江戸の場合、浅草の車善七を筆頭に、品川松右衛門、深川善三郎、代々木久兵衛、以上四人の「非人頭」がおり、町奉行の支配下にあって、清掃事業や番人その他の雑業に従事していた。この「非人頭」に相当する“役職”を、大坂では「長吏」と呼んでいる。
「長吏」は、古代から中世の初頭(平安~鎌倉時代)にかけては、寺院の財政や行事を担当する役職名だった。それが、中世の後半(室町~戦国時代)には、神社や寺院に属する職人集団の頭を「長吏」と呼ぶようになり、しだいに被差別民衆の頭を意味するようになった。江戸時代の関東では、かわた集団そのものを「長吏」、その頭である弾左衛門は「長吏頭」と称している。「長吏」という言葉には、元々「頭」という意味が含まれているので、「長吏頭」という言葉は、“屋上に屋を架す”に等しいが、“被差別”の状況に対する抵抗感が、その背景にあったのだろう。
大坂の場合、「非人」身分の頭を「長吏」と称している。また、四天王寺悲田院・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所に居住していたので、「四ヶ所」とも呼ぶ。江戸にも四人の「非人頭」がおり、「四ヶ所非人」とも称することがあったので、その点は似通っている。しかし、その系譜については、江戸と大坂とではかなり異なる。
江戸の車善七・品川松右衛門は、元々「口入れ屋」と称する“人足派遣業者”だったと推定されるが、江戸の「非人」組織は、その仕事に注目した町奉行が、窮民対策の一環として、善七や松右衛門を利用したことに端を発する。そして、町奉行から江戸市中に流入してくる窮民たち(後には「野非人」と呼ばれることになる)の支配を任されたのが、「非人頭」の起源となる。
大坂の場合は、窮民に粥を施したり、行倒人の看病をしたり等、四天王寺の福祉政策が発端のようで、その一端を担う役職が「長吏」だったのではないかと推定される。これについては、『悲田院文書』(清文堂出版)の「由緒」の項に収録された諸史料をご参照願いたい。いずれにせよ、大坂の場合、「長吏」の元々の意味合いが残された役職名であったということができる。その大坂の「長吏」の中で、最も歴史が古く、勢力も絶大であったのが「悲田院長吏」である。
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