カースト制度は、ヒンドゥー教の教義に基づいて定められた身分制度で、バラモン教時代の前史を含めて、およそ二千数百年の歴史がある。しかし、時代の進展につれてカースト制度も変化してきている。
近代に入ってからは、(1)イギリスの植民地統治政策の一環としてのカースト制への政治的対応、(2)独立時の「憲法」に明記されたカースト制廃止政策、(3)1991年に国民会議派によって着手された経済の自由化を基調とする開放政策、この三つの新政策をきっかけとして、カースト制度も変貌してきている。
1950年に制定されたインド憲法は、不可触民制の廃止を宣言し、「指定カースト」(前不可触民)、「指定部族」(先住民族)、下級カーストの「後進諸階級」――三大集団に対する特別措置を設けることを定めた。すなわち、教育と公的雇用と議会議席の三分野で、留保システム(reservation system)の実施が宣明され、国家が定めた委員会によって次々に新政策が実施されてきた。
さらに1991年代以降の<市場経済への転換>と<マス・メディアの自由化>は、ヒンドゥー教の伝統的社会に大きい刺戟を及ぼし、急速に進行中の「IT革命」も新しい情報化社会を産み出しつつある。
カースト制の歴史的な形成過程
インドの全人口は戦後も急ピッチで増え続け、2001年の国勢調査では10億2701万である。そのうち指定カースト人口は、16.48%、指定部族は8.08%である。(この数字は1991年の調査による。2001年の精密な調査は近日発表される。[付表1]は宗教別の人口であるが、ヒンドゥー教徒は全人口の82%をこえている。)
カースト制度は、《浄・穢》観を中心としたヒンドゥー教の宗教的規範に基づいているが、動物界・植物界・鉱物界にもすべて《浄・穢》による序列がある。それを人間界に適用して、ヒンドゥー教徒内の社会的序列を定めたのがカースト制である。
インドには、約860の民族語があって、話者が1000万人以上の言語だけでも11もある。もともとインド亜大陸には、皮膚色の黒いドラヴィダ系を中心とした大文化があった。彼らが世界四大文明の一つとされる「インダス文明」を築いたのだが、インダス文明が滅亡した前15世紀ごろに、背が高くて色の白いアーリア人の騎馬民族が侵攻してきた。
戦闘力に優れたこのアーリア人の騎馬集団は、インド北部を制圧し、ドラヴィダ系住民はしだいに南の地方へ追いやられていった。そして古モンゴロイド系の先住民族は、東北部の山岳地帯やデカン高原の奥地に逃れていった。彼らが今日の「指定部族」である。
アーリア人の宗教がバラモン教であったが、それが土俗的信仰と習合しつつ、3世紀ごろからヒンドゥー教として教義が整えられ、それに基づいてカースト制が制度化されていった。
祭祀儀礼をつかさどる司祭がバラモンであるが、あらゆるケガレを除去して清浄化の儀式を行うことが主要な役割である。
大まかに言えば、先にみたドラヴィダ系がカースト制では「シュードラ」とされ、ケガレとされた仕事に関わるその一部が、3世紀ごろから「不可触民」とされたのであった。
バラモン教の時代では、ヴァルナ制と呼ばれたが、「ヴァルナ(varna)」は「色」である。アーリア人が先住民を支配するために、ヴァルナ制が人為的に作られたのであって、人種差別・民族差別がヴァルナ=カースト制の根幹にあった。
[付表2]にあるように上位三身分はアーリア系であって、全人口の25%程度と推定されている。アーリア人の純血を守らなければならないという理由で、カースト制では、同一身分同士の結婚が厳重に強制された。他のカーストと混血したものはその共同体から追放されたが、それが「チャンダーラ(センダラ)」である。もともとチャンダーラ系は先住民系の一部族の名称だったが、アーリア人の支配が全インドに及ぶにつれて「穢れた民」の代名詞にされたのである。
五つのヴァルナが大枠で、その中に約500の「ジャーティ(jati)」と呼ばれるサブ・カーストがある。約2500にもなるこのジャーティ同士の結婚が規範とされ、他のジャーティとの結婚は認められない。
被差別民のジャーティは、清掃・芸能・皮革・酒造・織師・竹細工・金銀細工・弓矢製造・植木栽培・医者・産婆・占星術・洗濯・散髪・動物飼育などの職能に分かれるが、地方によっていくぶんか地域差がある。
三集団に区別される被差別民の留保制度
現行憲法では、被差別民は三つに分かれている。第一は、前不可触民の「指定カースト」(scheduled castes)で人口の約16%。第二は先住民族の「指定部族」(scheduled tribes)で人口の約8%。そして第三が「後進階級」(backward classes)で、おもに農奴として使役されてきたシュードラの下層階級である。「後進諸階級」については、各州の歴史的な事情によって、その生活実態と差別の実状にかなり差異があるので、各州政府の独自政策で留保制度が進められている。
大学を例にとれば、すべての大学でダリット出身者のために16%の枠が確保される。(ダリット〈dalit〉とは「抑圧された」という意味だが、前不可触民をこう呼ぶので今日では一般化してきた。「神の子」を意味するハリジャンは恩恵的呼称であるとして拒否され、ヒンドゥー教徒の一部で用いられたにすぎない。)最低点を何点か下げてもダリット出身者の枠は確保される。もちろん、入っても付いていけないところまでは下げない。定員が確保できなかった場合は、次年度まで欠員部分は持ち越され、この枠には他のカーストからは入れない。
公務員も上級・中級・下級の三つのレベルで、それぞれ枠が確保されている。上級になるほど充足率が低かったが、ダリットの大学卒が増えるにつれてその充足率が上昇してきた。(これらの問題については、前記国勢調査の第10章で詳しい数字が報告されている。)
議員でも地方議会から国会まで、この枠が設けられているが、被差別民出身の議員がすべて反体制の革新系とは限らない。カリカット(旧カルカッタ)やムンバイ(旧ボンベイ)などの都市部では、議員の大半は被差別民の運動団体の力で当選しているので革新派として活動している。だが、解放運動が低調な農村部では、被差別地域の伝統的民俗を脱ぎ捨てて、上位カーストの文化を装うことによって身分向上をはかろうとする「サンスクリタゼーション」の働きが、まだまだ強い。したがって上位カーストの支援で当選しているケースが多いので、留保制度の枠で当選した議員でも保守派が多い。
「留保制度」は、このように教育水準を上昇させ、雇用の平等を促進し、議会での活動を保障するための積極的な政策である。すなわち「結果の平等」を実現するためには、教育と就職と議会で「優先措置」をとることが必要だという考え方である。これまでの差別によって、同一のスタート・ラインに立つことは初めから無理なことは分かっているので、このようにハンディキャップを付けたのだ。
つまり、見せかけだけの「機会の平等」では、「実際の平等」は実現できないという認識である。このような思想は、現在ではアメリカ、カナダ、ニュージーランドなどで採用され、積極的改善策(affirmative action)として、社会的差別を克服する具体策として実施されている。昨年訪れたデリー・ムンバイなど都市圏のダリット地区でも、小・中・学校への進学率は、ほぼ100%まで上昇しつつあると聞いた。
被差別地区の実状
私が最初にインドを訪れたのは1972年だった。深夜のコルカタ飛行場には、子どもの物乞いが数十人はいた。降りてくる乗客に空腹を訴えて、ワッと手が出てきて、なかなか前へ進めない。市中までの15キロ、街路はずっと路上生活者が寝ていた。毛布やゴザにくるまって身動きもしない。おそらく数万人はいただろう。朝の超満員の市電は牛の群れで止まり、自動車はまだ少なく、おもな交通手段はリキシャだった。1981年に訪れた時も同じような状況だった。ムンバイのアンベドカル大学を訪れたが、その敷地には約2万人の路上生活者が掘立小屋で居住していた。
農村も奥深く入ると、中世さながらの風情が残り、日本ならば文化財級の石造物が散在していた。豪壮な地主の邸宅とみすぼらしい小作人の家、そのあまりの格差に驚いた。彼ら小作人はシュードラの下層と前不可触民だ。その住宅はほとんど一間しかなく、家財道具もない。泥の土間にじかに住んでいるのだ。僅かな教育費も払えず、教材道具も買えないから、小学校にも行けない者が多かった。だから第二次大戦前では、上級学校に進むことは考えられず、先祖代々の職業を世襲するしかなかった。
ヒンドゥー教では<死><産><血>そして<体からの分泌物>―この四つがケガレの源泉とされ、しかもそのケガレは次々に伝染するとされているから、ケガレの発源体へ近づいてはいけない。穢れると、すぐに清めの儀式をやらねばならない。その儀式はバラモンが執り行うのだが、儀式には費用がかかる。その実際は、約2000年前に作られたバラモンのための聖典『マヌ法典』に詳しく書かれている。それらの儀式で蓄財したバラモンが次々に土地を買い足して地主となり、政治権力を握って議会へ出てさまざまの利権を手にする―こういう巧妙な仕組みになっていたのだ。
新産業政策による構造的変動
1992年から2002年まで8回インドを訪れたが、そのたびに社会情勢が変わりつつあるのを実感した。1991年に破綻寸前のインド経済を立て直すために、国民会議派のナラシマ・ラオ首相が市場の自由化政策を導入し、新産業路線の実施に踏み切った。
それまでのインドはソ連・東欧圏にのみ市場を開き、自由主義諸国との交易はほぼ閉ざされていた。公営企業の独占分野を縮小し、国家による経済統制を大幅に緩和して、外国からの投資に門戸を開いた。IT関連産業の開発を最優先課題として、大学を各地に増設した。独立後の「第二の開国」ともいうべき思い切った大転換だった。
その結果、同じく開放政策に転じて7%を超える高度成長を続ける中国と並んで、国内総生産は6%を超える高度成長が毎年続いた。外貨準備高も増え、一人当りの国民所得も、この10年間で倍増して約500ドルとなった。相次ぐ技術系大学の増設によって知識人階層が増え、IT革命の促進につれて関連企業が急増した。アメリカなど外国への留学生も増大した。このような新中間層の進出は、社会意識や文化的価値観の分野でも、大きい構造的変動をもたらしつつある。
その反面で、年率10%近いインフレの進行、大都市圏への人口の集中、工場の増設などによる公害、人口急増と自動車の増加による都市問題が表面化してきている。学校・住環境・医療福祉施設など社会的基本財の整備も遅れている。したがって人口の約70%が住む農村部では、ほとんど改革は進展していない。未開発のまま停滞している農山村部の置き去りによって、貧富の差は拡大しつつある。
文化面における開放政策の影響
第二に注目されるのは、やはりラマ政権が実施した文化面における開放政策である。テレビを中心としたメディア改革で、報道管制は大幅に緩和された。西欧圏の映画・音楽・ドラマの放映が自由化されると、西欧先進国の消費文化がなだれ込んできた。今では30チャンネルを超えるTV番組が放映され、国営TVだけの官製チャンネルが一挙に多様化された。衛星放送の受信数は数千万家庭に及び、その影響は都市周辺の農村部まで波及し始めた。文化や風俗だけではなく、社会思想や宗教イデオロギーの領域でも、若い世代を中心にかつてない大きい衝撃を与えるようになった。
TVによる新しい商品広告と外国製品の輸入解禁は、百貨店やスーパーの品揃えを大きく変えた。民族衣装のサリーからジーンズにはきかえる若い女性の姿も増え、盛り場のディスコでは、若い男女が胸を合わせて踊っている。ラジオでも伝統的音楽は姿を消して、インド風に味付けされたモダン・ポップスが流行している。マクドナルドなど外食産業の普及で、被差別民との共食を禁じた食穢のタブーも空文化しつつある。
留保制度とその社会的効果
全国民の16%をこえる被差別カーストと8%の先住民族―それを合わせると24%以上になる。さらに留保制度を適用されている後進諸階級を合わせると、州によって違いがあるが被差別民層は40〜50%に達する。
この部分から留保制度で大学に入ってくる。かなりむつかしい試験があるので、まだ完全に枠は満たされてない。まだ差別の壁は厚いので全員が就職できるわけではないが、新知識階級がアウト・カーストから出てきた。つまり、留保制度の効果が出てきたのである。上位カースト層から留保制度に対する不満が噴出しているが、なにしろ上位カーストは数が少ないので国民の多数の声にならない。
1990年代後半に入ると、解放運動のリーダー層に、弁護士・教師・医者・社会福祉カウンセラーなどが増えてきた。戦前では考えられなかった新しい状況である。デリー、ムンバイなど都市圏のダリット地区でも、小・中学校への進学率はほぼ100%まで上昇した。
カースト制では女性は男性への隷属を強いられてきたが、それを突き破って各地の女性解放運動が活発化してきている。1961年の国勢調査では、男性の識字率約40%、女性は約15%だった。それが2001年の調査では男性76%、女性54%になっている。
大学でもようやく人権教育が始まり、世界の新しい情勢を学んだ若い人たちは、カースト制そのものを原理的に問題にするようになった。都市部では反差別の組織が飛躍的に増大してきた。環境改善はあまり進んでいないが、路上生活者や物乞いは急速に減ってきている。抵抗運動の強化と相次ぐ法規制によって、被差別民に対する殺害・焼打ち・レイプなどの残虐行為も減ってきた。
熱気のあるダリット学生とインドの未来
1996年、1億3000万人のウッタルプラデシュ州へ行ったとき、被差別地区を案内してもらったのが警視総監のダラプリ氏だった。ダリット出身でこの州の解放運動の中心人物だ。実に誠実ですばらしい人柄だったが、警視総監になっても解放運動の情熱はすごい。私たちと一緒にダリット地区へ入ると、集まった住民に井戸の上から運動への参加を訴えていた。
彼の世話でダリット出身学生300名の臨時集会が、地元の大学で開かれた。そのときの1時間の熱弁もすごかった。学生たちも実に熱心で全員が目を輝かせて話を聞いていた。彼らがインドの解放運動の将来を担うことになるのだが、その熱気に大きい未来を感じた。何をしてよいか分からず、自分のアイデンティティーを見失っている日本の学生とは大違いだ。
ダリット出身の初の大臣としてインド憲法を起草したアンベドカルに導かれた新仏教徒が、1960年代以降の解放運動の中心だった。新仏教徒は、1970年代はまだ600万ほどだったが、今日では約1000万人に達している。西ベンガル州とケララ州では戦前から社会主義派の影響力が強く、ダリットがその一翼を形成している。
キリスト教徒やイスラム教徒のダリットも、それぞれ独自の立場で解放運動をやっていたが、1992年に宗教の各宗派を統合したダリットの全国連絡会議「ダリット連帯プログラム」が初めて結成された。
現在、インドの政局は複雑に推移している。M・ガンジーとJ・ネール以来、戦後インドの指導権を握ってきた「国民会議派」は、今日では国会で過半数をとれない。他方では「中道・左派グループ」が大きく進出してきている。このグループの多くは下層カーストとダリット出身の議員によって占められている。地方公用語だけでも17もある言語、ヒンドゥー教徒と少数派の宗徒との軋轢、この二つが大きな壁となって全国的政治連合の結成が遅れているが、その連合が実現すればインドの政治状況は大きく変わるだろう。
残りの三分の一は、伝統への回帰とヒンドゥー教至上主義を唱える右翼民族主義の「インド人民党」である。北インドの上位カーストを中心に組織され、パキスタンとの紛争や原爆実験など保守系の民衆を煽って現在は国家権力を握っている。
つまり、三派鼎立の現状であるが、人口的に過半数に達する被差別民の政治的連合が強化され、「国民会議派」の中のリベラル派と組めば、最大勢力にのし上がることも夢ではない。このような情勢に、人口の約25%しかない上位カーストは脅威を感じている。伝統への回帰とヒンドゥー・ナショナリズムを唱導する保守勢力では、今日のグローバリゼーションの大波を乗り切れない。
被差別民の政治的、文化的上昇につれて、インドは大きく変わるだろう。かつて世界四大文明の一つを築いてきたその潜勢力は、2010年ごろには顕在化してくるだろう。大転換期にさしかかった人類世界を動かす新たなパワーとして、世界史の舞台に登場してくるのはそう遠くない。