かつては部落のことをかわた村と呼んでいた。中世以来、斃牛馬、農耕に適さない牛や馬、自分で自力歩行できない死牛馬を処理するテリトリーが形成されていく。近世にはそうしたなわばりのネットワーク・既得権益が大阪府域でもできる。
『食肉の部落史』(明石書店)で明らかにしたことは、部落外のかわた身分以外の人たちが偶発的に牛肉を食べていたこと、ここで問題になるのは牛肉で、他のけものの肉、小動物の肉はほとんど抵抗なく食べられていたこと、生産したり消費したりする地域が形成されていたことである。19世紀はじめには公然とと牛されている。タテマエではと牛は大罪だった。しかし、実際にと牛をした者が町奉行所に呼ばれ、取り締まられるが、1日2日で釈放されるという史料がある。
食肉生産は、それから50年くらい経った幕末に、さらに成熟する。具体的な例のひとつが、藁づめである。牛を藁づめで窒息させ、脳死状態にさせる。心臓が動いているので、吐血できる。こうしたことは、血のまわった肉がおいしくないということが経験的にわかっていないとできないことだ。
肉は、野菜と一緒に炊いて食べていた。武士は汁の種にするくらいだったようだ。そのため、消費する量は少ない。暑い夏に肉を食べる習慣はなかったが、幕末には盆の前の日に牛をと牛して、奉行所に捕まる例が頻繁に見られるようになる。こうした新しい習慣が、部落の中で作り出されていく。
1872年の更池村史料を見ると、毎日10頭以上の牛馬を解体し、食肉にしている。計算すると、年間3000頭を越す牛を食肉していることになる。1876年には、と殺をするための鑑札料が必要となったため、記録が残っている。下半期の記録を見ると、更池で500、向野で300、富田新田で100を切るくらい解体されており、食肉生産地域のトライアングルができていることがわかる。1000頭の牛を売るためには、かなりの広い範囲で消費されなければならず、それだけの消費圏が整っていたと推察される。
(文責:内田龍史)
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