3月10日の部落解放・人権研究所総会記念講演の講師項陽さんを招いた「楽戸」に関する研究会がその前日に開催された。以下、その要旨を紹介する。
<第一報告>
楽籍制度とは北魏(386-555年)からはじまり、清の雍正元年(1723年)まで続いた中国における賤民制度である。楽籍についてはさまざまな呼称があり、北魏時代から清まで使われていたものが「楽戸」である。「楽戸」とは、楽籍制度上、音楽に携わる人々のことを指す。
楽籍制度は北魏に始まるが、犯罪を犯した人の親族、捕虜の人の家族、政治犯の親族が楽戸とされた。唐代に楽籍制度が固定化され、礼部の管轄により、長期にわたって多くの音楽を学習することが定められていた。宋の時代は制度が緩やかになるが、演芸に携わるのは楽籍者でなければならなかった。元の時代には、楽籍が再び厳しくなり、明の時代は楽戸にとって暗黒期であった。元の時代の功臣の子孫が強制的に楽籍に入れられたり、罪を犯した役人が山西省に送られた。明の時代の山西省は大きな監獄とも言え、このような状況が200年以上続いた。その後、清の時代、雍正帝により、楽籍制度が廃止された。良民に改められてから4世代にわたり、卑しいとされる仕事に携わらなければ、科挙の試験を受けることができるようになった。
楽戸は太常寺の管轄である。うち、大楽署はお祭りの音楽、鼓吹署は儀式や祝い事の音楽を担当した。唐代以降は教坊で宴の音楽を担当した。地方では地方政府が教坊を管理していた。軍隊の中には必ず楽戸がいた。皇族の家族に配属されることもあった。
楽籍制度は、政治において異分子を攻撃し、排斥する手段となっていた。政敵の子孫が山西省に送られ、楽戸にされ、定められた服を着る、学校に入って勉強することができないなどの状況に置かれた。女性は売買されることもあった。自由に結婚することもできず、楽戸は楽戸としか結婚できなかった。別の身分の人と結婚した場合は罪人となった。
1400年続いた楽籍制度は、中国の音楽文化に一貫性を持たせ、体系化させることとなった。旋律・楽譜・楽器は、全国的に一貫性があった。中国以外の属国でも、旋律の一貫性が見られることもある。
楽戸の子孫は少なくとも20省以上に存在し、比較的身分が明確な省もある。楽戸の子孫は伝統芸能に携わっている。楽籍制度から解放された後も、農民として生きることはできず、それまでとあまり変わらない仕事についていた。解放以前、政府に仕える楽戸は1年に6両の銀を給付されていたが、解放後は金銭的な給付はなくなったので、彼/彼女らは、一般人を対象に仕事をすることで生計を立てるようになった。楽戸と多くの民間儀礼には密接な相関があり、そのような儀礼を行う際は、すべて楽戸の子孫が演奏していた。
文化大革命時代、そのような儀礼は封建的な伝統として禁止されたため、楽戸の子孫は農業に携わるしかなかった。しかし、文化大革命以降20年、農村では伝統的な習慣への回帰傾向にある。中国の70-80%は農村人口であり、生活習慣は伝統的な儀礼と結びついている。そのため、楽戸が演奏する音楽には社会的なニーズがあり、経済的には農民よりもよい状況にある。
現在でも楽戸の子孫と結婚しない傾向も見られるが、都市部など、多くの地域では、楽戸の人を賤視する傾向は薄らいでいる。
<第二報告>
山路興造(芸能史学会専門理事 民俗芸能学会専門理事)
楽戸研究は古代の賤民制度研究としてなされているが、専門の研究者がいない。しかし、芸能史の観点からは非常に興味深い。
技術を担う人々は中国では賤民であったが、古代日本は渡来人から技術を学ばなければならなかったので、技術民は日本では賤民ではなく、雑戸や品部に編成された。ある部分は雑戸や品部、ある部分は賤民となった。彼/彼女らは課役を免除されていた場合が多く、課役の免除と賤視とには関連があるように思われる。
彼/彼女らの技術は、各地に伝播していた可能性がある。渡来人の技術者たちが各地に住み着き、職掌人として生活していたと考えられ、各国々に専業の芸能者がいたのではないかと推測される。
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