本報告では、明治初期の大和国(奈良県)の一被差別部落の動向と地域社会の関係の変容を分析し、当該期における地域の対部落観を解明することが目的とされた。ここで分析の対象とされたのは、大和国葛下郡上牧村枝郷東山村と、その周辺地域である。
上牧村は元和5(1619)年から明治4(1871)年まで大和郡山藩領であり、享保9(1724)年の「郷鑑」によると、村高801石8斗6升3合、新村・五軒屋・三軒屋・「穢東山」の各枝郷を有していた。明治22(1899)年の市町村制実施により、上牧村・下牧村・中筋出作方が合併し、上牧村が誕生すると、東山村は葛下郡上牧村大字上牧の一集落となった。延宝8(1680)年の上牧村年貢免定に72石8斗8升7合の皮多高が記載されているのが東山村の史料上の初見と考えられる。
同地には18世紀後半から農業以外に博労や大和川水運の積荷運送に携わる人々が増加しており、また、遅くとも幕末段階には履物の生産が始まっていた。その人口増加率をみると、享保9年の人口は146名であったのが、約140年後の慶応3(1867)年には731名、明治6(1873)年には146戸766名と、約5倍に増加している。このような人口増加は被差別部落に特徴的な傾向であり、東山村内での博労と草場株主との対立や、本村をはじめ周辺村との軋轢など、様々な矛盾が発生する要因となった。
東山村と周辺村との軋轢の一事例として、明治4(1871)年の神社祭礼一件が挙げられる。同年9月、本村の智照五社明神の祭礼において東山村住人らによる暴力事件が引き起こされたが、本村より提出された出訴状によると、東山村は「当村支配」の村であるが「穢多有之義ニ付、垣内相分レ」ており、何事につけ「村並之付合区別」があって、特に「神式等之節」には立ち寄らせないようにしているという。ここには、当該期における本村の東山村に対する認識が現れているといえる。
天保15(1844)年、東山村は郡山藩に郷蔵の建設を願い出ている。郷蔵は独立村の要件の一つであり、郷蔵の建設によって東山村の自立/自律性が強まったと考えられる。また、同時期には年寄役の設置、「垣内訳」の実現が達成されており、本村からの独立性・自立性をより一層高めていた。このような独立性は、嘉永元(1848)年に本村との間に作成された「垣内分ニ付割合物附出シ帳」や明治5(1872)年の「高米改」においても追認・再確認されている。
これらを踏まえて、先述の神社祭礼一件における本村の主張を吟味すると、「垣内分」は郷蔵建設に端を発し、本村と東山村との協議によって成立しており、「穢多有之義ニ付」といった単純なものではなかったことがわかる。また、「村並之付合区別」とあるが、「垣内分」以前も以後も、村の西方を流れる葛下川水利は共有されており、また、智照五社明神の修復費を東山村も負担していることから、実際には公的な区別は少なかったものと考えられる。従って、神社祭礼一件における本村の主張は、殊更に東山村を別村として描き出そうとしていたのではないかと推測される。
東山村はこの後、明治13(1880)年の貴船神社再建を契機として、本村との間に「村名分離」の協議を開始したが、最終的に「分離」はならず、明治22(1889)年の町村合併を迎えることとなる。その後、小学校令の改正を受けて各地で小学校の統合が行われるなか、一部の地域で部落学校を排除する動きが表面化するが、東山の小学校も統合されず、単独で存続することとなった。明治30年代に入ると、東山において部落改善運動が取り組まれ、上牧村当局者は東山出身者を収入役に迎え、小学校の統合を実現するなど、村内融和を図った。
以上にみたように、経済活動が活発となり、人口・戸数が急増した東山村は、天保期以降、次第に本村からの離脱傾向を見せるようになった。明治期に入ると、このような傾向は一層強まり、「村名分離」の協議までが行われていた。周辺地域との間に軋轢を生み出していた東山が離脱を志向することは、本村にとっても願ってもないことであり、こうした排除意識が小学校の統合をめぐって表面化することになったと考えられる。
最後に、幕末〜維新期の被差別部落の動向が地域社会においてどのように認識されていたか、そのことによってどのような部落観が形成されていくのか、さらに多くの事例を蓄積する必要性が確認された。