近世大坂の長吏と非人番をめぐってはこれまで、基礎資料の刊行と研究の蓄積が進められてきたが、その多くは四ヶ所と三郷の非人番に関するものであり、四ヶ所と摂津・河内・播磨などの在方非人番との具体的・組織的関係は未だほとんど解明されていない。このような研究状況を踏まえ、本報告では、近世後期を中心に、町触にみられる非人番の役割と、在郷の非人番と大坂町奉行所および四ヶ所との関係について考察された。
近世後期の町触には野非人の取り締まりに関する記述が多くみられるが、そこでは、無宿人別の者であっても、荷物の番や掃除をする者、「居馴」の者や大坂長町の働人足溜所から搗米屋・酒造屋・絞油屋の三商売人へ働きに行く者は追い払わないとされていたようである。このため、野非人対策にあたった長吏・小頭・非人番は、町奉行所の意向に添って、主に小盗・巾着切や捨て子の取り締まり等を行っていた。これは在方の非人番についても同様であったと考えられる。
次に、在方非人番と四ヶ所との関係であるが、摂津河内・播磨の非人番の多くは、四ヶ所長吏らの共同支配の下に置かれており、小頭ではなく年行司を置く「直場」の非人番と、在小頭を通して四ヶ所支配を受けた非人番があった。四ヶ所垣外と在方非人番の間には相互の交流もみられたようである。また、四ヶ所勘定から在方非人番支配を検討すると、非人番からは「村掛ケ」「礼銭」など、数々の上納金が納められており、相当の収入だったことがわかる。
四ヶ所は、明治4(1871)年の「解放令」以降、強権的に解体させられたと推定されているが、非人番の解体過程についての詳細は十分に解明されていない。この点を大阪府布令等の検討によって明らかにすることが次の課題であるといえよう。