れ得なかった森の地元での行動を象徴するものであったろう。

おわりに

 稿をとじるまえに、森清五郎―中江兆民連携説の現実的消滅を見極める一つの事態を検討してみよう。それは、中江兆民の議員辞職に対し、森がどのように対処したかである。よく知られているように第一議会は予算問題をめぐって混乱し、結局板垣ら土佐派の裏切りで政府予算が可決された。この時、立憲自由党大阪地方部の竹中鶴次郎が「有力者の中には壮士を利用せんという言語道断(ママ)あり」(『大阪朝日新聞』2月3日)と、また寺田寛らが「無用の難詰を政府に加へて時日を徒費」(『大阪朝日新聞』2月19日)する、などと暗に中江兆民らを批判したことが知られている。

 確かに森清五郎は1891年2月11日、立憲自由党大阪代議員会に代議員の一人として出席している(『大阪朝日新聞』2月13日)。しかし、2月21日に中江兆民が辞表を提出し、3月8日、立憲自由党大阪地方部が立憲自由党を離党して大阪自由倶楽部を結成して以降、森と自由倶楽部との関係はよくわからない。つまり、大阪自由倶楽部結成の場に、西浜町の林拳三の名と、森秀次の名は見えるものの、森清五郎の名は登場しないのである(『大阪朝日新聞』3月10日)。もちろんこれだけでは確定的なことは言えそうもない。しかし、中江・大井派の森清五郎が窮地に追い込まれ、彼が中江・大井排除グループから距離をおいたという推測も成り立ちうるということは了解されるであろう。

 さて、ふりかえってみれば、本稿はほとんど白石氏の森清五郎論にまなび、兆民とつながる人物像の可能性を探ることに集中してしまった。本来であれば、この作業を前提に、森の生き方を当時の状況下に再現し、森のその後の生き方、特に森秀次差別事件と森清五郎の対応をどうとらえるか、などを解明すべきであろうが、今の私にはそこまでの準備はできていない。ただ、今回の作業に大きな間違いがないとすれば、中江兆民・民権運動と西浜町についての評価をはじめ、さまざまな方面での修正作業が必要となってくるだろう。その場合、本題である森の思想性がどこから生じるのかという問題にも直面することになる。その意味で、「西浜町の平等説」(『大阪毎日新聞』1889年7月6日)は再検討を要するであろうし、教育・衛生・道路接続などに奔走する森清五郎の活動をどのような言葉で生き返らせるかについても再検討する必要があるだろう。