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部会・研究会活動 <地域教育システムの構築に関する調査研究事業>
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報告書 教育コミュニティづくりの理論と実践
-学校発・人権のまちづくり- |
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多文化共生をめざす地域づくり 郭 嫻 |
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はじめに −中国渡日児童・生徒について− 日本国内に暮らしている外国人は、2001年末現在で177万人(法務省の外国人登録統計による)にのぼった。また、国籍別で見ると、外国人登録者の国籍数は182カ国であるが、そのうち中国国籍を持つ外国人は引き続き増加傾向にある。在日中国人の中には、中国帰国者(国費での永住帰国者、その家族及び自費帰国者)が約5万人いる。中国帰国者家族、とりわけ自費帰国者は、多くのニューカマー家族と同じく社会的援護を要する人々であるにもかかわらず、援護を受けられないまま、日本社会の外国人に対する偏見や排除、それに起因する日本人との摩擦など、さまざまな困難に直面している。こういう家族の中には、経済的、政治的地位が不安定な上に、家族内の世代間の隔絶のために家族崩壊に近い状態に陥ってしまう家族も少なくない。子どもの幸せのために日本にやってきた親たちの意図に反して、日本の学校のなかで、日本の社会の中で大きく躓いてしまった子どもたちがいる。 中国渡日児童・生徒(以下、渡日生)は、主に中国残留邦人(1)の孫に当たる中国にルーツを持つ児童生徒のことであり、言葉や文化などの上での差異を抱えた存在という意味でニューカマーである。そして日本社会や日本の学校が経験する「異文化との出会い」にかかわるさまざまな問題が、そこに現れている。本章は、渡日生の教育をめぐる家族、学校、地域、行政などの動きをいくつかの事例、特に、渡日生の教育をめぐる家庭と学校との連携の問題に焦点を当て考察を進めていきたい。 渡日生とは、中国残留婦人・孤児の帰国が始まってすでに数年が経過したので、彼ら、とりわけ小学校に在籍している児童のなかには日本生まれの子どもも少なくない。しかし、彼(女)らの親は、中国残留婦人・孤児の子どもとして中国の家庭で育ち、中国で多かれ少なかれ学校教育を受けてきた。中国の文化になじみながら大人になり、中国人と結婚して家庭(残留孤児二世同士で結婚するケースはごく稀である)も築いている。彼らに共通しているのは、1980年代後半から中国残留婦人・孤児の子どもとして渡日してきたということであり、また、日本での生活において言葉の不自由による精神的なストレスなどいろいろな困難を抱えながら、家族を支えてきたということである。 このような渡日生の教育問題を取り上げた理由は、<1>彼らの親たちの多くは高い学歴を持ってない、<2>子どもの教育に関心を持ちながらも日本の学校教育に戸惑いを感じている、<3>きつい、汚い、危険な仕事に従事し、常に失職の危機にさらされている、<4>子どもは生活言語としての日本語がかなりできるのに対して、親は仕事に追われて子どもと同じようなレベルの日本語を身につけていない、という厳しい実態があるからである。こういう現状に関しては、就労で来日したニューカマーとしての外国人労働者との類似点が少なくない。渡日生の教育問題を考察することを通して、ニューカマーの子どもたちの教育問題について、さらには、日本の教育の包括性(inclusiveness)について有益な示唆が得られるのではないかと考える。 1 M市N中校区の渡日教育の取り組み <1> 渡日生をめぐる学校教育 M市内には、府営住宅が数カ所あり、その関係で多くの中国帰国者家庭が住んでいる。とりわけ第N中学校区と第L中学校区には中国にルーツを持つ児童・生徒が多い。1980年代後半から渡日児童・生徒が在籍するようになってから、それぞれの学校は、中国渡日児童・生徒の教育課題を中心とした実践を行なってきた。以下では、N中校区のE小での事例を通して、多文化共生の地域づくりへの歩みを辿っていきたい。 現在小中学校に在籍している中国渡日児童・生徒(以下「渡日生」)の多くは、幼い頃に渡日したかあるいは日本生まれの児童・生徒たちである。N中学校区のE小には2002年現在渡日生が11名在籍している。そのうち、7名は全員日本生まれであり、日本の保育所/幼稚園に通った経験がある。この渡日生たちは、社会生活言語(2)としての日本語能力はまったく問題なく、小学校から始まる日本の学校文化に適応する上で保育所の経験が果たしている役割は大きいと考えられる。他方、学習思考言語としての日本語能力は、多くの渡日生に欠如しており、学校での学習は相変わらず厳しい現実がある。彼らの両親は、ある程度日本語を身につけているが、たとえ親が子どもとのコミュニケーション言語として日本語を使ったとしても、文化の差異から生じる背景知識の不足から子どもたちの学習思考言語としての日本語能力を高めることは難しい。学習思考言語としての日本語能力の不足は、教科学習を見た目以上に難しくする。このことは、学力の低下の原因となり、結果として、高校進学や大学進学にも影響を及ぼしていく。 渡日生の学習思考言語の弱さは日本語指導・教科指導の有り様にも影響する。どのような日本語指導・教科指導が、現在の渡日生にとって適切であるのかは、現場の教師にとって切実な問題であるが、指導用の教材や、教科書、担当教師への情報、研修の提供などの公的援助はまだ十分なものとは言えない。 渡日生の家庭の多くは、日本に渡って既に数年から10余年経っている。日本社会での長年の暮らしにおいて、主流文化を受容することは多かれ少なかれある。しかし、価値観を一新するということはまずないと言ってよい。生活習慣、コミュニケーション言語(少なくとも夫婦間のコミュニケーション言語)、しつけ、子どもに対する期待、学校との関わり方、親戚や友人とのつきあい方、家庭内の役割分担などの多くの側面に、濃厚な中国の文化の影響が伺える。それは、明らかに日本の主流文化と異なるものである。家庭の内と外には明らかに文化の溝があり、その異なる文化の間を毎日のように行き来する渡日生にとって、その違いがもたらす葛藤にいかに対応するかは日常的な課題である。 子どもたちは保育所から多くの日本人の子どもや大人に囲まれて育ってきたので、自然にまわりと同じ価値観を持つようになり、日本語も親より明らかに上手である。特に、小学校入学後の仲間関係は彼らの生活に大きな変化をもたらすことが多い。そのことを示すのは、多くの子どもたちが小学校に入ってから中国語を急に忘れていくケースが多いということである。親が中国語で言うことが分かっていても、中国語で答えることをしだいにしなくなっていく。さらに大きくなると、親の意思が十分に伝わらないということ、そして、自分の考えを伝えきれないことが多くなり、親子の間の溝はしだいに深くなっていく。特に、小学校高学年から、親とのコミュニケーションギャップが広がる可能性が大きくなる。 家庭が持つ文化と日本社会の主流文化との矛盾からしばしば家庭内で対立・葛藤が生じる中国渡日生たちは、まわりの大人、仲間からサポートしてもらいながら、その対立・葛藤を解消しようとして自分なりの戦略を持つようになる。その場その場で、状況との間に折り合いをつけ、適切な対処戦略を選ぶという経験を積み重ねながら、渡日生は彼らなりのアイデンティティを組み立てていくのである。それは二つの文化の間で二つのアイデンティティを使い分けていくという過程でもある。二つの文化を経験する渡日生のアイデンティティは、「中国人」か「日本人」かで分けられるようなものではなく、むしろ複合的かつしなやかなものとして捉えなければならない。 適応の問題、言語の問題、学力の問題、アイデンティティの問題は、互いに影響を与えながら、渡日生の学校での成功や達成だけでなく、彼らの成長全体に大きく関わっていくのである。そして、これらの問題は、渡日生個人の問題としてではなく、集団の問題として取り上げる必要がある。 <2> E小の渡日生に対する取り組み (1)地域に根ざした国際理解教育 E小では、1986年度から渡日生が在籍するようになり、90年代に入って在籍児童の数が継続的に増え始める。1992年度文部省から「帰国子女教育研究協力校」の指定を受け、それにより加配教員一名が配置された。それを機に「日本語教室」が設置され、「違いをありのままに受け止められる集団づくりをめざして」をテーマに、中国の文化を持つ渡日生を中心にすえた多文化共生教育の推進・研究を重ねてきた。帰国児童の日本語指導や生活適応指導、学力補充、中国クラブ(他の児童に中国文化に対する親しみを持たせるのが目的である)、教師全員が共通認識を持つための残留婦人や外来の講師などからの聞き取り、教師と渡日生保護者の交流会(保護者の思いを知り、教師・学校とのつながりを作ることが目的である)など、様々な実践を行なってきた。そして、1993年には渡日児童教育部をE小で設立し、組織的な体制を確立した。 1995年度、E小はM市「マイスクール推進研究校」の委嘱を受けて、それまでの渡日生問題の学習と集団づくりの成果を引き継ぎ発展させるために、「中国渡日児童とともに歩む国際理解教育」という新しい実践に踏み出した。その最大の特徴は、“地域に根ざした国際理解教育”(3)という言葉に集約されている(藤井泰一 1998)。 ある日本人の保護者は、その国際理解教育について次のような感想を書いている。
(2)日本の空を見たい−渡日祖父母の思いを学年・保護者そして地域へ E小では渡日生と共に歩む国際理解教育の理念のもとに、参加・選択・体験の手法も採り入れ、主体的に活動できる授業の創造、自分の考えや思いを表現できるコミュニケーション能力の育成、児童一人ひとりの自尊感情の育成などをめざした取り組みを展開してきた。その具体的な展開例として、以下では2000年度の取り組みの中の「学級劇」について詳しく紹介してみよう。 その年、六年生は修学旅行の事前学習において渡日生A君の祖父(中国残留孤児)の聞き取りを行なったが、その聞き取りの最後に、祖父からのお願いとして、「中国の人がなぜ日本(校区)に住んでいるのか正しく伝えてほしい」という話があった。修学旅行(広島)とおじいさんの聞き取りにでてきた「正しく伝えること」、「生きて語り続けること」「教えてあげること」の表現手段として、六年二組は、おじいさんの聞き取りをもとにした「日本の空が見たい」という劇に全員で取り組むことになった。劇の創作過程や練習中に、子どもたちは、まわりの受け止め方まで配慮できる表現のしかたをどうすればよいか学級集団全体で考えた。劇にすることで、子どもたちは、現実社会での経験と重ね合わせながら、自分自身や仲間のことを共感的に理解することができた。「こんなこと(中国人、日本人と区別すること)をやめるために」、全校集会や地域保護者の前やフェスタで、劇で表現していくべきだと学級児童が意識するようになるにつれて、祖父の思い、Aの思い、そして学級の仲間の思いを、みずからの思いと重ね合わせることもできるようになった。 この学級劇は、E小の地域に根ざした国際理解教育の「四つ柱」に沿った実践例の一つである。参加・選択・体験型学習として、渡日児童みずからが祖父母の生きた経験を胸を張って演じられる学級劇を通じて、まわりの児童の関心を育て、集団作りの深化を図った実践である。次に紹介するのは、この学級劇の観賞後、保護者から寄せられた感想である。
(3)日本語教室の活動 日本語教室で具体的にどのような活動を行っているのか、次に紹介しておこう。 まず、2002年度の渡日生は11名であり、7名が日本生まれで、残りの4名のうち、渡日の時の年齢が1歳であったのが2名、3歳1名、6歳1名である。2名は中国国籍であるが、2名は日本国籍である。1名の渡日生の両親が高等教育を受けているのを除くと、その他の保護者は全員中卒かあるいは高卒である。渡日するまで中国の中等都市で暮らしていたのは3名(うち2人が兄弟)である。今年府営団地から転出した1家族を除くと、渡日生の家族はすべて府営団地に住んでいる。また、3名以外すべて就学援助を受けており、準保護家庭が多い。 2002年度の日本語教室の方針は、次のようになっている。まず、両親・祖父母の聞き取りを通した日本語教室の仲間の相互理解、日本語教室の開放とその活動の更なる広がり、二部(入門、初級)に分けての母語保障、各学級の日本語教室訪問(中国の文化や、中国語を知ってもらうための中国(語)講座)、抽出授業(4)と授業への入り込み(5)、学習言語の定着を促進するための日本語指導、などに重点を置いた活動を引き続き行っていく。 そして、生活指導を兼ねた渡日児童の気持ちのフォローと共に、保護者に対しては、日本語教室の担任によるこまめな家庭訪問が行われる。週に1回「日本語教室通信」に載っている中国語に訳された文章を届けること、家庭訪問や保護者会の際、通訳を介して保護者とじっくり話し合える機会をつくることなど、保護者とのコミュニケーションを大事にしている。以下の担当教師の話からも、校区内の中国残留婦人・孤児及びその家族の自主的な組織化を促し、更に日本人との交流活動の日常化と深化を図ろうとする苦心の跡が読み取れる。
続いて、日本語教室をよりオープンにするための取り組みについて紹介しよう。 去年から、日本語教室の子どもたちそれぞれが全校生徒の前で中国ゲームを披露して、そのやり方を他の生徒に教えた。その後、休み時間に日本語教室に来てゲームをする子どもたちが増え、日本語教室の生徒しか入らなかった教室に他の生徒も気軽に入れるようになった。そこでおもしろいゲームができる。いろいろと教えてくれる中国留学生のお兄さんもおり、龍などたくさんの中国のものがある。遊んでいる間に、中国的なものに親しむことになる。自分が知らないものを知り、自分ができないことができる仲間がいることに気づく。今年度から各学年が日本語教室を訪問することになったが、日本語教室で中国(語)講座を担当している筆者に、校内あるいは校外で中国語で挨拶してくる子どもが増えている。中国(語)講座、中国ゲーム、中国クラブなどの多くの実践は、確かに日本語教室以外の子どもにも何らかの影響を与えている。 日本語教室で上記のような取り組みが行われるようになったこと、また、渡日生が親近感を感じられる内容が授業に多く盛り込まれるようになったことなどが影響を与えたのか、中国(語)講座の時にみんなの前で堂々と話そうとする渡日生の姿が目立つようになった。それは達成体験となり、彼らに自信をもたらすことになった。取り組みに参加する中国人留学生(大学生)の存在も渡日生に影響を与えたものとして無視することはできない。彼/彼女らから中国文化を紹介してもらうことによって、みずからの中国の出自を肯定的に捉える渡日生が多くなった。また、中国留学生のような存在がいることを知り、彼ら/彼女らと親しむことにより、中国文化をよりよくかつ積極的に理解することができるようになった。 (4)まとめ 日本のニューカマー家庭は、社会的支援を必要とする他の社会的不利益層と同じく、しばしば社会的な孤立状態に置かれがちである。主流社会の家庭と比べ、経済的に不安定である上に、保護者自身の自尊感情は低くなりがちである。子どもの学校教育に関心を持ちながらも、言語、教育力、情報などさまざまのハンディを抱え、事実上学校側からの教育参加の要望にも応えられないのである。ここから、ニューカマー家庭のエンパワメントの必要性が指摘できるのだが、地域という文脈の影響を考慮しながら、ニューカマー家庭の教育参加において、学校側がどんな役割を果たしうるかを、M市E小の実践例に沿いながら考えてみよう。 同和教育・民族教育の伝統を受け継いだ保護者からの聞き取りは、E小の渡日生教育の重要な一環である。初期には、渡日保護者を学校に招いて、残留孤児の歴史、現実を教師たちに話してもらう取り組みであった。その後、生徒たちを対象とする渡日生保護者たちの聞き取りに取り組んできた。いまでも、聞き取りの前に、日本語教室の教師と担任の教師は何度も渡日生の家まで足を運びじっくりと話を聞くことになっている。多くの準備や聞き取りのような活動を通じて、自分たちは学校に歓迎されている、自分たちの声を聞いてくれるという強いメッセージが、保護者たちに伝えられる。 また、学期ごとに学校で行う渡日生保護者の集会では、教師たちも一緒に中国文化に関するビデオなどを観賞する。フェスタなど出店の準備の時に、親たちが主体として動いている場には、やり方を教えてもらったり、いろいろと話をしたりしながら食材の準備などに協力する教師たちの姿がいつもある。保護者たちにとって、自分が持っている文化に対して教師たちが示す肯定的な姿勢は、大きな自信につながっている。また、学校、地域などの多くの組織的活動に参加してもらうため、教師たちはさまざまな努力や準備を積み重ねている。 そして、もっとも頻繁に行われているのが家庭訪問である。子どもの学校での様子や、家庭で協力してもらいたい細かい要望、学校でのさまざまな手続きや学校行事の説明と参加・協力との要望などを親に伝えていく。そして、家での子どもの様子や、家族の状況、困っていることを聞き取っていくのである。話し合いのなかでは、保護者に教育者としての自信を取り戻してもらうため、親のしつけ方に関する不安に対して「それぞれの家庭はそれぞれのしつけ方がある。間違いではない…」と励ましたり、また親としての自分の経験を話したりしている。主流社会の価値観ややり方を押しつけるのではなく、あくまでも渡日家庭のしつけ方を肯定するかたちで助言する。このことは、日本人家庭のしつけ方と違うのではないか、あるいは日本社会ではこのしつけ方は正しいだろうかと不安を感じがちな親たちにとってなによりの支えになる。それは、平等な信頼関係からスタートした対話である。 さらに重要なのは、日常的な家庭訪問を通じて、教師たちは渡日生保護者の必要や困難を把握するようになり、その解決に向けて着実に進んでいることである。たとえば、日本に長年いるにも関わらず日本語が上達できない保護者が、子どもとのコミュニケーションで悩み、日本語を習いたいという希望を持っていることをつかんで、日本語教室の活動の一環として保護者向けの日本語教室の運営を計画している。日本語能力が向上すれば情報など編成的な資源(6)にもっとアクセスしやすくなり、もっと広範囲に社会参加ができるのではないかと教師たちは期待しているのである。 <2> N中の渡日生に対する取り組み E小と同じように、N中は、人権を基盤においた多文化共生の学校づくりを行なってきた。それは、M市の同和教育や、民族教育の実践から多くのすぐれた経験を受け継いだ成果とも言える。 N中でも、日本語教室が開設され、抽出授業や、渡日生ミーティング、中国語の勉強などの活動が行われている。また、人権同和教育推進委員会が渡日生のことにも取り組み、様々なエスニシティ背景を持つマイノリティの子どもたちがみずからの文化を肯定的に受けとめることができるような状況を作り出すことで、学力を向上させようとしてきた。その取り組みがめざしてきたのは、渡日生のエンパワメントである。すなわち、自分の親がどのような思いで、どのように生きてきたのかを知ることを通して、日々の生活を角度をかえてみずから見つめ直し、それを変革しようとする力が自分自身の中にあることに気づくことによって、渡日生のエンパワーを図ろうとする取り組みである。実際、親の聞き取りなどの学習をとおして、多くの渡日生は、親のこと、自分のことを見つめ直すことができたし、そのことは自分に対して自信を取り戻すことにつながった。 ありのままの自分、ありのままの家庭を班ノートにつづったり、班のミーティングで語り合ったりすることにより、「本当の意味でつながれる仲間づくり」に着実に取り組んできた。このような取り組みの中から生まれてきた「つながり」を示す文章を、渡日生たちと日本人生徒が書いた感想の中からひろい集めてみよう。
更に、同じ立場の子どもたちとの出会いやネットワークづくりにも取り組んだ。他市に住む同じ背景を持つ子どもたちとの交流会や作文コンクールなどさまざまな活動に参加したのである。 N中では、「渡日生学力保障会議」を学期ごとに持って、学力実態の交流や授業の進め方や教材についての工夫をしながら、三年生渡日生の公立高校への進路を保障するための取り組みをしている。進路学習として、渡日生をたくさん受け入れている高校との交流や先輩の聞き取りなども行なわれている。進路学習は、渡日生だけではなく、生徒全員を対象とする取り組みである。それを通して、子どもたちが、自分の将来を見すえた生き方を学習し、その中で進路を捉えるようになること、更に、自分の夢を叶えるために、目標を持って意欲的に学習に取り組むようになることが、進路学習のねらいである。 職業体験で保育所へ行った渡日生のZHは、体験を通して自分の良さに気づき、多くの渡日児童の保育所時代の経験と重ね合わせながら、「僕は、中国語がしゃべれる保育士になる」と決心した。その後、彼は積極的に学習に取り組むようになり、念願の高校に入学することになった。高校生になった彼は、M市国際交流サマーキャンプで、みずからの経験を語った後に、感想を言った子ども一人ひとりに、「頑張ってできる」「本心でぶつかるなら、友達が絶対分かってくれる」と励ましの言葉をかけた。 <3> 学校と家庭の連携から共生の地域づくりへ 渡日した時期や中国での生活状態などにより、保護者が抱えている状況はさまざまであるが、多くの保護者は子どもたちより深刻な問題を抱えている。言葉の問題以外に、経済、社会環境、健康、教育、交際等々の問題がある。このような現実を見据え、E小では、学校と渡日児童保護者、さらにはまわりの保護者をも含めた関係づくりに着手した。これまでにもすでに行われてきた家庭訪問、弁当づくりと餃子づくりの会から、学期ごとに行なわれるようになったE小渡日保護者会を通しての交流、病院、市役所などの案内ないし手続きの代行、就学援助に関する細かい相談、渡日生の保護者のPTAへの参加の呼びかけにいたるまで、さまざまの取り組みが行われている。教師たちのサポートのもとで、渡日生の保護者がPTA役員になったり、学級委員に入ったりするようになった。渡日生の保護者の一人が、N中校区国際文化フェスタの準備会議にも参加することになり、出店の準備に向けて材料など積極的に注文するということがあった。保護者のこうした変化の背景として、あるE小の教師は次のようなことを指摘している。
教師が渡日生の家庭を理解する過程で生まれる教師に対する保護者の信頼、教師と保護者の相互信頼関係から広がる親同士の関係、こういう関係性こそ多文化共生・国際理解の地域づくりの基礎となるものである。 地域での取り組みも、学校での取り組みと平行して進められてきた。1996年1月末に、E小が所属する第N中学校区では校区新育成協議会(現地域教育協議会)が中心となって、「N中校区がすべての国々の人々を暖かく迎え、共に楽しく暮らせる地域となれる」ことを目指して、多文化交流の取り組み−歌や踊り、食べ物、遊びなどの交流を柱にした「国際文化フェスタ」が行なわれた。フェスタの後、「是非来年もしてほしい」という声が挙がった。翌年には第2回国際文化フェスタが開催されると同時に、N中校区から始まったフェスタがM市内の他の校区にも広がっていった。 人権課題を真正面に据えた地域全体での取り組みが、学校の人権教育の推進に及ぼす影響は計り知れない。多くの地域で、人権教育の推進が学校の中での取り組みに終わることなく、学校、家庭を巻き込んだ多文化共生の地域づくりがすすめられることによって、渡日生とその保護者をはじめとするマイノリティの人々と地域のまわりの人々との関係が、“人権と共生”の方向に向かって深まっていくのである。 2 渡日生教育に対する行政の支援 文部科学省は、2001年度から「帰国・外国人児童生徒と共に進める教育の国際化推進地域事業」を始めた。かつての「適応指導」の観点に加え、より通いやすい環境を整えて教育の機会を提供していくこと、それを通じて日本の子どもたちの国際理解に生かしていくことの両方が必要であるという見解を示し、保護者や関係者の協力を得て地域ぐるみで支援体制をとることの必要性を示唆した。体制としては、指定を受けた地域の教育委員会が「教育国際化推進連絡協議会」を設置し、教育委員会担当者や学校関係者、研究者、関係担当者、ボランティアなどと共に事業を推進していくという姿勢である。 以下では、この事業の指定を2001年度に受けたT市国際交流協会の活動を紹介するとともに、改めてM市の渡日生教育の特徴を見ていきたい。 <1> T市の取り組みの特徴 財団法人T国際交流協会は、T市国際交流委員会の提言「T市の目指す国際交流」(1991)の具体施策として、「理念」「予算」「拠点」「プロパー」を備えて1993年10月設立された国際交流を目的とした施設である。設立以来、「人権尊重・市民参加・多文化共生」をキーワードにした国際交流活動を推進することによる「地域づくり」を目的として取り組んできた。 協会が最初に出会ったのは渡日の子どもたち(T市の渡日の子どもは、同じく中国からの子どもが多いが、残留孤児二世・三世に当たる子どもが比較的少ない)であった。そして、この出会いをきっかけに、彼らの教育課題に対応するため、多くのボランティアの協力のもとに主催事業「子どもメイト」を立ち上げた。しかし、まもなく対策的に事業を展開していく初期の姿勢にボランティアなどの参加者から疑問の声が上がるようになった。そこから、「渡日の子どもに現われる、教育の課題を関係者とどのように共有するか」「私たちボランティアが必要とされなくなるような『発展的解散』を果たすためにどのようなシステムが必要なのか」「『今、見えているニーズ』への対応だけではなく、中長期的にどのような教育目標を持つべきか」という問題提起がされた。それに基づいてT市教育委員会、T市在日外国人教育推進委員会、T市人権文化部文化国際課、T市国際交流協会からなる「四者懇」(現多文化教育推進委員会)が立ち上げられた。 四者懇は、渡日の子どもをめぐる学校と行政の情報交換から出発したわけであるが、まもなく、それはボランティアや地域関係者も含んだ情報交換、ワークショップの場として機能するようになり、渡日の子どもの存在を通じて地域の課題に「気づく」ことが重視されるようになった。そこから「渡日児童生徒相談室」という新たな教育システムが築き挙げられたのである。1998年4月から、M小学校の教室を活用し、専任の相談員を配置し、学校への受け入れに関する相談や通訳の派遣、日本語指導、学校・保護者・児童生徒向けの相談、関係機関との連携などの活動をつづけている。 「四者懇」から生まれたネットワークは、1998年中国大洪水の募金活動や、2000年1月からの「すべての子どもの発達および教育を受ける権利を守るためのネットワーク」事業の展開に大きく寄与した。事業がスムーズに展開されているのは、「四者懇」のなかの二つの公的機関からの支援が得られているからであって、もしこうした公的機関の協力がなければ全国規模まで事業を展開することはまず不可能であったであろう。 T市国際交流協会は、行政からの強い支援を受けつつ、ボランティアたちが、主体的に、地域の課題に対応した具体的な「作業」を展開しつつ、対話をつづけることを通じて社会にリアクションしていこうという役割意識を鮮明に持っていることが、その活動の特徴としてあげられる。 <2> M市の渡日生教育の特徴 M市N中校区は、渡日生の教育に取り組む中で、学校の組織体制を整えることから始まり、学校と家庭と地域との連携を意識しながら、地域に根ざした国際理解教育の推進を図ってきた。当初から渡日生と日本の子どもたち両方のためになる国際理解教育をめざしてきたのである。 文科省から研究校指定を受けるまでは、あき時間を見つけては教師たちが渡日生を教えていた。指定を受けてからは(現在は、大阪府から指定を受けている)加配教員1名が日本語教室を担当している。同和教育や民族教育の実践の経験を受け継いで、渡日生の教育に関わってきた教師たちは子どもたちに寄りそい、彼らを共感的に理解するとともに、彼らに希望と展望を与えてきた。渡日生と一緒に日本語の勉強をしたり、仲間づくりや教科の勉強に取り組むとともに、渡日生が自分のルーツを正しく理解しアイデンティティを確立するためのさまざまな活動にも取り組んできた。また、子どもたちが安心して勉強に励むために、彼らにかわって保護者に付き添って市役所、病院、面接、就職先などに出向くことも少なくなかった(普通は、親より先に日本語をマスターした子どもが、親の通訳としてそうした場所に付き添うことが多いのである)。地域を共生的な環境にするために、教師たちは地域の活動にも懸命に関わった。さまざまな場面で、時には頑張りすぎではないかと思わせるほどの教師たちの姿が見られた。 これらの教師を支えるために、そして、渡日生の教育を支援するために行政も様々な手だてを講じている。M市では、現在、H小、E小、N中に加配教員が担当する日本語教室が開設されているが、その他の学校にも渡日生が少数点在している。その場合は、M市から通訳が週に一回派遣されている。他の市と比べると、特に渡日児童・生徒が集中している学校に対して多くの通訳(留学生や、在日外国人や、中国語のできる日本人)を派遣し、できる限りの厚い支援をしていると言ってよいであろう。 大阪府内の外国人児童・生徒が集中している各市は、子どもの国際交流の場を設けているが、M市でも年1回、国際交流サマーキャンプを行っている。そしてM市は、渡日児童・生徒全員が無料で参加できるように予算措置を講じている。国際交流サマーキャンプは、ただキャンプを楽しむだけではない。それは、市外教(M市多文化共生教育をすすめる教職員のネットワーク組織)と市教育委員会が協力して作り上げたプログラム(主に小、中1・2、中3の三つの部に分けて、渡日生の先輩たちの話を聞く活動)に参加することを通じて、渡日生が友達(日本人児童・生徒)との交友を深めたり、自分と同じような立場である先輩たちに出会い、勇気づけられたり、アドバイスをもらったり、また、友達が背負っているものを理解したりするための場なのである。 3 今後の課題 ― 総合的な行政支援の重要性 ― 以上のように、M市の渡日生教育は、どちらかというと学校が主導するかたちで、特に学校の中の熱心な教師が中心となって、進められてきたと言ってよい。一方、T市の渡日生教育では、国際交流協会の活動が中心となっており、教師よりむしろ公的機関のスタッフやボランティアの姿がめだつ。特に、それらの活動に対する行政の強力やバックアップが印象的である。 しかし、これはあれかこれかといった二者択一的なものではなく、渡日生や保護者のエンパワメントのためには、全市的な行政支援と学校の教員によるきめ細かな支援の両方が不可欠であることはいうまでもない。 例えば、教育現場に即した事例になるが、教師たちは日本語教室を担当する前あるいは担当期間中に、日本語教育に関する系統的な研修を受けることはあまりない。さらに日本語教室の担当として、渡日生の言語学習、教科学習(渡日生それぞれの課題が必ずしも同じではない)や、さまざまな取り組みに多くの時間を費やさなければならない。もちろん文部科学省の研修のほかに、大阪府外教や各市外教の研修があるし、前任の教師からの経験談や助言も得られるが、けっして系統的なものとは言えない。したがって、渡日生を支えている日本語教室の担当体制には、十分な人員配置が考えられるべきである。 また、日本語指導協力員・派遣通訳の採用基準や仕事の範囲などを制度的に整理することも、今後の大切な課題である。教師のパートナーとなって渡日生や保護者のエンパワーを可能にする通訳・指導協力員が、どんな資質を持っているかは極めて重要であるからである。 他方、仮にこのように条件を整備していっても、学校現場でM市のような「地域に根ざした国際理解教育」を進めていこうとする教員の存在が弱ければ、その効果はあまり期待できないことは言うまでもないことである。 教員や渡日生保護者、関係者の協力を得て地域ぐるみで、地域に根ざした国際理解教育 を推進していくことが求められているが、それを学校や地域だけにまかせるのではなく、制度的支援、人的支援、場の提供など総合的な支援が行政には求められているのである。 繰り返しになるが、多くの渡日生が在籍している学校は、学校の課題を通して、地域の課題を発見し、それに対応した取り組みを行っている。そして学校はその情報を学校内にとどめず、行政や地域とそれを共有し、現状の何かを変えるきっかけにしなければならない。子どもの問題や教育に関する学校、地域、家庭、行政の協働が、よりよい学校、よりよい地域、よりよい制度の探求、大きく言えば社会に変革をもたらすためのきっかけになるべきではないだろうか。 |
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注
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<参考文献>
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