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部会・研究会活動 <地域教育システムの構築に関する調査研究事業>
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報告書 教育コミュニティづくりの理論と実践
-学校発・人権のまちづくり- |
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コミュニティの再生と学校改革 池田 寛 |
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1 コミュニティの再発見 <1> コミュニティの崩壊と教育問題 子どもの発達や家族の問題をコミュニティと関連づけて研究しようとする動きがにわかに活発になってきている。こう言うと意外な感じがするかもしれない。子どもや家族の問題は古くからコミュニティと関連づけて論じられてきたではないかと思う人が多いにちがいない。確かに、このテーマは教育社会学などでは古くから論じられてきたテーマであり、教科書でもそういった章が設けられているものが多いのだが、実証的な研究となるとその数はきわめて少ない。いくつかの地域研究の中で家族や子どもの教育や発達が取り上げられることがあったとしても、ほとんどは家族や子どもの実態を報告するにとどまっており、特定の地域特性が家族や子どもの存在形態に影響を与えているといったところまで踏み込んで記述している例は少ないのである。 家族の問題が取り上げられるときによくみられるのは、家族構成、職業や所得、学歴、住居の構造といった家族内変数によって、経済的安定性やメンバー間の相互作用、社会参加、教育期待などを論じるというスタイルである。地域特性的変数がこれらの家族内・外の行動様式や価値観をどのように規定しているかとか、地域における家族間の関係や人間関係が個々の家族の存在形態にどのような影響を与えているかといったことはあまり取り上げられてこなかった。子どもの発達についても、家族に焦点を当てたものや学校環境との関係を取り上げたものは数多いが、地域的な文脈が及ぼす影響についてはほとんど顧みられることがなかったと言ってよい。 アメリカでも状況は似たようなものであった。しかし、1990年代に入ってその状況が大きく変わってきた。近隣環境が及ぼす影響についての近年の研究をまとめた二巻本(Connell, J.P., Kubisch, A.C., Schorr, L.B. & Weiss, C.H. eds., Fulbright-Anderson, K., Kubisch, A.C., & Connell, J. P.eds.)の冒頭で、ゲファートとブルックス・ガンはその変化を次のように述べている。 「そこに住み交流している青少年や家族の発達に近隣やコミュニティの文脈が与える影響についての関心が再び高まってきたのは、社会科学にとって歓迎すべきことである。新しい世代の研究によって、研究者たちは、個人、家族、近隣・コミュニティの特質が組み合わさって青少年の発達に及ぼす影響についての評価を試みている。」(Gephart & Brooks-Gunn, in Connell, J.P., Kubisch, A.C., Schorr, L.B. & Weiss, C.H. eds. úIúB) このように、1990年代に入ってから貧困と近隣コミュニティの問題を有機的に関連づけて研究しようという動きが活発になってきたが、そのきっかけを与えたのと言われているのがW.J.ウィルソンの『アメリカのアンダークラス(The Truly Disadvantaged)』である。この著作でウィルソンは、貧困層が集住するスラム地区では、就業機会が著しく減少し失業率の上昇と貧困の深刻化が顕著になっていることを指摘するとともに、その結果、家族の崩壊だけでなく、かつてあった近隣コミュニティの組織やつながり、さらには相互扶助が消失しつつあり、家族と子どもたちにとって犯罪や麻薬などに満たされた危険な環境になってしまっていることを指摘している。これらの地区では、アンダークラス(最底辺層)が形成され、さまざまな社会問題が再生産されている。アンダークラスの特徴としてあげられるのは、(1)貧困の持続化/世代間での伝達 (2)地理的集中 (3)主流社会からの社会的隔離 (4)失業、半失業状態 (5)低レベルの技能と教育 (6)マイノリティ集団、といったことであるが、(6)を除くと、O.ルイスが数十年前に指摘した「貧困の文化(culture of poverty)」の特徴そのものである(Lewis, La Vida. 1966)。しかし、ウィルソンは現代のアメリカにおけるアンダークラスの特徴は、ルイスが述べたようなそこに住む人々の「貧困の文化」から生み出されたというより、彼らがおかれた社会状況への適応の産物としてつくられてきたものであると解釈している。 たしかに、都市スラムでは貧困からもたらされる社会病理的現象が充満しているが、それは、経済的な変動や人口流動といった人為的、社会政策的な要因によって引き起こされてきたものであり、「貧困の文化」の観点からスラム住民の生活態度や文化に原因を求めるのではなく、彼らが置かれている社会構造的な要因に焦点を当てた分析が必要であるとウィルソンは考える。彼が注目するのは、スラム地域の「社会的孤立」であり、その観点からアンダークラスの問題を考察し解決策を探っていくべきだと提案している。この点について彼は次のように述べている。 「たとえインナーシティでもっとも不利な立場に置かれた人々が長期の失業に苦しんでいても、経済的に安定した人々が家族とともにインナーシティに住んで、地域の基本的な社会施設(教会や学校、商店、娯楽施設など)をしっかり支えているならば、これらの社会施設は有効に機能し続けていくだろう。さらに敷衍すれば、どれほど状況が厳しくとも、経済的に安定し、夫婦関係にしろ親子関係にしろ円満な家族がインナーシティにありさえすれば、これらの家族は、最も不利な立場に置かれた人々がアメリカ社会で主流をなす考え方や生き方を自分のものとするモデルとなるだろう。このようなモデルがあってはじめて、最も不利な立場に置かれた人々もまた、教育を受けることが大切であること、安定した雇用こそ福祉に代わる大きな可能性をもっていること、また家族は安定しているのが常態であることなどが納得いくようになるはずである。」(ウィルソン、p.101) この指摘が後の貧困とコミュニティの関連性についての研究を促したのであり、コミュニティにおける人生モデル、生活モデルの重要性に人々の眼を向けさせたのである。 「黒人の労働者家族や専門職家族が多く住んでいるようなゲットーでは、若者は仕事のない人々が怠惰な生活を送る様子だけでなく、多くの人々が規則正しく通勤する様子も眼にするはずである。若者はまた、多くの学校中退者の姿を見るだけではない。彼は、真面目に学校に通う生徒の姿も見るはずである。彼は、その姿から教育を受けることが安定した仕事に繋がることを理解するはずである。さらに彼は、ひとり親家族が周囲で増えていることに気づくとともに、両親そろった家庭もまたたくさんあることも知るはずである。また若者の眼には、福祉に依存する多くの家族の姿が映るとともに、そうでない多くの家族の姿も映るはずである。彼は、犯罪が増えていることを思い知るとともに、犯罪に関わらない人も身近にたくさんいることも知るはずである。」(ウィルソン p.101) コミュニティとは、一定の地理的範囲を指し、そこに住む人々の間で共有される生活習慣や規範や価値観がコミュニティをコミュニティたらしめるのであるが、人々を一つのものにするこの「精神」が、社会の流動化によって掘り崩され、コミュニティを単なる人々の集住の場に変えてしまった。そこでは住民の間での相互扶助や相互信頼、規範や道徳の共有は見られなくなり、さらには青少年が成長のモデルとすべき人物像や子どもたちを育み支える教育の営みも廃れてしまっている。貧困地域が置かれている社会経済的な状態に主要な原因があることは否定できないが、R.D.パットナムらは「社会資本」といった観点からコミュニティの問題をとらえ直してみるべきではないかという主張を展開し始めている。パットナムは次のように述べている。 「このやや大雑把な証拠が語っているのは、人々がたがいに関係し合っているコミュニティには、物質的に豊かか貧しいか、大人たちがどの程度教育を受けているか、人々の人種や宗教がどうであるかを越えて、そこには子どもの教育に善い影響を与える何かがあるということである。反対に、物や文化に恵まれていたとしても、その中の大人たちがたがいに結び合っていないコミュニティは、子どもの教育に関しては貧弱なことしかできないということである。」(Putnam 2000 p.301) 経済的な条件だけでなく、そこに住む人々がたがいに結びつき、たがいのことを思いやり相互に信頼し合っているところ、そして、子どもや青年のことを気にかけ、彼らに発達的に望ましい環境を与えようとする営みがあるところでは、住民みずからの手でコミュニティを再生させることも可能なのだということである。 <2> 地域主体のコミュニティ再建 貧困、失業、家族崩壊、犯罪、麻薬などの問題を抱えて瀕死の状態にあるコミュニティに対して、経済政策、犯罪対策、福祉サービスなどの施策が実施されてきた。しかし、従来の行政的な対応は必ずしも効果を上げてこなかったどころか、コミュニティの自己再生力を弱めるような働きをしてきたのではないかという声が強まっている。貧困地域の住民の生活態度や文化に社会問題の原因があるとみなす政策そのものの基本姿勢にその原因がある場合もあるし、官僚制化されたタテ割り行政の中で実施される施策が、断片的で相互の関連性が欠けているために、十分な効果を上げてこなかったということもある(Schorr)。 政府や地方自治体の社会施策が断片化され十分な効果を上げてこなかったことを踏まえて、1990年代に入った頃から、コミュニティに基盤を置き、地域住民の主体性を重視した包括的なコミュニティ再建(comprehensive comminity initiatives)が各地で展開されるようになる(Connell, J.P., Kubisch, A.C., Schorr, L.B. & Weiss, C.H.eds., Fulbright-Anderson, K., Kubisch, A.C., & Connell, J. P.eds.)。これらの計画は、住宅計画、就労対策、医療対策、保育・教育計画など、その重点とするところは様々であるが、それらが単一の分野計画や対策に終わるのではなく、重点とすることを起点としながら、コミュニティの包括的な再建をめざしている点、しかも、住民参加のかたちで住民みずからが自分たちの問題を考え、解決策を模索し提案するところが従来の形態と異なる。それは、「初期段階から、評価、政策変更に至るまで、再活性化の努力の全段階にわたって、ローカルな知識と参加に価値を置いた住民主導型のアプローチ」である(Connell, J.P., Kubisch, A.C., Schorr, L.B. & Weiss, C.H.eds., p. 2 )。 福祉の分野での子どもケアや家族支援サービスと教育施策との総合化・統合化をテーマとした著作を著したL.B.ショアは、これまでのコミュニティ施策や貧困施策が失敗に終わってきたのは、その「制度(system)」に問題があったのであり、アカウンタビリティについてのポスト官僚制モデルと新たな公と民のパートナーシップが今後コミュニティの再生を図っていく上での鍵となると考えている一人である。そして、そのような新たな枠組みのもとにコミュニティ再建に取り組んでおり、成功を収めている事例を他のところも参照できモデルとするような仕組みをつくっていくことを提案している。というのは、取り組みが成功を収めている事例が多いにもかかわらず、組織や活動などの取り組みの様子やその成果に関する情報は局所化されて、広く注目されることなく埋もれてしまって、ほとんど他に波及することがないからである。 ショアは、コミュニティの再生の鍵を握るのは学校であると考えている。彼女は、特に荒廃や解体がはげしい地域では、学校が、コミュニティ再建やサービスの改革をめざして働いている近隣の人々とパートナーシップを構築することが何より大切だと述べている。そのような地域に根ざした学校がコミュニティとパートナーシップを構築していくためには、すでに制度化されているものにたよるだけでなく、これまであまり注目されてこなかった地域住民のつながりや家族間の相互支援などのインフォーマルなネットワークを積極的に活用していくことが重要である。 ショアは子どもケアと学校を結合したコミュニティ再生の取り組みを幅広く分析した上で、成功を収めているプログラムの特徴として次の7つあげている。
ショアがあげたこれらのポイントは、後に紹介するコーマーの学校改革プログラムやツィグラーの「21世紀の学校」、フルサービス・スクールなどにも適用される。 2 学校改革とコミュニティの再創造 <1> 参加と協働による学校改革 保護者の学校参加や学校と地域、大学、企業、専門家集団、NPOなどとの協働がさかんに行われるようになっている。アメリカではクリントン前大統領が1994年に目標2000の中で教育の国家的目標の一つに保護者の参加を位置づけて以来、学校や家族が直面している窮状を脱する有効な道として、この流れは勢いを増している。さまざまな現実的な問題や障害が指摘されているが、参加や協働を進めている学校ではおおむねは好ましい結果が報告されている。 ウィルソン=コークランによれば、参加や協働は学校に次のような好ましい影響を与える。第一に、技術的側面として、協働によって人々が持っている専門的な知識・技術が提供されることになる。第二は、協働によって学校が近づきやすく親しみのある場所となり、人々は学校のことを以前よりも知るようになる。そのことによって、学校に対する無関心な態度は減少し、学校のために自分も何かできるのではと感じる人が増える。第三に、教職員以外の大人の学校活動への参加は、生徒たちに次のような重要なメッセージを伝えることになる。すなわち、自分の時間を割いてまで大人が学校活動に参加するのは、そのことが意義のあることだからだというメッセージを。最後に、今日のようなあわただしく騒々しい世界で失われがちな生活の質というものについての関心を呼び起こすような学校−コミュニティ文化が、協働活動を通じて形づくられる。彼らは言う。「学校の教職員によるコミュニティへのあらゆる形のかかわり、コミュニティのメンバーの学校活動へのあらゆる形の関わりは、校区の人々に一つのメッセージを送る。それは、『私たちはあなたのことを気にかけている。私たちはあなたのことを知りたいし、あなたに私たちのことをもっと知ってもらいたい』というメッセージである。」( Fullan p.241) 「効果のある学校」に関する研究でも、かつてはもっぱら学校内の過程に焦点を合わせたものが多かったが、カソリック系の学校の研究を通じて、学校と家庭の社会資本の重要性を指摘したコールマン=ホッファーの著作(Coleman, J.S. & Hoffer, T., Public and Private High Schools.)以降、学校外の特にコミュニティとの関係を射程に入れた研究が増加している。バスティアンらによれば、学校を効果あるものにするためには保護者の関与は必須の要件であり、それまでの経験や研究から得られた一般的な教訓によれば、「効果的な学校のアプローチが、地域的な条件に適合したところでは−そしてそれが評価の手続きとしてだけでなく、校区コミュニティ全体をエンパワーするためのプロセスとして使われるところでは−、進歩的改革が十分にかつ持続的に行われる実際的な可能性がある」ということである(Bastian et al. 1985 p.119)。保護者の参加が子どもの学力向上にプラスの影響を与えるという調査結果がその後続々と公表されるにともなって、学校の効率性や子どもの学力の問題という観点から保護者の参加が論じられることが多くなってきた。エプスタインは、「われわれは、家族は学校での子どもの成功にとって重要であるか、という問いから、家族が子どもの発達や学校での成功にとって重要であるなら、学校は、いかにしてすべての家族が子どもに有益な働きかけをするように援助できるかという問いへと移行した」(Epstein in de Carvalhon 2001 p.213 )と述べ、親の参加もしくは家庭との協働は学校改革にとっていまや欠くことのできないものとなっていることを指摘している。 学校が保護者の参加を進めているかどうかは、その学校が変革を志向しているかどうかと関連しているようである。行き詰まり身動きがとれない学校の教師は、保護者の参加を目標に掲げることをしないのに対して、現状を変えようとする雰囲気のある学校では、教師たちは教育内容に対する保護者の関与を促し、そのことによって学校と家庭とのギャップを埋めようと熱心に取り組むというわけである。 <2> 保護者のエンパワメント 学校活動への保護者の参加や学校とコミュニティとの協働活動は、学力向上の効果、中退抑止の効果、生徒の態度や行動面での効果といった学校側から見た肯定的な影響だけでなく、家庭での親子のコミュニケーションを促進したり、保護者の学校教育や家庭教育に対する関心や責任意識を高めるなどの好影響をもたらすということが報告されている。特に注目したいのは、アメリカの参加=協働論は、低階層やマイノリティ家庭に対する参加=協働の効果や影響に焦点を当てていることである。日本の学校参加論には決定的に欠けているこの視点が、アメリカの参加=協働論では中心テーマとなっているのである。親の参加を基軸にアメリカで学校改革を進めているJ.コーマーは、この点について次のように述べている。 「親の参加の必要性は、低所得とマイノリティのコミュニティで、あるいは、親が排除されているという気持ちを持ったり、自尊感情が低かったり、希望を持てないようなところで、最も高いのである。親は、子どもにとって最初の最重要なモデルであり教師である。もし親が、排除されているとか、自分には価値がないとか、希望がないという気持ちを持ったら、そういう態度を親は子どもに伝えることになる。そのような態度は、望ましい学校学習や長期的な目標の達成のために必要なものとは正反対の行動的な結果をもたらすことになる。」(Comer 1980 p.126) 日本の教育改革論議で家庭や親の責任に言及するものは多い。たとえば中央教育審議会答申「幼児期からの心の教育の在り方について」(1998年6月)でも、家庭の親のあり方や教育方針について詳しく言及している。しかし、社会的不利益層の問題にはほとんどふれていないし、そのような家庭の保護者に対するエンパワメントの必要性に言及したものもほとんどない。日米を対照したときの大きな相違点がここにある。子どもに対する家庭の保護・養護・教育は、保護者個人の心構えや責任感以上に、経済的な安定性や周囲の人々の支え、政策的な支援などが大きくものを言う。特に、生活保護家庭、単親家庭、障害者家庭、同和地区家庭、ニューカマー家庭など、マージナルな家庭に関してはエンパワメントが不可欠である。しかし、文部科学省を中心とした教育改革論議では、そうしたことにふれたものはほとんどない。それは家庭の責任であると見なすかのごとく、日本の教育および児童福祉政策ではこのことが無視されているのである。 親の参加や協働のメリットを指摘する論調が多い中で、それに警鐘を鳴らす人々もいる。彼らの多くが指摘する問題の一つが、参加=協働には社会階層的なアンバランスが生じがちだということである。学校が親の参加を呼びかけたときに予想されるのは、いわゆる「金と暇のある」人々が集まりやすいということである。ラルーは、社会階層が親の参加と関連していることを「親の参加の暗い一面」と呼び、中流階級の親が、労働者階級や下層階級の親に比べ、学校活動のあらゆる場面に多く参加していることが、子どもの学校での学習に間接的な影響を与えていると述べている。またトーミーは、教育関係者はすでに参加している人々に好意を寄せる傾向があり、このことが親の参加が教育的な不平等に結びつく一因となっていると指摘している(Chavkin 1993 p.4)。教師の中には、マイノリティの親や低い階層の親に対してステレオタイプ的な見方をするものが多く、彼らは子どもの教育に熱心ではないとか、学校の活動に無関心であると思い込んでいる。マイノリティや低階層の親は、PTAなど従来の学校活動に参加することが少なかったことから、学校への参加そのものに関心を持っていないと最初から決めてかかっているのである。 このような学校や教師の態度は、学校や学習に対する子どもの態度にも陰に陽に影響を与えることになる。学校や教師が親をどう見なしているか、また、どのように取り扱っているかは、教育全般に対する子どもの態度に影響し、それは学力や行動に反映するのである。親が学校活動に参加している様子を見た生徒は、親が自分の教育や学習に関心を持っていることを実感することになるだろうし、地域の大人の人たちの多くが参加しているのを見た子どもは、多くの人々に支えられて自分が生きているのだという力強いメッセージを受け取ることになるのである。 親をただ学校に招くだけでは不十分である。参加を促すためにはそのための明確な仕組みが提示されなければならない。また、学校活動に参加することに乗り気でない親に対しては、親をその気にさせるように参加のプログラムを変えなければならない。コーマーはこの点について次のように述べている。 「学校は親からの支持を勝ちとらなければならないし、生徒のニーズに柔軟にそして創造的に応えることを学ばなければならない。」 <3> コミュニティ全体が子どもを育てる:The Comer School Development Program それでは、社会的不利益層を多く抱えた学校の改革や学校づくりは実際どのように進められているのであろうか。ここでは、そのような学校改革運動の一つであるSDP(School Development Program)の学校づくりについて紹介することにしよう。 SDPとは、イェール大学の児童研究センターの教授であるジェームス・コーマーの教育理論に基づいて進められている学校改革計画である。1968年に二校で始まったこのプログラムは、1990年に70校、1993年に267校、1995年に550校へと拡大し実施されるまでになった。SDPは、「生徒、親、教師、行政関係者たちが、子どもの学習の援助という同じ目標を共有しているということを認識することによって、たがいの間に強い支援的な関係を構築する」ことをめざした教育改革運動である。「ともに関わり合う(shared commitment)」関係をつくるということがSDPの最大の特徴であり、実現すべき目標でもある。SDPの推進者の一人であるヘインズによれば、それは、「子どもの生活に個人的かつ集団的な変化をもたらすことをめざして、親や教師といった重要な大人の世話役や養育者たちを一つにし、エンパワーし、鼓舞する過程である。その過程は、すべての子どもたちが多様な道筋をたどって成長できるように支援し育む肯定的な学校の雰囲気を創り出すとともに、学校レベル、教室レベルでの効果的な活動を展開していく上で、親たちと学校の教職員たちの間の相互信頼と協働が重要であることを強調するものである。」 SDPは次の三つの理念(観点)のもとに組織や活動を展開している。 一つは、アフリカのことわざ「子どもを育てるのは村全体」に表現されている思想である(Haynes et al. p.43)。学校や家庭が個々にその役割を果たすだけで、また、教師個人や親個人が子どもの養育者としての自覚を高めるだけで、子どもの成長や発達が保障されるわけではない。学校と家庭との関係、教師と保護者の関係、学校とコミュニティとの関係・・・、生徒、親、教師、その他の教育に関わる人々の発達やその活動の発展は、「関係性」に依存しているといってよい。悪い関係しかないところでは、いかによい教授法や教育内容や設備があったとしても、悪い結果しか生まれない。生徒や親や教師たちが十分に力を出し切れないところに共通してみられるのは、この「関係性」の悪さである。「村全体」という表現は、教育に関わる人々が課題と目標を共有し、同じ方向に向けて協働の活動に取り組むコミュニティを意味したものであり、そのような目的概念としてのコミュニティの構築を指し示したものである。ヘインズはその理念を次のように表現している。 「学校だけまたは親だけでは、あるいはそれらを合わせただけでは、ますます複雑化する社会の中で子どもたちが生活し発達するのに必要な生命維持手段やサービスや支援を提供することはできない。意味ある他者やサービスからなる全体的なコミュニティが、子どもたちに現在と将来の生活に対して力をつけ準備させるよう協力して取り組まねばならない。」(Haynes p.52) 「コミュニティの関与が進めば、教育の焦点は、学校の建物を越えて拡大し、子どもの全面的な発達に対して支援する意志と能力を持ったコミュニティの団体や組織までそこに含まれるようになる。」(Haynes p.54) 二つ目の理念は、生徒の全面的な発達を親や教職員が支援し、生徒に学力を身につけさせたり望ましい社会的行動ができるようにするような、教育的な手本を示し子どもを育む雰囲気に満ちた学校をつくるということである(Haynes et al. p.43)。SDPでは、身体的、言語的、倫理的、認知的、社会的、心理的発達が偏ることなく、また、それぞれが個別に追求されるのではなく、発達の道筋が相互に関連づけられ、バランスのとれた発達を保障することが重視される。 三つ目は、生徒の行動や態度や達成レベルは、生徒の社会経済的地位や民族的背景より、学校の雰囲気や教育プログラムからより大きな影響を受けるという考え方である(Haynes et al. p.44)。低階層や不利益層の生徒が多い学校では、低学力者や中退者が長年にわたって多くの部分を占め、教師の間にそれを「常態」と受けとめる雰囲気があったり、その状態を変えようと最初は努力するが、困難や障害が多すぎるためにあきらめてしまって無力感に陥っている教師もいる。しかしSDPは、生徒の社会経済的な背景や民族的な背景は、学習意欲や学力を左右する決定的な要因あるいは克服することができない要因とは考えず、教育に関わるすべての者がそれは克服できるという信念を持ち、協働してそれに立ち向かう雰囲気を学校内・外につくり出していけば、多くの学校が抱えている教育問題は克服できると考える。イリノイ大学の高名な教育学者であるH.ウォルバーグは、学校参加に関する研究をレビューした論文の中で、教育への家族の参加は、学習に関して、家族の社会経済的地位の二倍の影響力をもつ可能性があると述べている(Chavkin)。 以上のような理念のもとに進められているSDPは、他の学校改革以上に大人の役割を強調する。子どもの学習は、経験に意味を与え、その重要性に気づかせる役割をする「仲立ちするものとしての大人(mediating adults)」の存在があって、はじめて成り立つのである。子どもの学習経験は教室内に限られない。子どもたちにとって学習の素材となる経験は家庭でも路上でも市場でも提供される。さまざまな生活の場で得られる経験に対して、子どもたちはみずから意味づけしたり解釈したり理由づけたりすることもできるが、その能力は限られている。経験したことを子どもが十分に理解し、学んでいくためには、傍らにいる大人−親や教師や地域の大人たち−が子どもがするさまざまな経験に意味づけをしてやり、他の経験と関連づけながらその経験の相対的な重要性をわからせるという働きかけが不可欠なのである。 この経験と学習を仲立ちする存在としての役割を、子どもを取り巻く大人たちが自覚し、子どもの教育に対して関わりの意識を持つことが求められることになる。子どもの発達と学習を促すために、教師や親だけでなく、産業界やソーシャルサービス機関やボランティア団体などの地域の構成団体のすべてが、SDPの理念に基づいて改革を行っている学校のパートナーとなるのである。 SDPでは、親は学校の一部であると見なされる。すでに述べたように、マイノリティ集団や社会的底辺層の親は、社会全体に対して疎外感を抱いており、学校との関係においても、自分たちは学校から歓迎されない存在だとか、学校は自分たちの声を聞いてくれないという気落ちを抱いている。自分は親として十分な責任を果たせていないという罪悪感や絶望感に陥っている者もいるし、子どもの教育者として自分が適切であるかどうか不安を持っている者も少なくない。このような状態にある親が、教育者としての自信を取り戻し、子どもの教育に関わる意識と自覚を持つことが重要なのである。SDPではこのような考え方にもとづいて、親を「第二の教師」と見なし、学校や教師のパートナーとなって子どもの全面的な発達を支援していく存在として位置づける。 親たちは学校に設けられた保護者チームや学校計画・経営チーム、生徒・教職員支援チームなどに加わり、学校に関わるさまざまな活動に参加する。それらの活動は親たちだけが行うのではなく、教職員もともに活動に加わり学校に関する情報を直接提供する。親たちはこのような協働活動に参加することを通じて、学校活動の実際を知ったり、子どもをどう支援すればよいのかを学んだり、みずからの知識や教養を高める必要性を感じたりすることになる。また、親はみずから学校の活動に参加するだけでなく、他の親や地域の人々や団体などと学校との橋渡しの役割も果たす。 SDPは参加と協働を基本理念に学校再生を図ろうとしているが、参加=協働に関して留意すべき点がいくつかある。 その一つは、参加=協働は保護者の参加そのもの、あるいはその数を増やすことをめざしているのではないということである。シュムレカーは、カソリック系の学校、マグネット・スクール、普通の地域の公立学校といった三つの異なるタイプの学校の親の参加について調査した結果を報告している。その中で、学校と家庭との一体感が高いのは前二者であり、最後の公立学校は親の参加を積極的に進めているにもかかわらず、学校と家庭との一体感は醸成されていないと指摘している。調査の対象となった公立学校は、前二者にくらべ生徒の家庭背景は厳しく、生徒の学力や社会的な行動・態度にも多くの問題があり、カリキュラムや教授法の面でそれらへの取り組みの努力が見られる。この公立学校が家庭との一体感に乏しい原因として、シュムレカーが挙げているのは、親の参加が授業の補助者としての役割に限定されており、学校の経営や計画への親の参加はほとんど見られないこと、学校の側にコミュニティの社会資本を形成するという視点がないことなどである。参加した親たちがともに集い交流するという場面も少なく、教師と親の交流も授業場面に限られており、子どもの問題や学校の指導方針、教育理念、教育方法などについて親どうしあるいは親と教師が腹を割って話し合う場も設けられていなかった。また、学校が親以外のコミュニティのメンバーや団体とつながりをもつということもほとんどなく、学校がコミュニティ形成に寄与しているという印象はなかった。 この事例に見られるように、親の参加を進めていたとしても、それが単なる授業内容や方法の多様化という観点から行われているだけなら、学校改革も部分的なものに留まってしまうし、参加=協働が本来めざしているものまで台無しにしてしまうことになる。形の上だけ参加=協働を進めるのではなく、何のためにそれに取り組むのかを学校は問い直す必要がある。 <4> 子どもケアと学校の連結:「21世紀の学校」 学校改革を効果的なものにするためには、学校入学前の子どもの養育や親の参加に眼を向け、保育や医療サービスや親に対する就労支援などの子どもケアや家族支援と結合した学校・コミュニティづくりに取り組む必要がある。このような観点から、SDPの運動は、近年、学校入学以前の子どもの問題にも眼を向けるようになり、ツィグラーが推進してきた「21世紀の学校」づくりの運動と手を結んでその活動を展開しつつある。 ツィグラーはヘッドスタートの研究者であり、その成果に関する調査を続けてきた人物であるが、彼は、行政の縦割りの中で福祉、教育、医療等の施策が相互関連性を欠いたまま続けられてきたことが、ヘッドスタート計画が期待された成果を上げてこなかった最大の原因であると考えた。貧困層の増加、若年出産や単親家庭の増加、女性の就労率の上昇、コミュニティの崩壊など、子どもをめぐる状況が変化しているにもかかわらず、子ども施策の現状は以前のままである。そのことが子どもの発達環境悪化の一因にもなっており、いまやアメリカ全体の約40%の子どもたちが危機に瀕している。 そのような認識の下に、子どもに対するケアをより効果のあるものにするためには施策の総合化・統合化が必要であると考え、学校を基盤にした、もしくは、学校と連結した子どもケアの制度を提案したのが「21世紀の学校」構想である。そのプログラムは、現在全米の17の州の600の学校で実施されている。それに参加している学校では、0−3歳児を持った親に対する家庭訪問などのアウトリーチ・プログラム、3−5歳児に対するデイ・ケアの完全実施、就学児童に対する通学前・放課後のケアの実施、家族に対する支援情報の提供、個人の家庭で子どもを預かりケアをしている人々への援助など、就学前から就学後に及ぶ年齢の子どもや家庭を対象にした多様なプログラムが実施されている。その全体的な構成を示したのが図2であるが、これをみればわかるように、「21世紀の学校」は、学校と子どもケアを連結し、学校を拠点とした、包括的な子どもケアの展開を意図している(学校に併設された子どもケアの施設が「ファミリー・リソース・センター」である)。 子どもケアを学校と連結させるという発想は、世界的に見ると必ずしもユニークなものではない。子どもケアの制度化の先進地であるヨーロッパでは、むしろ子どもケアを学校教育のスキームの中に組み込んでいる国が多いのである。ヨーロッパの多くの国では、3−6歳の子どもは学校の中に設置された無償の就学前学校(幼稚園)に通っている。そのような就学前のプログラムは子どもの社会的、心理的、認知的発達にとって重要なものであり、学校への準備のために必要だという考え方が定着しており、単に母親が働いている間子どもを預かるというだけでなく、母親が働いているかどうかに関わりなくすべての子どもにその機会が提供されているのである。 ところで、「21世紀の学校」がこれまでの子どもケアとちがう最大の特徴と言えるのは、学校を子どもケアの拠点として位置づけようとしている点である。親が子どもの教育に重要な役割を果たすことは多くの人が認識しているが、この二つの教育の場は分離したものとして位置づけられてきた。すなわち、学校は5,6歳からの子どもに教科を教えるところ、家庭は子どもの社会的、道徳的発達の責任を担うところというふうに、学校と家庭に別々の役割が割り当てられてきたのである。また、子どもケアの施策やサービスに関しては、1960年代以降法的整備も進み、次第に充実はしてきたが、制度じたいが確立されておらず、パッチワーク的な対応に終始してきた。一方で、学校に対しては莫大な税金がつぎ込まれ、施設・設備の整備が行われているが、その施設が使われるのは一日のうちの限られた時間だけであり、年間を通しても9ヶ月しか使われていない。子どもケアを既存の学校システムに組み入れることができれば、学校に対して行われてきた投資を活かすことができるし、子どもケアのサービスを充実させ、機会の拡大やサービスの向上にもつなげていくことができるというわけである。 子どもケアの充実という観点だけでなく、学校教育という点から見ても、子どもケアと学校との連結は有意義なものである。子どもの学力の向上をめざして、カリキュラムの充実や達成基準の引き上げ、コンピュータなどの新たな技術の導入、教師の給料のアップ、学校経営の革新など、さまざまな学校改革が実施されているが、これらは子どもの教育を充実させるための一面にすぎない。教育の結果を改善し、すべての子どもが学校で学力をつけられるようにするためには、「(1)子どもはどのようにして学び、何がその学習能力に影響を与えるのかについての理解を深め、(2)子どもの成長や発達、そして教育から利益を引き出す彼らの能力を最適化するための支援を提供し、(3)子どもが生まれたときからそのサービスを開始しなければならない(Finn-Stevenson, M. & Zigler, E. p.2)」。 子どもは学校に入学した後に学習し始めるわけではない。その学習は学校入学前から、生まれた直後からすでに始まっている。学校で学ぶことの前提条件となるさまざまなものが、学校入学前の環境の中で準備されていなければならないのである。そのためにも、子どもケアと学校は連結されるべきであり、学校生活に対する準備についての情報が、その連結を通じて就学前の家庭や親にスムーズに伝達されていくことになる。 身近にある学校で子どもケアのサービスが提供されれば、家庭で子どもケアを行っている人は寄り集まり情報を交換することができるし、小さな子どもを持つ親たちも必要なときに必要なサービスを受けることができる。子どもケアに従事している人々や親たちに対する情報提供、相談活動、そして子育ての研修や訓練といった参加の機会を、かれらが住んでいるところで実施することが可能になる。 また、「21世紀の学校」のプログラムでは、子どもを対象としたものだけでなく、家族に焦点を当てた二世代アプローチも重視されている。親が家庭の中で子どもにどのような働きかけをするか、子どもの成長や発達についてどのような考え方をするか、家族外の人々や社会機関とどのような関係を持つかといったことに焦点を合わせたプログラムが実施され、親子がともに参加する機会も多い。この点からも、子どもケアを提供する場所が生活の身近なところにあるほうが都合がいいのである。 このようなサービスを可能にするために、学校はコミュニティの諸組織や保健サービス機関や社会サービス機関と提携していかなければならない。経済的な問題、健康上の問題、情緒的な問題など子どもが抱えている問題を察知した学校がそれらの組織や機関の協力を求めることもあれば、保健・社会サービス機関が学校から情報を得て子どもの問題を特定し働きかけていくという場合もある。「21世紀の学校」がめざすのは、学校にせよ、学校外のさまざまな機関や組織にせよ、単独であるいは別個に、子どものニーズに対応するのではなく、さまざまな教育、社会、保健機関などが連携して包括的な支援を提供していけるようにすることなのである。 <5> 「フルサービス・スクール」 「21世紀の学校」構想が就学前の子どもケアと学校との連結を課題としているのに対して、青年期の問題への対応を課題として学校改革を進めている構想もある。ドライフーズが提唱している「フルサービス・スクール」がそれである。ドライフーズはそれを、コミュニティが必要とする保健や社会サービスを教育に結合するという意味で「コミュニティ・スクール」と呼ぶこともある。 現代社会では、若者のまわりにはセックスや薬物や暴力といった危機を招く刺激が満ちあふれており、実際に犯罪に走ったり、麻薬におぼれたり、10代で妊娠や出産をしたりする若者が増加している。そのような若者たちに、子ども期から責任ある大人へと移行するための「安全な通路」を確保するためのプログラムを提供しようというのが「フルサービス・スクール」の基本的な考え方である。 若者に対して、教育や福祉や医療や労働などの部局が施策を実施し対策を講じている。学校、社会サービス機関、青少年団体・機関、教会なども青年を対象としたさまざまなプログラムを提供している。現在アメリカでは、85,000の公立、25,000の私立の初等・中等学校が何らかの青少年施策と関連した取り組みをしている。また、ガールスカウト、YMCA、4Hクラブ( )など青少年関連の全国的な団体が400あり、コミュニティに基盤を置いたプログラムが少なくとも17,000実施されている。ユースサービス関連のプログラムを実施している図書館やレクリエーション機関や警察は6,000に上ると言われている(Dryfoos, p.8)。 しかし、青少年に対するこれらの施策や働きかけは必ずしも実効性のあるものとなっていないのが実情である。ドライフーズは、それぞれの施策や働きかけや取り組みが、個々ばらばらに行われ、他の施策との連携を欠いた断片的なものになっているところに、その最大の原因があると考える。そのような現状を克服する方法として、学校に断片化されたさまざまな機能を集積して、学校が総合的かつ全体的な「安全な通路」を提供する基地となることを提案している。ドライフーズは「フルサービス・スクール」の特徴について次のように述べている。 「われわれは、現代の子どもや青年や家族のニーズに応えるように、学校とコミュニティを組織してこなかった。本書では、学校のまわりに構築される新しい制度を創造するためのさまざまなアプローチを検証している。その新たな制度は学校以上のものである。それは、自己実現のためのセンター、さまざまなサービスの結集する場、近隣の安全地帯としての役割を果たすことになる。(Dryfoos, úH)」 また、フロリダ州の法案の中では「フルサービス・スクール」は、「子どもや青年や家族が簡単に利用できる学校の敷地やその位置に、彼らのニーズに対応して提供される教育、医療、ソーシャルサービス・ヒューマンサービスの統合」として定義され、「フルサービス・スクールは、子どもたちや家族が必要とするようなタイプの予防、治療、支援サービスを提供する・・・そのサービスは、質の高い包括的なものであり、諸機関のパートナーシップのもとに提供される。そのパートナーシップも、州と地方、官と民の間での連携の模索から緊密な協働体制へと発展してきた」と表現されている(Dryfoos, p.75)。 「フルサービス・スクール」とは、アメリカの各地で展開されている多様な形態のコミュニティ・スクール運動の総称である。そうしたコミュニティ・スクール運動の中には、放課後の学習、レクリエーション、社会活動、生涯学習プログラムなどを提供しているミシガン州フリントで始まった「明かりのついたスクールハウス」、健康チェック、雇用プログラム、芸術活動、レクリエーションなどが行われているニューヨーク市の「灯台(Beacons)」、従来のセツルメントハウス( )を学校内に設置することによって、そこを安全な避難所とした「学校内セツルメントハウス」、親子二世代を対象としたアプローチに重点を置いた「家族支援コミュニティ・スクール」などが含まれる。 これらは、基本的に学校の中に、従来、学校外に設置されていた健康センターや職業紹介所や医療サービス紹介所やユースサービス・センターを併設し、一カ所にさまざまなコミュニティ・サービスを集めることによって、サービスの効率性や質の向上を図ろうとするものである。また、ファミリー・リソース・センターやツィグラーの「21世紀の学校」なども結合することによって、包括的・総合的な保育や教育サービスの実現を図ろうとしている。このように、親や子どもや青年を対象としたサービスの統合化と質の向上とともに、サービス対象者である彼ら自身が参加と関わりの意識を高め、みずからとコミュニティの問題の解決に責任と主体性を持って取り組むようになることが重要課題として掲げられている。 青年を対象としたコミュニティ・ベースの施策や活動を再評価しようという動きは、アメリカ全体に広まっており、青少年団体やそこで働くユースワーカーなどの活動や役割に関する調査や研究が増えつつある(Heath, S.B. & McLaughlin, M.W.(eds.) 1993, McLaughlin, M.W. 1994, Cibulka, J.G. & Kritek, W.J.(eds.) 1996)。 しかも最近の傾向として注目されているのは、従来、学校外の活動として展開されてきたこれらの青少年活動を、学校教育と連結し、学校改革を進めつつ、さらに、学校を基盤にしたコミュニティ形成の一環としてそれを位置づけようとしている点である。また、生涯学習とも関連させ、学校をコミュニティのすべての人々の学習センターにしようとする構想も、これらの動きと歩調を合わせるように浮上しつつある(Parson, S.R. 1999)。 学校は、これまで、校門や壁で外から隔てられたなわばりの中でその活動を行なってきた。バスティアンらが言うように、「学校は本質的に地域の機関でありながら、それが貢献すべきコミュニティからしばしば隔離されてきた。・・・独自の学問的かつ社会的使命を学校は有しており、それじたいのための世界であるべきであるという広く行き渡っている考えは、コミュニティの文脈から学校が疎遠になる傾向を強めている(Bastian et al. p.121)。」しかしいまや、学校が外部のさまざまな社会機能と連結・連動して、コミュニティ形成の中核的機関としての役割を果たす時代が到来しつつあると言えるのではないだろうか。
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注
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参考文献
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