幕末維新期において被差別民解放論とも言い得るような言説が多くみられたことは周知のところであるが、「解放令」との思想的な関連性や議論の性質等、その詳細についての十分な検討がなされてきたとは言えないのが現状であろう。そこで本報告では、幕末期の解放論および維新後の公議所における解放論を踏まえて「解放令」へのプロセスを検証し、さらに地域社会の意識状況や「解放令」への対応のあり方についても考えてみたい。
幕末期の被差別民解放論は、「制度的賤民」とも言い得る「穢多」を対象としたものがほとんどである。これは「穢多」という職能が占めた社会的比重と、村落共同体の支配、職能と不可分であった穢れ意識等々に基づいた厳格な身分的障壁が意識されたためであろうが、反面、「情念的賤民」とも言い得るような多様な諸賤民はその対象とならず、由緒書等による自己の存在証明と権益の主張にとどまっていた。
では具体的に当該期の解放論についてみていこう。大塩中斎(平八郎)は陽明思想に基づいて格物致知を追求し、「天地万物一体之仁」を主張しているが、これは儒教的・陽明学的平等観に裏打ちされた思想とみることができる。大塩の乱の際に渡辺村の「穢多」の動員が計画されたことはよく知られているが、これを「被差別の立場を利用したもの」という一面的評価にとどめず、このような解放論の視点から再検討してみることも必要であろう。また、千秋藤篤・帆足万里らも儒教的平等観に基づいた解放論を出張しており、当該期における解放論的言説が儒教的素養に基づいた理性的次元において解放の必要性を肯定するという基調を有していたことが指摘できよう。この他、当該期には政略的身分解放論や洋学的四民平等観に基づいた解放論等もみられる。
これに対して、維新後における公議所の議論は一君万民論をその基調としているところに特徴がある。これについては、初めて公議所という「公」の場において被差別民についての議論がなされたことの歴史的な意味も考慮しなければならないだろう。また、当該期にはこの他、大江卓による賤称廃止の建白書をはじめ、帆足竜吉や内山総助、加藤弘之等、多様な解放論が主張されている。これらは蝦夷地開発に向けた職業集団化を目的としたもの、人外の処遇は天理に背くという天賦人権説に立脚したもの、産業奨励と勧業資金の貸し与え策を提案するもの等々がある。
「解放令」についてはこれまで、小林茂・上杉聰・桐村彰郎らによってその発布に至るプロセスが検討されているが、以上にみてきたような幕末以来の理性的解放論と公議所における一君万民論的解放論、さらには加藤・大江らによる解放への促進論議の潮流は、その直接的な影響のみを評価の対象とするのではなく、思想的な流れや議論の変遷、性質等を踏まえて再検討してみる必要があるといえよう。
最後に、このような被差別民解放論と「解放令」を踏まえた地域社会の動向・社会意識についてみておきたい。比較的下級な士族知識人の間においては、幕藩体制を身分的・門閥的階層社会と捉え、天皇制に基づく一君万民論に立脚しながら脱身分・門閥社会を目指す意識が形成されており、この過程において賤民制も意識の上では否定へと向かった。被差別民の側からは、墓地の公有化に対し、先祖の墳墓を守る聖としての職能を継承しようとした三昧聖、近代的所有権の立場から既得権益を喪失するなか、穢意識秩序に抗して斃牛馬処理を放棄したかわた等、多様な対応がみられた。これらの被差別民は、村落共同体秩序、神道思想に基づく清浄化観念、戸籍制度と婚姻関係に裏打ちされた家柄格式秩序と血筋意識といった異化の構造の中でそれぞれの対応を示したが、さらなる近代化の過程において、それぞれの条件下で一部は共存・解消へと至り、また一部は対立・差別によって再度の閉塞状況へと向かったとみることができよう。