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2004.07.28
部会・研究会活動 < 維新の変革と部落(移行期研究)>
 
維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2004年5月29日
近世・近代大和における諸賤民の動向

吉田栄治郎(奈良県立同和問題関係史料センター)

  日本社会の周縁性と多元的アイデンティティをテーマに研究するアンヌ・ブッシイは、社会の周縁に属する領域的集団の個人的集団的アイデンティティ形成過程に注目し、<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>を析出しており、その戦略を<周縁からの脱出を目的>とする場合と<周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせることを目的>とする場合とに分類しながら、それぞれが<一定の時代と集団における支配的社会戦略に対する回答>として用意される、と把握している。

  本報告では、このアイデンティティ形成論を参考に、以下の課題について明らかにしていく。すなわち、(1)近世後期被差別民集団がいかなる現実(この場合は被差別)に直面していたのか、(2)その現実に対し、諸集団がいかなる戦略(例えばアイデンティティ形成の)を採用したのか、という2点に加え、歴史的には諸集団の戦略の一切がおそらく無効だったとすれば、今後への見通しとして、(3)<戦略的に用意されるべきオルタナティブな「関係」>はいかなるものでありうるのか、という点についても言及したい。

  なお、これは「集団」(集団の論理を共有する集団内の人々の位相)・「関係」(異なる論理が交錯して実体的に形成されている社会関係の位相)・「空間」(それらの外部にそれらを取り巻く外的世界一般、世相や社会状況の位相)を提示する「身分的周縁」論への関心を持ちつつの作業である。本報告では、以上の課題を踏まえ、近世の大和に確認できる被差別民である夙・隠亡・万歳・神子の四集団についての分析を試みたい。

  日常的な賤視、特に縁組における被差別の現実に直面していた夙は、それらに対して五條家への入門と土師部由緒という来歴を獲得することで「出雲国土師氏之後裔ニして家図正敷村柄」「怪敷村方より縁組者勿論附合等ハ決而致間敷」といったアイデンティティを形成している。しかし、これらによって何らかの特権を獲得することはなく、従って、<周縁からの脱出を目的>に<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>が採用されたといえよう。

  物貰い等、中世的関係を色濃く残していた隠亡は、行基由緒というアイデンティティを形成することで、東大寺龍松院への帰属・末寺化を獲得しており、<周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせることを目的>に<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>を採用していた。奉公や縁組から日常に至るまで差別的な関係に置かれていた神子の集団においては、<周縁からの脱出を目的>と<周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせることを目的>との対立・葛藤が起こっており、前者は<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>を放棄し、後者は土御門家への入門という形で同戦略を採用している。

  前者は一部の者であり、全体としては<周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせることを目的>に<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>を採用したといえよう。万歳は「散所ノ乞食法師」等と差別を受けていたが、白河神道家へ入門することで諸国往来の自由等の特権を獲得しており、また彦火々出見尊あるいは火闌降命末裔伝承を語り出すなど、<周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせることを目的>に<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>を採用している。

  このように、それぞれの被差別民集団が各々の戦略を選択しているが、維新変革期に至って<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>を担保する制度が解体する中で新たな現実に直面することとなる。当該期において、本所関係等、同戦略の基盤が消失すると、<周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせることを目的>とした隠亡・神子・万歳の諸集団は、<他者性の初源にあった性格・要素>を手放し、ひとまず周縁性から離脱するが、<一定の時代と集団における支配的社会戦略に対する回答>を改めて創り出せなかったため、現実そのものは完全には払拭されなかった。

  また、<周縁からの脱出を目的>とした夙は、<他者性の初源にあった性格・要素>を放棄することなく改めてそれを<一定の時代と集団における支配的社会戦略に対する回答>として用意した。しかし、<他者性の初源にあった性格・要素>とそれにかわる物語が再生産され続け、そのもとでの現実に直面し続けたといえよう。

  最後に穢多の場合をみておこう。厳しい差別の現実に直面していた穢多は、河原巻物の作成や一国仲間集団の結成等、<周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせることを目的>に<他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略>を採用したものの、共同体との軋轢を生む「特権」(草場権)であったためか、近世の早い段階から同戦略を放棄せざるを得なかったのではないだろうか。

  従って、<一定の時代と集団における支配的社会戦略に対する回答>がアイデンティティ形成戦略としては用意できなかったことが、近世中期以降の賤視の深化をもたらしたといえるのではなかろうか。維新変革期においても、同戦略の基盤は消失しつつも、周縁性からの退出はできなかったとみるべきだろう。

  以上、近世大和の被差別民集団を事例に、アイデンティティの形成過程を検討した。今後の課題としては、「身分的周縁」論の提示する「集団」「関係」「空間」を析出する精密な作業に加え、被差別部落の<一定の時代と集団における支配的社会戦略に対する回答>が可能かどうかを議論することが必要であるといえよう。(文責事務局)