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2005.7.11
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維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2005年4月16日
神戸居留地と部落問題

報告:高木 伸夫(神戸史学会委員)

 神戸の外国人居留地をめぐる研究は、神戸外国人居留地研究会や『新修神戸市史』の成果をはじめとして、数多く存在するが、それらにおいて部落問題についての視点は希薄である。しかしながら、神戸開港を基点とする、居留地と部落問題との関わりの諸相は、後述するように、近世/近代移行期の研究において重要な論点を多数含んでいる。本報告では、未だ十分に研究が進展しているとは言いがたい、居留地・雑居地と部落問題との関わりが、神戸外国人居留地を巡る多様な事例の中で検討された。

 神戸外国人居留地は、本来の開港場に指定されていた兵庫町から東へ約3.5キロメートルの地に、整然と整備された西欧的都市空間として計画的に造成された。また、神戸全体についても、居留地を核として大まかな空間的分業を伴いながら、急速に市街地化が進んだ。明治10年代の神戸・兵庫間にはさほど人家が建て込んでいたわけではなかったが、明治20年代になると、兵庫と神戸が接続する形で市街地が形成されている。

 この居留地が、部落問題との関わりにおいて与えた最も大きな影響の一つがと畜と食肉だろう。開港当初、神戸では外国船の船員自らによって肉牛が調達・解体され、また外国人商人によると畜業も営まれていたが、それだけでは拡大する食肉需要に対応できなかった。居留外国人が外務局に窮状を訴えた際、と畜に動員されたのが居留地近郊にある宇治野村の枝郷風呂谷の「かわた」であった。1871(明治4)年には、この宇治野村によって構成されたと推測される宇治野組が兵庫県よりと畜を許可され、専属のと畜場設置に至っている。このと畜場において、実際にと畜に従事したのは旧「かわた」身分の者だったと推測される。旧「かわた」の者がと畜に従事する事例は、名古屋などでもみることができる。神戸のと畜業は、1879(明治12)年には、一日平均70〜80頭を解体するまでに成長した。また、神戸のと畜業と深く関わりながら形成された新川部落の檀那寺でも、と畜関連業種の者が檀家総代を務めているのが確認される。

 外国人利用に供する遊郭の造成も、居留地設置上の課題であった。遊郭の造成は1869(明治2)年に許可されたが、その際の出願人の一人である藤田泰蔵は、1870(明治3)年に外国人への畜類供給を目的とした諸鳥獣取締商会を起業している。藤田は長州藩との関係を密にしており、その関連で、初代兵庫県知事を務めた伊藤博文との関係が形成されていたと考えられる。

 伝染病予防等の衛生問題もまた、居留地との関わりにおいて重要な論点となる。特に、宇治野村住民は製茶場への出稼ぎとして居留外国人と接触する機会を有しており、1885(明治18)年の天然痘流行時には、兵庫県より居留地の領事に向けて、種痘未実施者の雇用を控えるよう通達している。

 居留地を巡っては、この他、外国人による別当の警備の要請や、居留地と近接する形で造成された監獄についてどのように考えるかといった事例・論点が未だ数多く残されている。本報告で挙げられた多様な論点の近代的な展開を詳細に検討し、同時に、それらと関わってもたらされる被差別部落の変化を追うことで、開港地神戸の部落問題がより鮮明に捉えられるのではないだろうか。

(文責:本郷浩二)