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掲載日:2008.07.15
部落問題

部落の歴史と部落解放運動の歩み

本稿は、国連「職業と世系に基づく差別」に関する特別報告者が実施したアンケートによる調査において、NGOとして反差別国際運動日本委員会 (IMADR-JC)、部落解放同盟中央本部、部落解放・人権研究所が共同で行った回答(2006年1月提出)の一部を抜粋し、さらに編集者の方で見出しを入れてデータを新しくしたものである。

<中世の被差別民>

被差別部落の歴史的源流は、文献上1000年頃から散見される。このころ、「河原者」、「屠者」、「穢多」、「清目」等と呼ばれ、河原などに住み、死牛馬の処理、皮革の製造、神社仏閣等の清掃、造園、芸能等に携わっていた。これらの人びとは、「賤民」として、周りの人びとから被賤視されていたが、特別の能力を持つ存在として畏敬の対象でもあった。また、その身分は、固定されたものでなく流動的であった。これらの人びとが、被賤視されたことの背景には、日本の土着信仰である神道や、日本に伝わってきた仏教(ヒンドゥー教の影響を受けた大乗仏教)の考え方(とりわけ「ケガレ」という観念やと畜業者に対する忌避観念)が少なからぬ影響を与えた。(注1)

【注1】日本は、稲作を基本としているが、水田耕作にとって不可欠な牛馬は輸入した貴重な役畜であった。このため600年代以降、時の政権は牛馬のと畜、食肉を禁止した。

<近世の皮多>

15世紀後半から、日本は、「戦国時代」に突入する。戦国大名は、鎧甲等重要な武具の材料である皮革を安定的に確保するために、城下に皮革職人を集め住まわせた。これらの人びとは「皮多」と呼ばれることが多かった。「皮多」の人びとは死牛馬の処理をし、皮革を製造し戦国大名に上納した。

1600年頃から、日本の封建制は後期封建制の時代に移行(徳川幕藩体制)し、中央集権的な様相を強め、身分制度を強固なものとした。こうして中世の「河原者」などの被差別身分の人びとや、「かわた」などの皮革職人たちの居住区が、被差別部落として制度的に固定され、一般に皮多村と称された。「皮多」と呼ばれた人びとは、皮革の製造や雪駄と呼ばれる履き物製造などに取り組むとともに、荒れ地を開墾するなど農業などにも力を入れていった。また、役負担としては、徳川幕府や諸大名から皮革の上納とともに牢番、犯罪の取り締まり、刑の執行の際の下級刑吏としての任務が命じられた。

徳川幕藩体制のもとで、商品経済が発展していき、次第に身分制にほころびが生じてきた。これに対する反動として、法制面で身分制は強化され、被差別部落地区を竹垣などで囲むこと、服装や髪型などにも規制が加えられた。

死牛馬の処理、皮革の製造を命じられたり、それらを中心的に担ってきた「皮多」と呼ばれた人びとは、徳川幕藩体制下では、「穢多」と呼ばれることが多くなってきた。以前は、被賤視されるだけでなく畏敬の面でも見られていたが、この時代になると被賤視の面に加えて不浄視の面が強まった。また、死牛馬の処理や皮革の製造以外の芸能に従事していた人びと、さらには何らかの理由で農村を離れ都市に流入してきた人びとは、「非人」等の身分に位置づけられた。

徳川幕藩体制下では、身分、職業、居住地は三位一体であり、身分を超えた結婚や身分間の移動は原則として禁止されていた。但し、「非人」は、「穢多」身分よりは、地域によっては下位に位置づけられていたが、一定の条件を満たせば町人や百姓等もとの身分に戻ることができた。

徳川幕藩体制も末期の1800年代にはいると、身分制の引き締めに対する被差別部落の人びとの抵抗運動(1856年の「渋染め一揆」など)が見られるようになってくる。また、徳川幕藩体制を打倒する討幕運動が活発になり、内戦状況が生じてくるが、その中で、被差別部落の人びとは、身分解放と引き替えに様々な活躍(1863年、長州藩の「維新団」や「一新組」など)をするようになる。

<明治維新と部落>

1867年 明治維新が行われ、徳川幕藩体制が倒れ日本は近代社会への参入を開始した。1871年、徳川幕藩体制下にあった賤称が廃止され、身分職業とも平民と同様であることを謳った公布が布告(「賤称廃止令」)された。しかしながら、およそ260年に及ぶ幕藩体制下で定着させられてきた差別意識を払拭するための教育・啓発は実施されなかったし、被差別部落の人びとが、伝統的な職業以外の職業に進出していくための方策も講じられなかった。他方で、伝統的な部落産業であった皮革産業や、新たな産業として登場してきた食肉産業に大資本が参入してきた結果、被差別部落の人びとの貧困化は急激に進行した。この結果、被差別部落の人びとの多くは、農村部では、ごくわずかの農地しか持たない小作として、都市部では、日雇い労働で生計を維持する停滞的失業者として生活することを余儀なくされた。

その一方で、明治政府は、天皇を頂点とする貴族制度を創設した。新しく創設された身分制度のもとで、被差別部落の人びとは、社会的に、当初は、「元穢多」、「新平民」、やがて、「特種(特殊)部落民」と呼ばれ、就職や結婚、日常生活上の交際等において差別されることとなった。

<全国水平社の創立と闘い>

国内的には「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義の確立を求める運動、国際的にはロシア革命や国際連盟下で高まった民族自決を求める運動の高まりに影響されて、1922年3月3日全国水平社が創立された。この全国水平社創立大会で採択された「水平社宣言」は、日本における最初の「人権宣言」と高く評価されているが、「人間はいたわるべきものではなく、尊敬すべきものであること」を明らかにし、全ての人びとが光り輝く存在として解放されることをめざしたものである。

全国水平社は、当時日常的に公然と存在していた差別の不当性を指摘する闘い=「糾弾闘争」を果敢に展開した。これは、軍隊内や裁判における差別にまで及んだ。全国水平社の運動に押されて時の政府は部落を改善するための予算を計上し、住宅の改善や道路の拡幅等一定の改善事業を実施した。しかし、それは全国水平社の運動のない部落に事業を実施する等全国水平社の盛り上がりを牽制する目的を持って行われた。

政府は、部落差別に基づく差別行為を法的に禁止しない一方で、全国水平社の差別に対する抗議行動としての糾弾闘争を犯罪視し弾圧した。

政府は、1935年を起点とする「部落問題を解決するための10ヵ年計画」を策定し実施し始めたが、日中戦争から太平洋戦争へのめり込む中で立ち消えとなった。戦時体制下で、全国水平社への弾圧は厳しく、最後まで抵抗したものの、ついには戦争に協力することを強いられることとなった。痛恨の歴史である。

<敗戦と運動の再建>

1945年8月、日本は、周辺諸国に多大な被害を与え、自らも原爆の投下に象徴される被害をこうむり敗戦した。この戦争を深く反省することの中から、1946年11月、戦争放棄、主権在民、基本的人権の尊重を原理とする日本国憲法が制定された。この憲法の第14条では、「人種、信条、性別、社会的身分または門地に基づく差別」が否定され、第24条では、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」することが明記された。これらの条文は、1946年2月に再建された部落解放全国委員会のリーダーたち、特に松本治一郎委員長(初代参議院副議長、1887年-1966年)の働きかけもあって盛り込まれたものであった。

憲法には、部落差別を一般的に否定する条項が盛り込まれたが、これを具体化するための法制度の整備はなされなかった。このため、部落差別は撤廃されなかった。それのみならず、敗戦後の混乱の中で、多くの被差別部落民の生活は困窮を極めた。

1951年10月、京都の被差別部落を舞台にした差別小説が掲載されるという事件が発生した。(オール・ロマンス糾弾闘争)この差別事件を糾弾する過程で、被差別部落の劣悪な住環境と、被差別部落民のおかれている無権利な生活実態が明らかにされていった。この小説が、京都市の臨時職員によって書かれたこともあって、京都市の責任が鋭く問われることとなった。この事件に対する糾弾闘争の中から、1.差別事件が生じてくる背景には部落と部落民が置かれている劣悪な実態があること、2.この実態の改善なくしては部落差別の撤廃はおぼつかないこと、3.そしてその実態を放置し続けてきた責務は差別行政にあることが明らかにされた。この事件を反省することの中から、一般施策では部落差別の実態の改善ができないため、京都市は部落の実態に見合った特別の施策を本格的に開始することとなった。この施策の中には、部落の住環境の改善、地域のセンターの設置、義務教育未就学者の根絶等が含まれていた。(尚、この部落には在日韓国・朝鮮人も居住していて、被差別部落民と同じように劣悪な状況下におかれていた。また、差別小説にも在日韓国・朝鮮人が差別的に描写されていた)

<部落解放同盟への改称と行政闘争>

京都におけるこの戦いの経験が、全国に広まっていった。その中で、いくつかの自治体で、部落問題を解決していくための審議会が設置されるとともに、総合調整・企画立案を担当するセクションが設けられた(同和対策部・課、同和教育課など)。やがて、地方自治体の取り組みだけでは、財政面や制度面などで限界があることが明らかになってきた。

一方、部落と部落民がおかれている劣悪な状況を改善する戦いに部落解放運動が取り組むことによって運動に参加する部落大衆が増加し、1955年8月、部落解放全国委員会は部落解放同盟と名称を変更した。

1958年1月、部落解放同盟はもとより、労働組合や地方自治体の代表者等が東京に集まり、部落問題を解決するために国の取り組みを求める運動が本格的に開始されることとなった。(国策樹立請願運動の開始)1960年8月、国として部落問題解決に取り組むために専門家の意見を聞く機関として内閣同和対策審議会を設置するための法律が制定された。その後、国策樹立を求めた九州から東京までの全国大行進に代表される闘いが展開された。

<「同対審」答申と「特別措置法」に基づく施策の実施>

1965年8月、内閣同和対策審議会は時の内閣総理大臣に対して答申を提出した。この中で、部落問題が日本社会におけるもっとも深刻な社会問題であることが指摘されるとともに、「この問題の早急な解決の責務は国にあり、同時に国民的課題である」ことが明らかにされた。そして「答申」は、部落問題を解決するために、1.住環境面の改善、2.社会福祉の増進、3.教育の向上、4.産業・職業の安定、5.人権の擁護(差別に対する規制・救済を含む)等の総合的な取り組みと、これを裏付ける法制度の整備の必要性を指摘した。

1969年7月、同和対策事業特別措置法が制定された。この法律の特徴は、同和対策事業を実施するに当たって、国が地方自治体に対して特別の財政的な支援をすることを定めたものであった。この法律は、被差別部落の住環境面の改善には役立つものではあったが、差別意識を撤廃するための教育・啓発については位置付けが弱く、差別事件を禁止するとともに差別の被害者の効果的救済に関する条文は盛り込まれていなかった。1974年4月には、総理府の中に、総合調整・企画立案機能を持った同和対策室が設置された。(後に総務庁内の地域改善対策室に改組)

2002年3月末まで、名称や内容の変更を伴いながら一連の「特別措置法」に基づき、部落問題を解決するための施策が実施された。この結果、1.被差別部落の道路、住宅などの住環境面の改善は前進した。2.また、地域のセンターや保育所(大規模部落では、青少年会館、老人センターなども)が整備されていった。3.高校進学率も「答申」が出されたころは、全国平均の半分(75パーセントに対して40パーセント程度)程度であったものが、4ないし5ポイントの差(95パーセントに対して90パーセント)まで接近した。

2002年3月末で、33年間続いてきた「特別措置法」に基づく特別施策による部落問題解決の方式は終了した。しかしながら、このことは、部落問題が解決したことを意味するものではない。

<1996年5月「地対協」意見具申による提案>

1996年5月、国の諮問機関である地域改善対策協議会から、今後の同和問題解決に向けた基本方策に関する意見具申が出された。この中では、同和問題に関する基本認識として、1.同和問題はこれまでの取り組みによって解決に向けて進んでいるものの依然として日本における重大な社会問題であること、2.同和問題をはじめ日本に存在する人権問題の解決は国際的責務となってきていること、3.同和問題の解決の責務は国にあり、同時に国民的課題であるとした1965年の同和対策審議会答申の基本精神は、引き続き踏まえる必要があること、4.同和問題を人権問題という本質から捉え、解決に向けて努力する必要があること、5.同和問題解決にむけた今後の取り組みを人権にかかわるあらゆる問題の解決につなげていく必要があること、が指摘された。

さらに、同和問題の現状として、1.住環境面の改善はおおむね解決されてきた、2.被差別部落民のおかれている教育、産業・労働面の実態はなお格差が存在していること、3.差別意識は解消へ向けて進んでいるものの結婚問題を中心に根深く存在していること、4.差別事件はなお継続しており、それに対する現行の救済制度等には不十分な点があること、5.(実態に見合った施策にするなど)適正化対策が不十分であること、が指摘された。その上で、同和問題の解決に向けて今後求められる基本法策として、1.教育、産業・労働面等でなお残されている格差の是正に取り組むこと、2.差別意識を撤廃するために教育・啓発を推進すること、3.差別事件を根絶するために人権侵害救済等に取り組むこと、4.施策の適正化に取り組むこと、の4点が提起された。

<部落解放基本法の制定を求めた運動の展開>

一方、部落解放同盟を中心とする部落問題の根本的な解決を求めた人々は、「特別措置法」に基づく取り組みでは限界があるため、1985年5月、部落解放基本法案(資料2.)を発表しその実現を求めた取り組みを開始した。この基本法案の内容は、1.部落問題解決の重要性を明らかにした「宣言法的部分」、2.部落と部落民がおかれている劣悪な実態を改善するための「事業法的部分」、3.悪質な差別を禁止するとともに被害者の救済を定めた「規制・救済法的部分」、4.差別意識を撤廃していくための「教育・啓発法的部分」、5.国と自治体に部落問題を解決していくためのセクションを設置するとともに専門家の参画を得た審議会を設置することを定めた「組織法的部分」、の5つの構成部分から構成されている。この基本法案は、先に紹介した内閣同和対策審議会答申と国連の採択した人種差別撤廃条約の考え方を踏まえたものである。

<「人権教育・啓発推進法」の制定>

1996年12月、人権擁護施策推進法が制定された。(5年間の時限立法)この法律では、1.部落差別をはじめあらゆる差別を撤廃し人権侵害を撤廃するためには、人権教育・啓発の推進と人権侵害の救済が必要であること、2.人教育・啓発の推進と人権侵害の救済が国の責務であることが明確にされるとともに、3.これらのより効果的な推進方策を検討するために人権擁護推進審議会が設置することが盛りこまれた。

1997年5月、人権擁護推進審議会が設置され99年7月、人権教育・啓発のあり方についての答申が出された。この答申では、人権教育・啓発の推進に際して国が行・財政的な措置をすることの必要性は盛りこんだものの、法的措置の必要性まで踏み込んだものではなかった。

しかしながら、本格的に人権教育・啓発を推進していくためには、法的根拠を明確にする必要があるとの世論が、部落解放基本法の制定を求める人々を中心とした取り組みによって盛り上がり、2000年12月、「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」が公布・施行された。この法律は、1.部落差別をはじめあらゆる差別と人権侵害の撤廃を目的に、2.あらゆる分野で人権教育・啓発の推進を求め、3.国、自治体、国民の責務を定め、4.基本計画の策定と年次報告の提出を求め、5.国の自治体への財政的支援を盛りこんでいる。この法律は、部落解放基本法案に盛りこまれた「教育・啓発法的部分」が、人権という広がりをもって実現したものである。

<「人権侵害救済法」の制定を求めた闘い>

人権擁護推進審議会から、2001年5月に人権侵害救済制度のあり方に関する答申、同年11月には人権擁護委員制度のあり方についての追加答申が出された。これらの答申の中で、日本においても人権委員会を設置することが必要であること、現行の人権擁護委員制度の改革が必要であることが指摘された。

2002年3月 人権擁護法案(資料4.)が、閣議決定され通常国会へ上程された。この法案には、新たに人権委員会を設置することが盛りこまれた。しかしながら、この人権委員会が、1.法務省の影響下におかれたもので独立性がないこと、2.中央レベルの人権委員会だけで実効性に問題があること、3.マスメディアも一定の強制力を持った調査の対象に盛りこまれたことによって、メディアの取材や報道の自由を脅かす危険性があること、等の問題があり、抜本修正が各方面から求められた。

この人権擁護法案は、1993年に国連総会で採択された国内人権機関の設置に関する原則(パリ原則)にもとるものでもあった。部落解放基本法の制定を求めた人びと、日本弁護士連合会、マスコミ関係者、地方自治体関係者等によって、人権擁護法案の抜本修正を求めた粘り強い働きかけが展開されたが、2003年10月、衆議院が解散され総選挙が行われることとなったためこの法案は廃案となった。

今後、人権擁護推進審議会からの答申、パリ原則、さらには人権擁護法案の抜本修正に向けたこれまでの議論の積み上げ等を踏まえ、真に差別撤廃と人権侵害の救済に役立つ法律の早期制定が求められている。なお、この取り組みは、部落解放基本法案に盛りこまれた「規制・救済法的部分」の実現に関わった課題である。

<一般施策(改変、創設含む)を活用した部落の実態の改善>

被差別部落の人びとの教育や産業・職業面で残された格差は、今後一般施策を活用して是正されていく必要があるが、このためには、1.これまで「特別施策」として実施されてきたものを一般施策へと移行すること、2.既存の一般施策を改善し、部落差別の実態を改善できるようにすること、3.新たな一般施策を創造すること等が求められている。この内、1.については、2002年4月以降、高等学校へ行くための奨学資金制度に関して、従来「特別施策」と実施されていたものが、一般施策へと移行して継続されることとなった。

<人権尊重のまちづくり運動の展開>

部落差別が、優れて地域に対する差別であるという特徴(注2)を考えたとき、被差別部落に住む人々とその周辺地区に住む人々との連帯を構築していくことは、極めて重要な意義を持っている。

注2 2000年11月、大阪府によって同和問題を解決するための実態調査が実施された。その中で、大阪府民に、「世間では、どのようなことで『同和地区出身者』と判断していると思いますか」を訊ねたところ、「本人が現在、同和地区に住んでいる」(56.5%)が最も多く、「本人の本籍地が同和地区にある」(47.9%)、「本人の出生地が同和地区である」(44.3%)、「父母あるいは祖父母が同和地区に住んでいる」(39.2%)、「父母あるいは祖父母の本籍地が同和地区である」(37.3%)と続いている。ちなみに、「職業によって判断している」は22.1%にとどまっている。(回答は複数回答)このことから、今日、部落差別は、優れて地域に対する差部となってきていることが分かる。

このことの重要性は、「ねたみ差別」の克服が重要な課題となってきていることからも指摘できる。これまで、部落と部落民がおかれている劣悪な実態が、部落差別の原因と考えられてきた。しかしながら、「特別措置法」を活用した取り組みによって部落差別の実態が一定改善されてきても、差別がなくなるどころか「なぜ部落ばかり良くなるのだ。われわれの方が逆に差別されているではないか」という「ねたみ差別」(「逆差別」)意識が生じてきたのである。このことは、部落は、劣悪な状況にあればあれで差別され、良くなれば良くなったで差別されるという部落の人々と部落外の人々とがおかれている関係性の中に部落差別の原因が存在していることを教えている。このことをふまえて、「ねたみ差別」が生じてきた原因を分析すれば、1つの原因は、なぜ「特別の施策」を実施してきたかについての教育・啓発が決定的に弱かったことにある。もう1つの原因は、部落の周りに、部落とさほど変わらない困難な状況におかれている人々が存在していたことによる。このことをふまえるならば、「ねたみ差別」を克服するためには、教育・啓発を強化するとともに、部落が良くなるとともに部落とさほど変わらない状況に置かれている周辺地区の人々の状況も改善するための取り組み=「人権尊重のまちづくり」が必要であることが分かる。

こうした観点から、近年、部落解放運動は、「人権尊重のまちづくり運動」を展開してきている。これは、被差別部落を含む小学校区域、若しくは中学校区域全体を人権が尊重されたまちに作り替えていくための運動である。このためには、被差別部落の人々だけでなく周辺地域の代表も参加した「まちづくり委員会」が組織され、当該地区の住環境面の改善のみでなく、生活、教育、産業・職業の安定に向けた総合的な計画が策定されてきている。

<部落差別撤廃・人権条例の制定と具体化>

2000年4月、地方分権一括推進法が施行された。このことによって、日本の国と自治体の関係は質的な転換をし始めている。明治維新以降2000年4月までの日本は、中央集権上意下達型社会であった。つまり、大多数のことがらが国が決定し、地方自治体は、これに従っていたのである。しかしながら、この法律が施行されたことによって、国と自治体の関係は法的には対等の関係となり、これまで国が行っていたいくつかの事業は自治体にゆだねられることとなってきた。つまり、分権型社会への転換である。もっとも、税財政面の分権化が今後の課題として残されているが・・・。

このため、部落解放運動は、自治体に対する働きかけを強め、2008年6月時点で、420に及ぶ自治体で、部落差別撤廃・人権条例、人権尊重のまちづくり条例が制定されてきている。この条例を活用し、いくつかの自治体では、実態調査の実施、審議会の設置、審議会からの答申、基本方針や基本計画の策定が行われてきている。また、人権室や人権教育課など人権行政や人権教育を推進していくためのセクションが自治体内に設置され、それらの重要な柱に部落問題の解決が位置付けられてきている。

<実態を明らかにし、総合的な計画策定が必要>

一方、政府は、2003年4月以降、それまで総務庁の中にあった地域改善対策室を廃止してしまった。しかしながら、部落差別の実態、自治体の取り組み等を踏まえたとき、政府としても、1.今日の部落差別の実態を明らかにするための調査を行うこと(1993年11月以降、政府は実態調査を実施していない)、2.内閣府の中に部落問題が解決するまで総合的な施策を実施していくために総合調整・企画立案機能を持ったセクションを設置すること、3.部落問題の根本的な解決に向けた基本方針と基本計画を策定すること、4.自治体レベルの部落問題解決に向けた取り組みを支援すること、5.特に、「人権尊重のまちづくり」を支援すること、6.以上のことを効果的に推進していくための法整備を行うことが求められている。

〈国連の人権活動との連携〉

1970年代の後半に入り、部落解放運動は、国連の人権活動との連帯を本格化させ、国際人権規約の批准運動に取り組み1979年6月に批准を実現した。その後、人種差別撤廃条約の批准運動にも取り組み1995年12月に加入を実現した。その後、これらの条約を活用し部落問題をはじめとして、日本に存在する差別問題、人権問題の解決に向けた取り組みを強めてきている。

1988年1月、全世界から一切の差別を撤廃することをめざして反差別国際運動(IMADR)が結成されたが、その際、部落解放同盟とともに部落解放研究所(当時)が大きな役割を果たした。

反差別国際運動を始めとする国際人権NGOの活動によって、今日、日本の部落差別は、インドをはじめ南アジア各国に存在しているダリットに対する差別、さらにはアフリカにも存在する同様の差別とともに「世系(descent)に基づく差別」あるいは「職業と世系に基づく差別」として把握され、これらの差別が国際人権法によって禁止される差別であることが明らかにされてきている。

こうして、21世紀に入った今日、部落問題の解決は、全国民的な課題であるのみならず、国際的な課題としても注目されるところとなってきている。


【用語解説】

1.差別を受けている地区・・・被差別部落(行政用語では同和地区)

2.差別を受けている人・・・被差別部落民(行政用語では同和関係者)、被差別部落出身者(被差別部落を出て他の地域で暮らしている人びとのこと、行政用語では同和地区出身者)

3.被差別部落の箇所数等、

3-1 1993年総務省地域改善対策室による同和地区実態把握等調査結果による
    同和地区数・・・4,442地区
    同和関係者数(もともとの居住者数)・・・892,751人
    同和地区居住者(来住者数を含む)・・・2,158,789人

3-2 部落解放運動関係者、部落問題の研究者の主張
    被差別部落数・・・6,000カ所
    被差別部落民及び被差別部落出身者数・・・300万人

【注】1993年の政府の実態調査結果は、地域改善対策特別措置法を適応していた対象地域に限定したもので、諸般の事情でこの法律が適応されていない被差別部落は少なくない。ちなみに、1975年11月に発覚した「部落地名総鑑」には、およそ5,300カ所の被差別部落が掲載されていた。