本報告では、被差別部落外の人々が部落をどのように見ていたのか、どのような認識に基づいて如何に行動したのかという点について、主として大阪府内で発行されていた、明治初期の新聞における部落に関する報道を素材として検討したい。
新聞を史料としてとりあげるのは、1871(明治4)年のいわゆる「解放令」の背景に、同年頃から活発となる一連の文明開化的政策の影響をみるためでもある。このような視点から、「解放令」がもたらした文化的な変容を、教育なども含めて考察したい。また、近代以降の部落問題については従来、排除、すなわち差別的な側面が強調されてきたが、「解放令」は身分制・身分差別に基づく隔離を概念上は否定しており、包摂的な側面も持ったのではないだろうか。従って、新聞における当該期の社会問題や諸関係の報じられ方から、「解放令」による包摂と排除の側面についてもみていく必要があるのではないだろうか。
まず「解放令」の背景としての文明開化的政策についてみていこう。解放令の直前には廃藩置県が行われているが、これは単なる制度の改革にとどまらず、明治政府の基盤を形成するものだった。これによって基礎を得た明治政府は、以後、専制的啓蒙、すなわち上からの改革に着手していく。これらは伝統的生活様式の破壊という側面を持ったが、時に反発し、時に同調しながら、当時の民衆意識・社会的習俗は、全体として一定の方向に定型化していったと考えられる。
当該期の新聞は官による買い取りや購読の奨励が行われるなど、半官製的な性格を強く有しており、文明開化の窓口としての機能を負わされていたとみることができる。従って、明治初期の新聞は政府の開化政策の浸透を担っていたが、他方、政府は民衆の意識を巧みに汲み取っており、新聞には当時の民衆意識も何らかの形で反映されていたということが可能であろう。
では具体的に当該期の新聞における包摂と排除の側面についてみていこう。まず包摂的な側面であるが、大阪府や堺県では「解放令」の諭告によって盛んに「旧弊」の一新と、平民としての「同等」が強調されていた。諭告が出されたことは、「解放令」が政府にとっても大衆にとっても「説明」を要するものだったということを意味していよう。また、官による「同等」の奨励・称揚が幾度も行われており、これらは「新平民」による教育熱の高まりや、兵役への貢献といった形で報道されていた。
一方、排除のあり方は、隔離・忌避・排斥の3つに大別することが可能だろう。隔離の事例は、町村合併や「新平民」という語そのものにおいてみることができる。居住、出店、営業などに関わる事例においては、忌避による排除が確認できる。また、学校への入学、寺院間の争い、戸長選挙をめぐる差別の事例は、排斥をともなうものであったといえよう。
以上、明治初期の新聞における部落の報じられ方についてみてきた。ここにみられる、「解放令」による包摂・融和的な側面は、不完全なまま、この後本格化していく国民化の課題として引き継がれていくといえよう。