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解放教育 úY420号より
掲載月:2002.12月 
「解放教育の三つのモデル」

池田 寛(大阪大学)


 学力が子どもが背負っている社会階層的・社会文化的な背景によって大きく規定されることは、統計的なデー夕が示すとおりである。志水氏らは、不利な社会経済的背景をもつ子どもが多く通っているにもかかわらず、学力水準の高い学校を「効果のある学校」と呼び、それをこれからのあるべき学校像として提示している。

 問題を学力にしぼりその側面から学校を評価した結果、「効果のある学校」がモデルとして浮かび上がってきたのである。その論旨からすると、それなりに論理的な帰結だと言えるだろう。しかし、いわゆる「ゆとり教育」批判として学力低下論が叫ばれ、学校が本来果たすべき学力形成が行われておらず、学校はいまや機能不全状態に陥っているというその主張、そしてその主張が拍手をもって受け入れられている社会的文脈を考えると、「効果のある学校」モデルを追求するだけでいいのだろうかという疑問が頭をもたげてくる。

 20年あまりのあいだ解放教育は一つのモデルを追求してきた。それを「デモクラティック・スクール」と呼ぶことにしよう。社会における不平等や権力関係は学校内の人間関係にも反映する。そのことに頓着せず形式的な平等を唱えているだけだと、支配的な立場にある社会集団の価値や基準が学校の中でも優位を占め、有利な立場にある者はますます有利に、不利な立場にある者はますます不利な状態になり、不平等や差別の再生産が行われる。解放教育は学校の持つその差別的体質を告発しそれに闘いを挑んできた。「しんどい子どもを核にした集団づくり」「差別を見抜き、差別と闘う子ども」といった実践課題に取り組み、学校を民主的な場とすることをめざしてきた。子どもどうしの関係、子どもと教師の関係、教師どうしの関係といった日常性の中に、差別や不平等や抑圧構造を再生産する要素が隠れていることを反省的にとらえ返し、それを変革する道を追求してきた。

 「デモクラティック・スクール」が従来の学力観に対して「解放の学力」を対置し、既存の学校的価値にかわる価値と目標を提起することによって学校文化を総体的に変えていこうとするのに対して、「効果ある学校」は学力の中味は問わない。既存の学力概念を前提として、一定の基準を達成するための学校の条件を明らかにし追求しようとするところに特徴がある。「効果のある学校」とは、マイノリティの子どもが通うアメリカの学校を対象にした調査から導き出されたモデルである。

 学力を一定のレベルにまで伸ばしきれない教師の指導力やモラール、管理職のリーダーシップ、学校のふんいきといったことに焦点を当て、学校が、社会的に不利な立場にある子どもの学力を上げるという目標を掲げ、それに向けて体制を整えていけば学力は上がる、その力を学校はもっているということを「効果のある学校」論は訴えかけた。そこでめざされているのは学校の評点や標準テストの成績で示される学力の向上である。社会的に不利な立場にあるマイノリティの子どもたちの学力向上ということに力点が置かれているとはいえ、尺度としているのはあくまで既存の学力である。

 子どもが学校での学習を通じて身につける知識や技能としての学力は、学校教育の目的として重要なものであり、それを否定することは学校の存在理由を否定することに等しい。「解放の学力」論が、受験学力を批判することに性急になりすきた結果、学歴を身につけ職業生活に必要な知識や技能まで否定することになってしまったことの反動として、「効果のある学校」モデルが支持されたと考えられる。しかし、学校で身につけなければならないのは学力だけではない。学力形成だけが学校の追求すべき目標だということになると、個々の学校そして個々の子どもは学力競争に駆り立てられ、その競争のもとで勝者と敗者に分けられることになる。学力を至上価値とすることは、子どもの人間性まで無視した受験競争・受験加熱と結局は同じ結果を招き、いかなる理由をつけてもそれと一線を画すことは不可能になる。「効果のある学校」を解放教育のモデルとして追求することに対する危惧がここにある。

 学校には、学力の形成だけでなく公共的な目的もあるはずである。学力の形成も、そのことによって個人の職業能力を高め経済的な発展や技術革新を可能にするという意味で、公共的な目的に寄与することになるではないかという反論もある。しかし、学力というのは個人の能力の実現であり、その成果は個人に属するものだ。それをどう使うかはあくまで個人の意思にまかされている。それを社会全体の幸福のために使うものもいれば、個人的な利潤追求のために使うものもいるし、他者を支配するために使うものもいる。学校が担っている学力形成という目的と公共的な目的とは別のものとしてとらえるべきだろう。 

  「デモクラティック・スクール」「効果のある学校」と並んで、学校の公共的な目的を重視した第三のモデルを提示しておこう。それは「協働的学校」モデルである。「協働的学校」は、既存の価値や文化の変革をめざすという点で「デモクラティック・スクール」と同じ立場に立つが、それが俎上にのせ批判するのは支配階級のイデオロギーや価値だけではない。社会全体に浸透している個人主義的な価値観や功利主義的な価値観や目標がその主要なターゲットであると言ってよい。また、「効果のある学校」が学力の向上をその主要な目標としているのに対しで、「協働的学校」は、学校教育の目的を公共性の育成に置く。教育の目的の一部である学力向上に学校教育の目的を狭く限定することは、学校を経済的な目標実現のための手段とし、効率を学校に押しつけることにつながるからである。社会制度としての学校には、学力や個性の開花といった個人的な目的だけではなく、公共的な目的があるはずである。自分一人の目標を追求するのではなく、社会のために、他の人びとのために、自己の責任を果たしていこうとする精神や、まわりの人びととともに共通の価値の実現のために義務を果たそうとする道徳を育成することこそ、そして、そのような市民性を備えた人びとによって構成される共生的なコミュニティを育んでいくことこそ、公的な制度としての学校の役割なのではないか。

 価値観の転換や文化の変革に取り組み、公的な使命を遂行する市民の育成をめざすのが学校の役割だという主張は、「デモクラティック・スクール」にも共通しているが、後者が意図するようにその課題は学校だけで達成できるわけではない。「協働的学校」は、学校単独で社会を変えるのではなく、学校を取り巻く家庭やコミュニティも巻き込んでその実現をはかっていこうとする。コミュニティという文脈を放置して、あるいは、それから切り離されて、学校の中だけで、公共心を教えることはできないし、そのような環境の中で子どもは本当の意味で協同や連帯や相互扶助の大切さを学ぶはずはないからである。共生の精神は、学校の中と同時に、学校の外でも育まれなければならないし、学校とコミュニティの間の協働的営みを通しても育まれる。この意味で、協働的学校は教育的コミュニティ(educative community)と同義なのである。

 三つのモデルは、理論的には相互に排除し合う異質なものを含んでいるが、現実の学校はこれら三つのモデルを同時に追求していかなければならないし、この三つの糸のバランスの上に具体的な教育実践の織物を編み込んでいかなければならない。