調査研究

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2009.04.21
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大阪の部落史通信・43号(2009.01
 

視点

悲田院長吏文書』の刊行によせて

野高 宏之(大阪市史料調査会主任調査員)


はじめに

『悲田院長吏文書』は神戸市立博物館が所蔵する悲田院長吏家文書を翻刻したものである(本稿では『長吏文書』と略記する)。長吏家文書の一部は大阪府立中之島図書館にあり、すでに『悲田院文書』として刊行されている。『長吏文書』と『悲田院文書』によって、現存する長吏家文書の全体像を把握することがはじめて可能となった。

本稿では『長吏文書』を概観して気づいた三点を紹介する。第一は長吏の下に所属する小頭には二十人組と十三組があり、二十人組は野非人取締と下級警察を、十三組は授産を担当したのではないかという点。第二は四ヶ所の警察業務は宝暦年間と天明年間に画期があるという点。第三は武家奉公人の問題である。『長吏文書』は非人にとどまらず、研究者に近世大坂の多様な素材を提供するものであり、武家奉公人もその一つである。

一 二十人組小頭と十三組小頭

大坂では長吏を頭とする小頭・若キ者が四天王寺悲田院・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所に群居していたというのが通説である。ところが長吏家文書には、長吏配下ではあるが、四ヶ所小頭とは別組織の非人集団を示す史料がある。

『大阪市史』一には堂島や中之島には米の荷役に従事する「長六」なる集団がおり、「若イ者」と称し、長吏の配下であったという記述がある(1010頁)。また『稲の穂』には「長六」が九組に分かれていたとある(『大阪市史』5、605頁)。このように大坂市中には長吏が支配する「長六」とよばれる集団が存在したのであるが、四ヶ所との関係は不明のままであった。

『長吏文書』には文政三年に作成された四ヶ所小頭連名の口上書がある(247頁)。これをみると二十人組小頭(四ヶ所小頭)とは別に十三組小頭という仲間が存在すること、二十人組小頭と十三組小頭が入れ替わることはないことがわかる。十三組小頭は十三組小屋頭ともいい(67頁)、またその一つの組は砂場にあった(155頁)。寛政元年、四ヶ所に住む1162名の非人がおり、このほかに十三組小頭支配の者が約1000名いた(40頁)。

『大阪の部落史』第三巻所収弘化2年の長吏願書をみると、天和13年、野非人を世話させるために十三組小屋頭をおいたこと、彼らは野非人から選ばれたこと、そのうち8人は四ヶ所に2人ずつ配属されたことが記されている。非人手下の刑を受けた者もこの十三組の小頭が引き取った。ちなみに二十人組小頭の呼称は、最初四ヶ所に5人ずつ配属された組頭に由来すると思われる(『同』3、206頁)。

ところで十三組小頭仲間に関わる権利として「長禄仲間袋株」があった。その具体的な内容は不明であるが、ここにみえる「長禄」は堂島・中之島で米の荷役をおこなう「長六」をさすのではないだろうか。

『悲田院文書』には宝永6年の「浜働きにつき連判手形」という史料がある(65~67頁)。破損のため解読が困難であるが、□(堂島か)新地や中之島浜で米を扱う仲間が、米問屋中・仲衆に対し部外者の排除を願う内容である。文中に「小頭」という言葉がみえる。また署名にある組は<1>天満九兵衛惣兵衛小屋組、<2>天満組、<3>高原十兵衛組、<4>高原清五郎組、<5>道頓堀市右衛門徳兵衛組、<6>鳶田次兵衛利兵衛組の六組であるが、連名となっている<1><5><6>を分けると九組となり、『稲の穂』の記述と符号する。「長六」が九組であるのは、十三組のうち中之島辺りで米の荷役を行う人足を抱えているのが九組であり、他の四組は別の人足稼をしていたのではないだろうか(この九組も他の稼を行っていたことは十分に想定できる)。

以上、かなり大胆な推測を試みたが、仮に十三組小頭が人足集団の頭であったとするならば、江戸では窮民対策としての人足派遣、大坂では野非人の取締をてこに非人組織ができあがったとする従来の見解は再検討する必要がある。大坂市中に流入する野非人対策には排除・養生・授産という三つがあり、排除と養生は四ヶ所のもと垣外番と高原小屋で、授産は十三組で対応したのであろう。長吏は四ヶ所小頭(二十人組小頭)と十三組小頭を支配する立場にあったのである。

二 大坂町奉行所と四ヶ所

非人組織に下級警察機能をもたせることは近世当初からあったが、これが本格化するのは宝暦年間と考えられる。宝暦7年、大坂目付から四ヶ所について質問を受けた町奉行所は、四ヶ所が勤めてきた御用と仲間の諸事書付を提出するよう長吏に命じた。また13年には盗賊吟味役与力八田五郎左衛門が悲田院・施行院由緒書の提出を求めている(『長吏文書』2頁)。この時期、幕府・町奉行所が四ヶ所の存在に関心を傾けていることがわかる。

延享2年閏12月、町奉行所は夜中に長吏が町廻りするので各町の夜番は承知せよとの町触を出した(『大阪市史』3、触1953。ちなみに当時の夜番は極月などに限られ、常設ではなかったと考えられる)。これがうまく機能しなかったのだろうか、宝暦12年に町奉行所の盗賊吟味方与力は長吏に町方盗賊取締の徹底を指示している。その中で手下の者を町方の昼番・夜番に派遣することを重ねて確認している(『長吏文書』317頁)。垣外番制度の始まりについてはわかっていないが、宝暦六年の『万代大坂町鑑』には垣外番の記載がない(後筆されている)。ひとつの可能性として、宝暦12年の指令を受けて各町内に垣外番をおく制度が整ったことが考えられる。

当時の盗賊吟味方与力に八田五郎左衛門がいる。町奉行所における司法警察担当与力の草分けである。八田は連日のように長吏以下を連れて町廻りをおこなっているが、この態勢はこの頃に始まったのではないかと筆者は予想している。

八田による非人組織へのてこ入れは、宝暦14年におこった朝鮮通信使殺害事件で効力を発揮した。犯人の鈴木伝蔵はしばらく寺町八丁目に潜伏したのち、中国筋をめざして逃亡したが、八田が長吏を頭とする在方を含めて非人組織をうまく活用した結果、池田村で長吏・小頭が鈴木を発見し、小浜村で身柄拘束に成功するのである。この後、八田の提案で町奉行所は手柄のあった長吏・小頭を褒賞した。この事件は町奉行所が四ヶ所を下級警察に活用する上で大きな画期となったのである(九州大学法学部所蔵「朝鮮之中官崔天宗を刺殺候通詞鈴木伝蔵行衛聞合召捕候節之始末并右一件御仕置落着留」)。

町奉行所が非人組織を活用する次の画期は天明7年である。この年は町奉行所は吟味役・目付役を新設し、盗賊吟味役を独立させ、警察機能を充実させた。目付役は「内密風聞等聞合」という情報収集の仕事を長吏・小頭に命じるのが役目の一つであった。

『長吏文書』には四ヶ所がおこなった風聞探索の報告書が数多く掲載されている。これを一覧すると、吟味筋にとどまらず、支配国での稲綿の作柄や買米・囲米等に関する情報収集もおこなっている。町奉行所の情報収集は惣代が町方・在方に人足を派遣して行うものであった。宝暦年間に始まる町方・在方非人組織のネットワークが18世紀末から町奉行所の情報ネットワークとして活用され始めたと考えてよいだろう。

三 武家奉公人

近年、大坂における武士の存在をみなおすことが提言されている。大坂を武士の町と評価できるかはともかくとして、武士に関する研究が立ち遅れているのはまぎれもない事実である。中でもとりわけ忘れられているのが足軽・中間などの武家奉公人である。この分野では何より関係史料を確認する作業が求められると思う。

そうした意味で『長吏文書』に武家奉公人の存在を示す史料を見つけることが出来たのは大きな喜びである。

天保4年、玉造与力加藤善之進の中間となり、わずか50日ほどで出奔した与助は備後福山近在中津原村の出身であった。与助の口ききをしたのは同国者の惣十であったが、彼も福山屋喜助の口ききで玉造御蔵の中間であった(338~340頁)。

大坂加番板倉内膳正の中間とうじんの安・杉らは総身に彫り物をし、酒屋や煮売屋で押借を繰り返した(538頁)。

また町奉行所にも往来で喧嘩をする中間(541・542頁)や奉行所の中間小屋で博奕をする門番(535頁)がいたことがわかる。

武家奉公人ではないが、江戸で勘当された伊藤為三郎は大坂で長吏に雇われ会所の仕事をしていた。殿様の御用で来坂した友達と偶然に出会い、彼らから江戸に帰ることを勧められた。暇乞いをしていては間に合わないと考え、仲間には黙って大坂を離れ、後日その旨を記した手紙を長吏に送っている(347頁)。