明治初期におけると畜業の成立については、猪飼隆明によって「近代の屠畜業は、その成立期から被差別部落固有の産業として賤業視されるものではなく、被差別部落が近代において再定置される過程で、新たに両者の結合が生まれ、やがてと畜業自身も賤業視されるようになった」(「近代屠畜業の展開と被差別部落」『部落問題研究』160、2002)との問題提起がなされている。
しかし、猪飼のいう部落の再定置とと畜業との結合の過程が、個別の事例に即して実態的に明らかにされておらず、この点については、近世/近代移行期研究の課題であるといえよう。そこで本報告では、神戸新川地区をフィールドに、同地区の形成に関わる当該期のと畜業の動向を解明し、上記の点について考えていきたい。なお、神戸におけると畜業については、日本人によると畜業に先立って成立した居留外国人によると畜場経営の実態、あるいは外国人・日本人両者のと畜場の細かい変遷やその背景といった点については十分に解明されていないのが現状である。
まず、居留外国人によると畜業の実態について見ていこう。外国人によると畜は、神戸開港当初、外国船員の食料として牛肉の供給が求められたことを嚆矢とする。1868年には英国人キルビーによって最初のと畜場が設置されているが、これは、近隣からの苦情により間もなく廃業し、市内中心分を離れた位置に再設置されている。また、外国人によると畜場は、居留地外での営業が許可されており、その成立当初から「人家を離れた場所」に設置するべきである、という認識が形成されていたことがわかる。
この外国人経営のと畜場で行われたと畜方法を「神戸肉仕立て」といい、後の「神戸肉」ブランドを支えると畜方法に大きな影響を与えた。これは同時に、と畜プロセスに影響を与えるほどに、外国人による肉の需要が重要視されたことも意味しよう。従って、神戸におけると畜業には、当初から外国人が大きく関与しており、近世期からの伝統的な生牛のと畜技術(斃牛馬解体技術とは別)との連続性は相対的に希薄であったといえよう。
次に、日本人が経営すると畜場の変遷についてみていこう。開港当初、先述した外国人によると畜だけでは増大する需要に供給が追いつかず、宇治野村風呂ヶ谷の「えた」がと畜に動員されている。これは、生牛のと畜も「えた」の役分として、斃牛馬処理の延長に解釈されたためであろう。これ以後、「えた」身分の者がと畜業に関わることとなるが、斃牛馬の解体・皮革業に従事していた「えた」身分の者が、技術的な蓄積を生かし、外国人を中心として新たに勃興した産業であると畜業に参入したものとみることができよう。
日本人経営のと畜場は、この後何度かの移転を経て、外国人経営のと畜場と同様に、「人家を離れた場所」、すなわち後の新川地区に相当する位置に集中的に設置されている。この移転の背景には、当時流行していた牛疫が、近代的な衛生思想に与えた影響も大きいだろう。
以上みてきたように、神戸においては、と畜業自体は外国人を中心に確立された新たな産業でありながら、「えた」身分の者が前近代からの技術的な蓄積を生かして新規産業に参入した、とみることができよう。また、牛疫の流行に見られるような近代的衛生思想の普及は、と畜・食肉業が「えた」身分の者への差別意識と結合し、新たな賤視を形成する契機となったのではないだろうか。