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2005.11.16
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維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2005年06月18日
明治初年被差別部落一村独立の一事例

吉田栄次郎(奈良県立同和問題関係史料センター)

  前回報告(2004年5月26日)では、アンヌ・ブッシーによる周縁性を持つ集団のアイデンティティ形成過程についての指摘を受けて、被差別民集団が「一定の時代と集団における支配的社会戦略に対する回答」として、「他者性の初源にあった性格・要素を強化しようとする戦略」を立てて「周縁的な地位に属するものとしての特権をそれと認めさせる」か、他者性の初源の性格・要素を放棄して「周縁性からの脱却」をはかるか、いずれかの戦略を採用するとの見通しが述べられた。

  前回報告において概観された近世大和の諸賤民の戦略を整理すると、神子の集団が他者性の性格・要素を放棄して同化の道を選択したのに対し、夙・万歳・隠亡・陰陽師の各集団は、他者性の性格・要素を強化するという方向を選択したといえる。穢多については、戦略が定まらなかったかに見えるが、実際は、地域性等に規定されながら多様な方向を辿ったと考えることができよう。

  以上を踏まえ、本報告では幕末・明治初年における大和の穢多村の一つの戦略として、分村・独立についての動向が考察された。まず、これまでなされてきた一村独立に関する研究史の前提が再検討された。奈良県における一村独立史の研究はこれまで、「所属ノ土地ナクシテ町村ノ名義ノミ存スル」村、つまり近世における枝郷を行政システム内のスタンダードとみることで、明治初年の被差別部落の一村独立過程を、地位の向上による「差別からの解放」「平民との同一化を通じた差別撤廃」として評価してきた。従って、上述したアイデンティティ形成過程についての視点からは、他者性の初源の性格・要素を放棄して「周縁性からの脱却」をはかろうとしたように見える。しかしながら、これらの研究では、部落の土地所有については出作等が捨象されており、また、枝郷が差別とは関わりなくとも必然的に政治的・経済的不利を被ることなども考慮されていない。従って、枝郷であることを直接部落問題と結びつけるという前提そのものが疑われなければならない。

  このため、本報告では、「枝郷、土地なき村、無地独立」を一村独立のスタンダードとする前提が成立するかどうかを確認の上、さらに、これまでの研究において独立にいたる経緯や独立に際しての村財産の分与、経費の負担割合などの細部がまったく明らかにされてこなかったという反省を踏まえて、穢多村の対差別戦略構想の一素材として、式下郡但馬村枝郷五伝村を取り上げ、当該期の動向から一村独立が実現するまでの過程が復元された。

  前者の課題については、大和における70ヶ所の部落のうち、a)近世末期までの独立町村が14ヶ所、b)明治20(1887)年時点での独立村が11箇所、c)a以外に穢多高が確認できる村が18ヶ所、d)bのうち穢多高が確認できる村が7ヶ所であり、従って、独立町村はaとbの25ヶ所、穢多高を持つ村はaとcとdの37ヶ所にのぼること、bの11ヶ所中、無地独立4ヶ所に対し高訳独立は7ヶ所であったこと、dの7ヶ所中、6ヶ所が高訳独立を果たしたこと等が指摘された。

  五伝村は、上記のb、dに含まれ、郡山藩が設定した皮多高は120石9升5合であった。天保9(1838)年には但馬村と五伝村の間で協議が行われ、「諸事之儀者是迄之通」「御上納向計別取立」の旨が決定されている。この後、明治4(1871)年には、ほぼ近世期の高のままでの高訳がなされて、村領域が明確化され、明治8(1875)年地租改正時に地券帳作製上の混乱を経て、明治15(1882)年、高訳分村が完成した。

  以上の事例から、従来の研究史上で前提とされてきた無地分村はむしろ少数事例であり、独立の形態は穢多高の有無や本村との関係など、近世の村のあり方によって規定されるという可能性が指摘された。また、枝郷は近世の穢多村の形態としてスタンダードだったとはいえず、枝郷における不利益・差別については、他の諸賤民や一般の百姓による枝郷の場合との比較検証作業を経た上での議論がなされなければならないという点が確認された。

(文責:本郷 浩二)