調査研究

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2006.02.21
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維新の変革と部落(移行期研究)研究会報告
2005年11月19日
維新変革期の被差別民における職業観の形成
―多様な被差別民
―髪結・三昧聖との対比から―

森田康夫(樟蔭東女子短大名誉教授)

 本報告では、髪結・三昧聖とかわた身分との対比のもと、近世の多様な被差別民の、「解放令」を中心とする幕末・維新期の変革における対応と、そこにおける職業観念の形成のあり方が考察された。

 近世において中世来の職分を引き継いできた三昧聖は、明治4(1871)年の「解放令」への対応として、自らの職能と由緒を守り、親から子へと代々受け継がれた生活の手段である生業としての職能を継続した。これに対し、髪結の場合は、近世において請け負っていた牢番役から解放される一方、租税の負担者たることで営業の自由が保証され、生業から職業への転換を遂げている。報告では、これらはいずれの場合も、近世社会で受けた情念的賤視の濃淡により、偏見の持続を余儀なくされたことが指摘された。

 かわたの場合は、斃牛馬の買い取りという対等な取引関係を成立させた小数の事例を除き、多くの部落において、積年の賤視を発生させてきた原因と考えられた斃牛馬処理と皮革関連の手工業からの離脱による、「脱賤化」が図られている。しかし、かわた村に蓄積されてきた家畜処理技術や皮革生産とその加工技術の放棄は、かわた村固有の職能からの断絶、アイデンティティーの喪失を意味していた。ここに旧かわた村民の職業観の混迷を窺うことができよう。このようなと畜・革細工等の皮革関連産業へのネガティブな職分観は、かわた村民の心情に負の刻印をもたらし、かわた村固有の職分を一部の場所へと封じ込めることとなった。このように、「解放令」下の旧かわたは、自力で生業を職業とする機会を逸し、結果、旧かわたとしての継承すべき職分観を喪失させている。

 かわた村の生業・職能は、賤業意識のもと、村方との間の上下関係が支配的であり、社会的分業でありながらも不平等な人間関係が存在していた。従って、職業としての成立要件に欠けており、このため、生業を放棄した旧かわたは、その心性に亀裂を生ぜしめたといえよう。


幕末・維新期の斃牛馬処理とと畜業をめぐる動向

本郷 浩二(世界人権問題研究センター)

 近世・近代移行期における食肉産業成立過程と斃牛馬処理制との具体的諸関係の解明は、部落史研究上の重要な課題であるといえる。本報告ではこの点について、身分・差別と職業・生業との関わりをめぐる問題として、斃牛馬処理制が解体する中での旧かわた身分の対応との関連において考察された。

 本報告で検討された兵庫県では、「斃牛馬勝手処置令」および「解放令」を受けて、「不浄業」として斃牛馬処理への不関与を表明するという動向が広範にみられる。これらの事例は、かわた身分の者が他村との懸隔・差別の原因を、斃牛馬処理をはじめとする「不浄業」に置き、それを放棄(=不関与)することで身分的な「解放」の実現を志向したものとみることができる。しかしながら、斃牛馬処理は地域の社会的・経済的再生産構造に深く組み込まれており、そこからの離脱は事実上困難であった。このため、一方では斃牛馬の特権喪失に伴う生活の困窮が、他方では、牛疫の流行による大量の斃牛馬処理の必要性と、それによってもたらされる利益の拡大という事態が生じており、「不浄業」不関与の約定に違反する者も現れている。これらの者は、「不浄業」の放棄による「解放」よりも、現実の経済的な変動に対応しており、消極的ながら、経済的な基盤の確立を優先したと考えられよう。

 他方、これまで培ってきた斃牛馬の技術的蓄積を活かして積極的にと畜・食肉業への進出を果たすという事例も、小数ながら確認される。このような事例は、その前提として、近世期からの生牛と畜の歴史的記憶・経験や、事業として成立し得るほどに外国人による食肉の影響が大きいなど、いくつかの要因が挙げられるが、いずれも、と畜・食肉業を通して経済的な基盤を確立することで、地位の上昇、相対的な「解放」が志向された結果と考えられる。

 近代における食肉産業は、以上のような過程を経て、公然化した肉食の容認・受容と、と畜・解体作業・従事者への忌避・差別という分化を遂げたのではないだろうか。

(文責:本郷 浩二)