近世において民衆の間で受容された西国三十三ヶ所巡拝は、江戸時代後半には巡礼札や巡礼歌が流行し、各地に善根宿・接待宿・通夜戸が設けられるなど、「信仰のリクリエーション化」とも言い得るような遊楽的なものへと変質したと考えられてきた。しかしながら、その漂泊性や、「他人の戸口に立って物を乞う」という乞食との親和性から、「袖乞巡礼」「非人巡礼」という用語が用いられ、後述するように巡礼中に行き倒れとなる事例も散見されるなど、その旅程は過酷であり、遊楽的に享受し得たのは一部の層にとどまるのではなかろうか。本報告では、このような袖乞巡礼・乞食の態様・実態が考察されるとともに、非人番による巡礼・乞食への対応から、その任務が解明され、さらに、維新後の巡礼・乞食の取締まり強化と非人番廃止に伴う変質についても検討された。
本報告では、河内国の最南端、和泉国と紀伊国に接する山間部の村である錦部郡滝畑村の事例が扱われた。西国三十三ヶ所の巡礼道に位置する同村は、狭山藩(231.56石)と膳所藩(63石)の相給(他に、70石余の荒地あり)であり、17世紀後半には家数86戸・人口519人、19世紀初頭で家数70戸であった。なお、現在はその村域のほとんどがダム建設によって水没している。
滝畑村の「御検使帳」から、幕末期における行き倒れの事例を見ると、1830(文政13)年から1862(文久2)年にかけて17人が行き倒れており、特に天保飢饉の期間に多くみられるのがわかる。その多くは「男坊主」であったが、「女坊主」の事例も2件確認できる。単身男性が多いが、単身女性、夫婦連れ、家族連れの場合もあったようである。その出身地は畿内のみならず、九州・駿河国・美濃国・備中国など広範囲にわたっており、年齢も20代から60代と幅広い。また、往来手形を所持していない者がほとんどで、巡礼の標識とされる白衣を着用していない者も多かったが、「さんや袋」と茶碗は所持していたようである。
「御検使帳」には、このような行き倒れの病人や死人への非人番の対応についても記録されている。病人の場合、非人番、あるいは「かいほう人足」が介抱を行っており、医者の診察や服薬もなされていた。死人の場合は、検使役人が検視の上、非人番、もしくは「煙亡」とも推測される「人足」が死骸の片付けにあたり、非人番には世話料も支給されていた。
個別の事例では、巡礼の姿をしながらも往来手形や納経禅衣を所持しないもの、「袖乞巡礼」でありながら「帳外無宿」のものなど、事実上、巡礼と乞食の判別は困難だった。しかしながら、非人番は巡礼・乞食とも、強制的な排除は行わず、行き倒れの世話をするなど、扶助的な役割を果たしていたことが確認された。
明治政府下では、このような巡礼・乞食と非人番の関係が変容する。明治初年、神仏分離令以後に廃仏毀釈の運動が起こり、加えて、脱籍無産者復籍規則、行旅病人取扱規則等によって政府・府県の巡礼・乞食取り締まりが強化された。これまで扶助的な役割も果たしてきた非人番が廃止されたことによって、巡礼・乞食の直接的な取り締まりは警察へと委ねられ、西国三十三ヶ所巡拝は、維新後の一時期、衰退へと向かったのである。