神戸における被差別部落の近世-近代移行期に関する研究は、落合重信『神戸の未解放部落』(神戸部落史研究会、1968年)以後、ほとんど成果があがっていない。当該期の神戸(兵庫)については、近世以来のかわた村である糸木(番町)、風呂谷(宇治野・宇治川)の他、明治以降のと畜場移転と関わって形成されたと考えられる新川(生田川)などがあり、移行期研究における重要な論点を含みながらも、十分な研究の進展をみていないのが現状である。今、改めて近世-近代移行期を検討する場合、神戸開港を基点として、1890年代後半以降「貧民部落」と認識・位置づけられる町・村々の、近代以降の歴史を可能な限り詳細に追求し、同時に、それと並行する形で当該期における被差別部落の変化が問われなければならないだろう。そうすることで、開港地神戸の部落問題をより鮮明にすることができるのではないだろうか。
ではまず、近世期における神戸(兵庫)のかわた村等の実態と役負担のあり方について確認しておこう。中世以来の港町である兵庫津周辺には、先述したように糸木・風呂谷という二つのかわた村が存在した。両村は旦那場を上・下に区分して斃牛馬の処理にあたっており、兵庫津内での変死・行き倒れ人の処理も同様の区分で行っていた。また、同時に農業にも従事しており、生田神社(風呂谷)や長田神社(糸木)の祭礼にも関わっていた。なお、当該地域にはこれ以外に夙村、長吏、出狂遣、非地里(聖)などの「賤民」が存在し、これらのうち、夙村は神社祭礼に関わったほか、兵庫津の市中警護、科人逮捕、牛馬の飼育などに携わっていたようである。
次に、幕末から明治初期にかけての人口動態について、風呂谷の事例からみていこう。風呂谷を含む宇治野村は、宇治野・浜宇治野・風呂谷の三村より成るが、1871(明治4)年の兵庫県戸籍編成法に基づいて作成された『八部郡宇治野村帳尻・穢多戸籍』によると、このうち下職渡世や下駄直し・雪駄直し・太鼓屋・三味線屋といった職業が風呂谷に集中していた。また、皮革商・牛博労・牛肉売・花屋といった職業が多いのも特色である。なかでも、下職者の数は130名と群を抜いているが、うち51名が他国出身者であった。来住者の出身地は、近接する摂津・播磨両国の他、河内・和泉・山城・紀伊など、畿内各地にわたっているが、なかでも特徴的なのは、下職関係者130名の15.4%に相当する20名が摂津渡辺村との関係を有している点であろう。これは、婚姻・姻戚関係によるものと考えられるが、さらに、姻戚関係を頼った厄介人の流入を想定することもできよう。
当該期における役負担の変容については、「解放令」前後の市中取り締まり・下級行刑役再編成のあり方を事例に検討したい。1868(慶応4)年、兵庫裁判所に建議された治安維持方策では、警察・消防といった機能を負う要員として、旧幕府当時の長吏下小頭の起用が提起されている。以後、市中回方として糸木の「皮多」が動員され、最末端での警察的活動を担っていたと考えられるが、やがて近代的警察制度の確立と、その権威づけの過程において「賤民」の排除がなされた。また、消防役については旧慣が維持され、県庁・運上所に特設消防を新設したほかは、風呂谷および糸木の「穢多人足」をこれにあてるという状態が継続された。
以上、風呂谷・糸木など、兵庫津との関係の深い、近世以来の部落の実態と変容についてみてきたが、最後に、開港以降急激に発展した神戸方面の部落・下層社会について簡単に確認しておきたい。幕末以来、干鰯交易の衰退などにより兵庫の市場支配力が弱まり、一方、神戸港周辺では、開港と身分制の崩壊、インフラの整備に伴って大量の無産者の流入という事態が起こっていた。当該地域ではこれに対応する形で、日稼人足会所、二百軒長屋といった施設が相次いで設立され、また、1880年代後半には「長屋裏屋建築取締規則」「宿屋営業取締規則」といった法令によるスラム規制が度々なされている。布川弘は、条約改正を契機とした、1890年代後半以後の大規模なスラム形成を重視するが、1880年代後半には、その第一段階ともいえる貧民問題への対応があったといえよう。
以上、近世-近代移行期における神戸(兵庫)の部落・下層社会の実態と、その変容のあり方を具体的に検討してきた。未だ不明確な点が多々あるが、今後、これらの実態をふまえた論点の深化が待たれるところである。
(文責・事務局)