「釜ヶ崎」形成史の研究はこれまで、近代における都市計画事業の作為性が重視されたため、近世-近代移行期についての本格的な研究はほとんどなされていない。しかし後述するように、当該地域は、非人村や鳶田墓所、刑場等、近世における被差別身分の集住地域と密接に関連しており、それこそが「釜ヶ崎」の歴史的な固有性、或いは近代以降の都市計画の作為性の前提でもある。本報告では、従来の研究にみられるように近世期との関係を捨象することなく、近世-近代移行期の「釜ヶ崎」形成史を検討し、都市下層社会史との接合を試みたい。
まず、当該地域における非人村について考察したい。鳶田垣内をはじめとする四箇所垣内については、内田九州男他の研究によって、その来歴・組織・公役・収入・旦那町(得意町)等がかなりの程度明らかにされている。なお、旦那町の中に長町が含まれている点は、その関係の詳細は明らかではないものの、注目に値しよう。この四箇所垣内は、長吏の非人小屋頭-四箇所年寄りへの改称、四箇所への施物支給方法の改訂、さらに「統一戸籍法」の制定および「賤民廃止令」公布を経て、1871(明治4)年10月には四箇所・定抱の廃止、1872(明治5)年4月には四箇所入用・取締入費等の廃止に至るという解体過程を辿っている。
また、1871(明治4)年1月には木賃宿稼人宿営業規則によって無鑑札の非人の止宿が禁止され、1872(明治5)年4月には非人・乞食・辻芸・門芝居等の取り締まりがなされるなど、同時期に新たな流入非人への規制が行われている。鳶田垣内の最終的な処遇については必ずしも明らかではないが、天満垣内では1872(明治5)年11月に「非人屋敷」が入札によって民間に払い下げられており、ここに至って、非人村は法的にもクリアランスされたことを示している。
なお、当該地域の鳶田墓所および隠坊居住地についても、地籍図等から、民間に買収されていたことがわかる。また、刑場は整理・移転、あるいは廃止され、大阪七墓近接の火葬場も統合の上移転されて、跡地の一部は売却されている。
このような過程を経て当該地域は、1889(明治22)年の町村制施行時には、近世社会の都市機能から切り離された荒地の様相を呈していたと考えられる。同地域は町村合併によって今宮村に包摂され、今宮村の小字としての釜ヶ崎へと位置づけられるが、同村は大阪鉄道の切通式築堤によって南北に分断され、同一行政村内でありながら、釜ヶ崎・鳶田は北側の今宮本村とは分離された形となっていた。また1897(明治30)年の大阪市の市域拡張がなされた時には、この築堤によって市域と郡部が分離されており、釜ヶ崎・鳶田地域は元今宮という扱いを受けることとなった。
以上にみてきたように、近世身分制のもとでの四箇所支配が解体されたことにより、新たな地域社会が形成され、この地域社会を前提とした「市区改正」によって、元今宮等の地域が創出された。これによって同地域は、市域に接続する郡部という役割を担わされることとなった。近代行政村として組み入れられながら実質的には隔絶していたという状態は、木賃宿の進出を促し、新たな労働力吸収の条件を整備したといえる。
従って、維新期における鳶田垣内の解体とその歴史性に規定された地域社会が「釜ヶ崎」創出の歴史的な起点となったのであり、従来の研究で述べられてきた、1898(明治31)年の宿屋営業取締規則や1905(明治38)年の内国勧業博覧会等は、地域形成過程における一つの契機ではあっても、要因であったとは言い切れない。維新変革期の身分的、地域的な再編過程こそが、「釜ヶ崎」形成史を大きく規定しているといえよう。
(本郷 浩二)