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2007.08.30
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第2次食肉業・食肉労働に関するプロジェクト
2007年6月16日

近代都市大阪と食肉生産の現場 1910-30年代の大阪市営屠場

吉村 智博(大阪人権博物館)

 本報告は、『昭和三年度以降第1種屠場重要書類』(1938年か?)を用いて、大阪市営の2屠場(木津川・今宮)に焦点を当て、経営実態を整理する。

 安井村(川口居留地)は、部落産業ではなく、近代最初に置かれた屠場である。安井村の卸値は高く、儲かっていたと考えられる。市外で最も屠畜数が多いのは松原の更池である。屠場法(1906年)によって行政からの締めつけが始まることになる。

 屠場の沿革については、「市営屠場沿革概要」という資料からわかる。市営屠場を設立する際に、市会で1回廃案になったが、1909年5月に可決されたと書かれている。以降、木津川屠場が竣工され、今宮屠場は今宮村営屠場より大阪市に引き継がれた。市営にした理由は、市として儲かるという意図があった。

 経営については、使用料収入で儲けていた。収支の年時推移をみると、1914年に落ち込む。1925年に大幅に収入が増加するなど、大きな変化があるが、その理由は今宮屠場が大阪市に編入されたためである。1926-27年にかけてまた落ち込む。

 従業員については、「吏員」は市からの出向の人だと考えられる。待遇がよくなっているので儲かっていたと考えられる。待遇の良いものから「吏員」>「雇員」>「傭人」の順となっている。1927年に人数が減っているが、恐慌の影響だと考えられる。「傭人」の内訳は、「給仕」(事務・雑務)、「使丁」(警備・雑務)、「屠場夫」(屠室・内蔵扱室その他器具機械清掃)である。「雇員」は親方に該当するのかもしれない。

 牛馬屠畜実績については、1932年(満州事変)以降、府内の屠場に利用者がとられている。その原因としては、不況・牛馬の需要・食肉を取り巻く状況の変化などが考えられるが、市営屠場が府内の屠場と比較して使用料が高かったことも一因である。そのため、36年以降使用料を減額している。

 村営屠場を持つ自治体のいくつかは、村の収入のうち、屠場使用料が大きな位置を占める。私営から村営にすることによって増収がはかられたのである。ただし、大阪市の収入に占める割合は2%程度であり、市営化してみたものの、潤沢にはならなかったようだ。

(文責:内田龍史)