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意見・主張
 
研究所通信277号より
掲載日:2001.9
提言

小泉首相の差別発言に抗議する

内山一雄(部落解放・人権研究所識字部会部会長)

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 去る7月26日、あなたは街頭演説で「乞食でも字が読める。ホームレスでも」という発言をしたことが報じられています。あなたの弁明によれば、教育の大切さを言いたかったということですが、やはり私たちは、このことを見過ごすことはできません。

 第一に、いうまでもなくこれは「乞食」「ホームレス」と名指しされた人々に対する偏見と差別に基づく発言以外の何ものでもありません。「〜でも」の表現の中に、一般に社会的に低位と見なされる人々に対する冷たい眼差しが窺えます。

「〜でも」に傷つく人々の痛みに思い及ばずして、「痛み」を説く「改革」などできるでしょうか。「ついうっかり」の発言として、見過ごすわけにはいきません。政治家にとって言葉は、命です。何故ならば、言葉は思想を表すからです。首相としてのあなたの猛省を強く促します。

 第二に、更に、報道によれば、あなたは教育の大切さを説くあまり、発展途上国に比して「日本では、殆どの人が国民が字が読める」と述べています。しかし、これは正しくありません。あなたは、「識字」ということをご存じでしょうか。

私たちは、永年、被差別部落を初めとする識字運動に取り組んできた体験から、文字の読み書きに不自由している人々が、決して少なくないことをよく知っています。例えば、不就学または義務教育を殆ど受けていない人々が、120万人〜170万人もあるという調査(夜間中学増設運動全国交流集会編『ザ・夜間中学』〈開窓社、1986〉)などがその実態を示しています。

 国連が決議し1990年から10年間、全世界を挙げて取り組まれ、日本に於いて現在も推進されている「国際識字年」の運動について、あなたが少しでもご存じであれば、こんな発言はなかったことでしょう。更に、国連を中心に日本でも取り組まれている「人権教育のための国連10年」の運動は、「識字」を最も重要な課題の一つとしており、その日本における実施最高責任者は、首相、あなた自身なのです。不明を恥じて然るべきではないでしょうか。

 第三に、あなたの発言は、「乞食」「ホームレス」と名指しされた人々を貶める発言であると同時に、文字の読み書きの不自由な「非識字者」をさらに低位に位置づけ、蔑視する発言であり、そこには「識字者」の傲慢さが仄見えます。教育があるとされる者の落とし穴ではないでしょうか。差別意識とは、こうして形成されるものでしょう。

 あなたの発言を、もっとはっきり言えばこうなります。「乞食でも字が読める。ホームレスでも−ましてや他に文字の読み書きのできない人なんて日本にはいない。」しかし実際にはたくさんいるそのような人たちにとって、あなたの発言はどう響くでしょうか。

ただでさえも非識字ゆえに不利益を被り辛い思いをしてきた人たちに、「文字の読み書きができない自分はなんと恥ずかしい存在なのだろう」と思わせるに十分ではないでしょうか。ホームレスの人たちに対する社会一般の差別意識に訴えかけ、『文字の読み書きができないのは、ホームレスよりも恥ずかしいことなんだ』と思わせることは、文字の読み書きを学びたいと願っている人たちに、自分が読み書きができないことを口に出せなくさせ、文字を学びたいという思いを封じてしまいさえもするでしょう。

 いうまでもなく、「非識字者」の存在の主要な原因は、差別と貧困といえるでしょう。そこから、文字を、教育を、生きることを奪ったものを見つめ、それとの闘いを通して文字を自らのものにする識字運動が始まったといえます。この意味で、寧ろ「識字者」の方こそ「非識字者」に学ぶべきではないでしょうか。あなたには、このような視点が抜け落ちていることが残念です。

 第四に、あなたは、「米百俵」に見られる教育の大切さを強調する余り、教育の無い者、文字を持たない者を見下げ、マイナスイメージで見ているようです。それが、先の誤った発言に結び付いているのでしょう。しかし、それは、正しくありません。

 例えば、「ジプシー」(差別語)と呼ばれるロマの人々やアイヌ民族の文化はもともと文字を持たない独自のものだといわれています。そこには、ユーカラなど豊かな口承文化があり、被差別部落の「語り」の文化に通じるものがあります。

つまり、文字を必要とする文字社会の文化があれば、もう一方には文字を必要としない無文字社会の文化もあり、それぞれ固有の文化である両者に優劣は無く対等であるべきでしょう。教育であれ文字であれ、持てるものの立場からのみ論じることが無意識の差別につながるのです。

 以上のように、教育や、文字の必要性を論じるとき、少なからず「非識字」の存在の意味を忘れてはなりません。エレベーターやエスカレーターなど身体障害者に対するバリアフリーが必要なように、非識字者に対するバリアフリーも必要でしょう。公共施設の易しい掲示、漢字のルビ、出来るだけ文字に頼らない案内表示など、いわば、情報化社会の情報弱者の「痛み」に対するセーフティーネットと言えるでしょう。

 私たちは、今回の問題を通じて、図らずも明らかになった首相であるあなた自身の差別性に対して抗議するとともに、「小泉改革」視点の在り方、それが目指す方向、それが説く「痛み」の意味するところを問い質すものです。