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掲載日:2008.04.25
反人種主義・差別撤廃の世界的な取り組み

沖縄の歴史と現状から見た問題点

福地 曠昭

○はじめに

沖縄は全日本国土のわずか6%、人口も10%に過ぎない。1879年の琉球処分から今日までつねに切り捨てられた。戦前には日本への同化政策、「十五年戦争」では徹底した皇民化、軍国主義化された。20数万の犠牲を出した沖縄戦では日本軍による住民のスパイ視、虐殺「集団自決」の強要、処刑が行なわれた。

27年間にわたる米軍の軍事独裁支配下で基本的自由、人権はことごとく奪われた。

 ベトナム戦争やイラク戦の期間に於いても米軍犯罪は続発し、基地から発生する被害が夥しかった。復帰した今日でも、地位協定や「再編」による沖縄への差別、不平等扱いは変わっていない。

○政府報告書に触れられていない沖縄

第5回日本政府報告書には、沖縄への差別偏見の記述は全く見られない。

沖縄は他府県と違い、戦後27年間も日米両国の谷間に置かれ、憲法のらち外におかれ“人権不毛の地”といわれてきた。

米軍の特権だけを保障する「治外法権下」で自決権もなく軍事優先の政策が強行された。

 土地の強奪はじめ米軍の布告、布令による渡航拒否、主席任命制、言論、集会の抑圧、組合結成への干渉等、数えあげると枚挙がない。日本復帰して36年、この状態は日本にひきつがれた。核基地が強化され、米軍に次ぐ日本軍(自衛隊)が新たに配備された。基地のない平和な島を希求したにもかかわらず、県民の願望は打ちこわされた。特に米軍の基地「管理権」は復帰前の「施政権」と同じで、政府の逃げ道となっている。

日本政府の提供施設(基地)に入ると「刑特法」で処罰される。写真の撮影も禁じられている。県土でありながら他国軍隊の住民地域への出入りは自由である。住民は基地内に一歩も入れない。矛盾も甚だしい。

このために米軍機の墜落や油や燃料流出、米軍犯罪が発生しても、県や市町村の現場調査ができない。政府は抗議すらしない。占領期と全然変わらない米国への遠慮(配慮)が目立ってきている。

1、同化教育

さて、戦前における日本政府の差別教育をふりかえってみたい。1879年の廃藩置県は徹底した琉球住民差別であった。

  琉球は数百年、独立王国であったので沖縄人の頑迷の思想を破って、内地の文明に同化せしめることであった。その発想は沖縄が“遅れたもの”とした差別がある。

 同化教育では、風俗改良がその1つであった。断髪事件を起こしている、琉球主政府時代は「かたかし」といっていた男性の結った髷を切ることである。それに反抗すると投石や退学処分も受けた。

琉装を和装に替えさせられ、裸足も靴に変えさせられたものだ。

2、皇民化教育

1890年に教育勅語が各学校に「下賜」されると「御真影」とともに学校儀式で重視された。運動会では俵運び、柔剣道、なぎなたなどが正規の体育教育の柱となる。

日中戦争、太平洋戦争となると「君が代」「日の丸」が軍歌とともに強要されていく。

教育勅語を暗記しないと上級学校に入れない。宮城遙拝も学校行事となる。青年学校や中学には配属将校が配置され、軍事訓練や閲兵が行なわれるようになった。

3、方言禁止

同化教育の重点とされた琉球方言の撲滅、標準語の励行が強行されていく。

同化教育は沖縄風なものを抹殺するところに特質があった。言語、風俗、習慣を本土化するためにとられた。伝統文化、音楽、舞踊も含めてべっ視し、抑圧されたのである。

軍隊でそれが集中的に現れた。沖縄出身兵は日本語が十分理解できないため、訓練で殴られたり、リンチに遭う。このために徴兵忌避、逃亡、合法的な海外移民を生んだ。戦後も大阪や神奈川のような県出身地域でも偏見差別を受けていた。

方言は1900年末、「各学校に於いては方言を使うべからず」と方言を禁止された。

戦前、紡績工女たちも、方言しか使えないため差別され、異端視された。沖縄戦になると「方言を使用する者はスパイとみなす」と軍命が発せられ、処刑された例もある。

4、人類館事件と民族差別

1903年3月、大阪で開かれた学術人類館で沖縄人女性2人が見せ物とされた。まるで猿や動物のように説明され、沖縄人の風俗が本土の人にとって珍奇であるようにみせびらかしたのである。県民が抗議したのはいうまでもない。

5、沖国大への米軍ヘリ墜落

2004年8月、米軍ヘリが沖縄国際大学へ墜落し、学校が焼けた。

学園は安全でなければならないはずであるが、市民を含めて惨事を起している。

米軍は県警の現場検証や事故機の検証、事情聴取も拒否した。劣化ウラン弾で汚染されたとみられる土も持ち帰った。

昨年、沖縄養護学校に無断で米軍装甲車が侵入し、騒然とさせる事件も起こった。「地位協定」さえ守らない米軍に不信が高まっている。

6、教科書改ざん

1972年の本土復帰で教科検定制度が沖縄に持ち込まれた。沖縄戦の記述が減るばかりか、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が自らすすんで戦争に身を捧げたとする「美談」に書きかえられた。

さらに座間味と渡嘉敷における日本軍による「集団自決」強要の記述を消した。検定意見を撤回する県民大会に11万6千人が参加した。しかし、文科省はかたくなに日本軍の「命令」、「強制」はなかったとして再び県民の意見を無視している。