本報告では、髪結・三昧聖とかわた身分との対比のもと、近世の多様な被差別民の、「解放令」を中心とする幕末・維新期の変革における対応と、そこにおける職業観念の形成のあり方が考察された。
近世において中世来の職分を引き継いできた三昧聖は、明治4(1871)年の「解放令」への対応として、自らの職能と由緒を守り、親から子へと代々受け継がれた生活の手段である生業としての職能を継続した。これに対し、髪結の場合は、近世において請け負っていた牢番役から解放される一方、租税の負担者たることで営業の自由が保証され、生業から職業への転換を遂げている。報告では、これらはいずれの場合も、近世社会で受けた情念的賤視の濃淡により、偏見の持続を余儀なくされたことが指摘された。
かわたの場合は、斃牛馬の買い取りという対等な取引関係を成立させた小数の事例を除き、多くの部落において、積年の賤視を発生させてきた原因と考えられた斃牛馬処理と皮革関連の手工業からの離脱による、「脱賤化」が図られている。しかし、かわた村に蓄積されてきた家畜処理技術や皮革生産とその加工技術の放棄は、かわた村固有の職能からの断絶、アイデンティティーの喪失を意味していた。ここに旧かわた村民の職業観の混迷を窺うことができよう。このようなと畜・革細工等の皮革関連産業へのネガティブな職分観は、かわた村民の心情に負の刻印をもたらし、かわた村固有の職分を一部の場所へと封じ込めることとなった。このように、「解放令」下の旧かわたは、自力で生業を職業とする機会を逸し、結果、旧かわたとしての継承すべき職分観を喪失させている。
かわた村の生業・職能は、賤業意識のもと、村方との間の上下関係が支配的であり、社会的分業でありながらも不平等な人間関係が存在していた。従って、職業としての成立要件に欠けており、このため、生業を放棄した旧かわたは、その心性に亀裂を生ぜしめたといえよう。