調査研究

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2003.09.09
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維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2003年6月21日
維新変革期における摂州能勢郡下田村(その1)
〜明治4年『約定取締一札之事』再考

(報告)吉村智博(大阪人権博物館)

 北摂地域の部落史研究は、主として吹田・茨木・高槻周辺に研究が集中しており、全体としては相対的に遅れているといわざるを得ない。その背景の一つとして、これまでの部落史研究では、都市部落・農村部落に比して山村部落への関心が低かったことも挙げられよう。そのため本報告では、明治4年、摂津能勢郡下田村にて斃牛馬処理の否定などを申し合わせた「約定取締一札之事」の分析を中心に、当該村の村内構造や維新変革期における変化の様相に迫ってみたい。

 この明治4年の「約定」については近代部落史の重用史料としての関心から、これまでも種々の史料集などで紹介されており、また研究史上でも賤視されていた職業の放棄として評価されてきた。まずは「約定」の詳細を確認しておこう。下田村では同年6月、兵庫県に対して自らの「平民」としての由緒来歴を主張し、大阪府と同様の取り扱いを出願しているが、このような意識は「約定」の背景として注目されよう。そして所謂「斃牛馬勝手処理令」布達の約半年後である10月28日、斃牛馬処理・皮革類売買等の放棄を定めた「約定」を村内において申し合わせた。この前日には下田村と、能勢郡と川辺郡の非かわた村3村との間に同様の「約定」が申し合わされており、同「約定」がかわた村と非かわた村間において交わされた村落間約定であったことがわかる。しかしこの「約定」後にも博労鑑札の継承や申請は行われており、博労については斃牛馬処理とは別の論理が存在したことを窺わせる。

 下田村においてこの「約定」に連署捺印したのは、約6割の住人であった。下田村では二人庄屋制とみられる制度が導入されており、化政期から庄屋間対立の構造を有していた。幕末期における村内勢力は甚之丞方と逸平方とに二分されていたが、「約定」への連署は甚之丞方のみが行っており、この「約定」が甚之丞方の主導によるものであったことがわかる。

 この後、「約定」に基づき斃牛馬処理・皮革業が放棄され、収益の大きかった博労も「約定」によって新たに再編されたが、これによって村内勢力の結束を図り、村内外での主導権を確立することが可能となったのではないだろうか。また、村落間の相互協約の形をとったことも、独立村の主体性を確保し、村組内での行政的地位を確立した、という視点から再評価することができよう。

 従ってこの「約定」は、斃牛馬処理・皮革業等の放棄による賤視の否定を狙うと同時に、相互協約の実践と村内勢力の結束によって、近代的行政村としての位置づけを明確に打ち出そうとする意図に基づいたものであった、とみることができるのではないだろうか。

(文責・事務局)