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2005.04.05
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維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2004年11月20日
明治初年における斃牛馬処理制とと畜業
-兵庫の事例から

(報告) 本郷 浩二(維新の変革と部落研究会)

  近世/近代移行期のと畜業成立過程における斃牛馬処理制との連続的/非連続的諸関係の具体的な解明は、その重要性が指摘されつつも、未だ充分な実証的研究がなされていないのが現状であろう。明治以降の斃牛馬処理については藤井寿一、井岡康時によって、と畜場に付随する斃牛馬処理の在り方や、部落の斃牛馬処理制からの離脱と衛生行政による新たなシステムの構築といった視点から検討がなされているが、いずれもと畜・食肉との直接的な関わりについては分析されていない。そこで本報告では、兵庫県内の事例を中心に、解体に向かう斃牛馬処理制と、勃興すると畜業への部落側の対応について検討を試みたい。

  まず、部落側の所謂「斃牛馬勝手処理令」への対応についてみていこう。当該期、いくつかの部落では「斃牛馬勝手処理令」を受けて、「牛馬取捌」や「不浄業」に携わらない旨を謳った「賤業」拒否の約定がなされており、兵庫県内では宍粟郡、加西郡、明石郡、加東郡、多可郡などの事例が明らかとなっている。「勝手処理令」は、斃牛馬をかわた身分の者へ譲渡する慣行を否定したものであり、かわたが斃牛馬の処理を行うこと自体が禁止・否定されたわけではないが、これらの事例はいずれの場合も、「勝手処理令」あるいは「解放令」を受けて、その趣意を尊重するために「賤業」拒否を約定するというロジックが採用されている。これらの村々の中には、明治15年、あるいは明治35年に至って再度「賤業」拒否の約定が交わされた所もあり、「賤業」拒否による身分上昇の願いの強さと、他方、約定が不徹底なものとならざるを得なかった現実の困難さが窺えよう。

  「勝手処理令」への対応としては、この他、一村単独のもの以外に、能勢・川辺郡や朝来郡でみられるように、数ヶ村で交わされた「賤業」拒否の約定や、具体的な約定の有無は不明ながら、行政に対して「死牛剥致候者一切無御座候」という形で報告した事例などがある。また、約定の違反者に対しては、詫状を発行させる等の処置がなされているが、違反者が現れる背景としては、特権喪失による生活の困窮や、当該期における牛疫の流行による、大量の斃牛馬処理の必要性と、それに伴う利益の拡大を挙げることができよう。

  次に、上にみたような「賤業」拒否に対し、積極的にと畜・食肉業へと進出した部落の事例についても検討したい。印南郡では、明治6年、前年より申請していたと牛の鑑札が下付され、同年中には牛荒骨の取り扱いについても申請が出されるなど、と畜・食肉業への積極的な進出がみられる。同時期に雨乞いの際の火分けを拒否されるなど、同地では部落に対する差別や忌避が少なかったわけではないが、にも関わらずと畜・食肉が選択された背景には、同地における近世期からの食肉の習慣や、生牛と畜の歴史が指摘できよう。

  また、船員の食料として牛肉供給が求められた神戸では、外国人によって最初のと畜場が設けられるなど、と畜業成立やと畜プロセスに当初から外国人が大きく関与し、近世期との連続性が相対的に希薄であった。このと畜業には、当初外国人の要求に応じる形で、神戸市内の「穢多」が動員されていたが、「勝手処理令」と同時期、事業としてのと畜業の確立に関与するようになる。これは、斃牛馬の解体や皮革業に従事していた「穢多」身分の者が、その技術的な蓄積を生かし、外国人を中心に新たに勃興した産業であると畜業に積極的に参入したものとみることができよう。ただし、と畜・食肉に関わる利権から「穢多」を排除しつつ、技術的な部分でのみ動員された可能性も否定できず、より慎重な実態分析が求められるといえよう。

  以上にみたように、当該期においては、斃牛馬処理制の解体に伴う「賤業」拒否の動向と、他方で、斃牛馬解体・皮革業の技術的な歴史・蓄積を生かした、新興産業への進出という事態が現出していた。斃牛馬・食肉をめぐる差別・忌避感は、一方で公然化した肉食を容認・受容しつつ、他方で、前者の動向にみられるように、と畜・解体そのものは差別・忌避の対象としてあり続けるという形で分化を遂げていったとみることができるのではないだろうか。

(文責・事務局)