近世における葬送・死体処理については近年、いくつかの研究がなされており、「おんぼう」らをめぐる葬儀の体系など、その実態が徐々に解明されつつあるといえる。これに対し、近代以降の葬送については、芳賀登や浅香勝輔・八木沢壯一、井上章一、森謙二らの研究にみられるように、葬儀・葬送そのものについての関心が先行しており、「けがれ」観念や差別の問題と関連して捉えられることは少ないのが現状である。これらの研究状況を踏まえ、本報告では大阪の事例を中心に、葬送の近代化過程における諸問題と差別のあり方との関わりが検討された。
近世の葬送・死体処理についての研究によって明らかにされたように、近世後半の都市では、寺僧・業者・「おんぼう」による分業体制が確立していた。近世においては共同体による死体処理が主流であった農村部でも、幕末・維新期を経て、近代以降はこのような分業化・商業化が進行したとみられるが、その際、近世的な「きよめ」と「けがれ」といった観念が喪失したわけではなく、変遷を遂げながらも、基本的にはそれらを保持しながら商業化を遂げたものと考えられる。本報告では、このような「けがれ」観念と差別の問題との関連を具体的な形で明らかにすることが課題のひとつとして挙げられた。
先述したように、都市部、或いは富裕な農村部においては近世後半から、寺僧・業者・「おんぼう」による分業体制が成立していた。幕藩体制の解体に伴って流民が都市に滞留するようになると、流民、特に道中人足出身者を雇用した葬式行列が成立してくるが、それらを組織したのは、新資本として葬式業へと参入してきた駕屋・水屋など、近世期の運輸業者であったと考えられる。「おんぼう」については、墓堀・焼き場人足等として活動を続けたと推測されるが、定かではない。
明治期に入って、急性伝染病の流行、西南戦争等による集中的な大量死は、埋葬から焼却へという、死体の大量処理の必要をもたらしたが、同時にそれは、新規葬式資本の確立をも意味した。なかでも、住友等の一般大型資本が参入することによって成立した八弘社は、大阪市内および周辺地域のほとんどの葬式を手掛けるなど、知事との深い関係を前提とする特権を有していた。そのため八弘社は他の業者の反発を呼び、明治20年代には八弘社と大阪葬具会社との提携が、京都の本願寺が大阪の葬送業へと進出する契機となるなど、様々な確執の要因となった。また、周辺の自治体からも、八弘社批判と同時に火葬処理会社の設立要求が出されるが、明治20年代後半には実質的に八弘社のみでは死体処理が間に合わなくなり、認可される方向に動いている。特に墓地・火葬場は自治体による経営が主流となり、近代化が進展した。
このように葬式業者の競争が激化すると、家族経営で縁故関係に基づいた顧客に頼る近世的業者に対して、後発業者ほど近代化が進み、霊柩車の導入による葬列の廃止や人件費の低下等、葬式の方法そのものに変化がもたらされた。また、旧来型の権益が打破されることで企業化が進展し、鎌倉の誠行社や名古屋の一柳葬具店、大阪の公益社などの大会社の登場が促されたと考えられる。さらに戦時下においては、死体の大量処理の必要性に加えて、燃料不足に直面し、業者の合併を経て、行政や近代的企業の独占が確立することとなった。
以上にみたように、幕末・維新期以降、葬送・死体処理のあり方はドラスティックな変化を遂げるが、その中で葬送業従事者に対する差別意識も基本的には減少に向かい、商業化が進展した。しかしその一方で、零細業者や死体処理従事者への差別の集中・残存等、解決すべき課題も多数存在している。
近代における葬送・死体処理についての研究は緒に就いたばかりであり、死や葬送の問題をタブー視することなく、その具体的な様相と差別との関わりを解明していく必要があるといえる。
(文責:本郷 浩二)