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2004.05.14
意見・主張
  
対談  反差別をともに生きる
  松岡とおる部落解放同盟中央書記長と神美知宏全療協事務局長が2004年3月5日、大阪・人権センターで対談した。ハンセン病元患者への宿泊拒否問題から話の口火は切られた。

松岡 とおる  (まつおか・とおる)

 1951年、大阪市西成区で生まれる。進学の年に育英資金ができて高校入学。しかし就職試験で露骨な差別をうけ、1975年に部落解放運動に飛びこむ。
 1991年、大阪市会議員に初当選。
 1998年に部落解放同盟大阪府連委員長、2002年に部落解放同盟中央書記長に就任。
 現在、人権立国ニッポン宣言をもとに全国で訴えている。

神 美知宏  (こう・みちひろ)

 1934年、福岡県で生まれる。1951年3月に香川県の大島青松園に入所。
 1960年から<1>入所者の人権、尊厳の確立、<2>偏見と差別の撤廃と社会復帰の促進、<3>入所者の医療、福祉など待遇改善を求めて、自治会役員として活動をはじめる。
 1995年から全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長に就任。

―― 昨年11月、ハンセン病元患者の方がたの「ふるさと訪問事業」で、熊本県の黒川温泉のホテルへ、県の方から宿泊したいと申し込んだところ、ハンセン病元患者とわかったとたんに宿泊を拒否するという事件がおきました。

こういう問題が起こったときに、私は少しも驚かなかった。いろんな動きはあったけれども、基本的に日本社会のなかから、ハンセン病にたいする偏見とか差別は、まったく解消されていない、もう固定観念となってしっかり根付いてしまっているという印象を受けていましたので。

  たまたま氷山の一角として、表面に出てきたということです。

―― そうですね。

たんなる宿泊拒否という問題に矮小化して考えるべきじゃない。日本の社会全体の問題として、象徴的にそういう問題が起こったという認識を、まずもつことが必要じゃないのか。

  ちょっと話が違いますが、今ほど人権という問題が、大合唱されている時代は、かつてなかったんじゃないか。人権ということが、きちっと認識され、国民一人ひとりが問題意識をもっているなら、宿泊拒否という問題は起こらなかったと思うんです。

―― 宿泊拒否の論理は、ホテル側の「ほかのお客様が、みなさん納得していただけるのであれば」という言葉。また、菊池恵楓園の方がたへ誹謗・中傷メールがたくさんきたわけですけれども、これにたいするホテル側の「これが日本の現実です。理想は理想として、私たちは現実にも目をやらなければならないのではないでしょうか」との言葉も居直りです。これは、差別が存在する現状を、限りなく肯定するという論理になっていると思うんです。これは、現状を変えようとする気がないんですね。部落差別でも、こういう論理が使われますよね。

松岡 30年近く前に、『部落地名総鑑』が発覚した。その多くを日本の大手企業が購入し、就職のさいに部落出身かどうかを履歴書と符合させ排除していた、ということが明らかになりました。

  糾弾闘争のなかで、企業自身が部落問題解決のために、積極的な役割をはたしていかなくてはならないという立場で、全国的に同企連(同和問題にとりくむ企業連絡会)が組織されてきました。それぞれの企業の人事の担当者が中心になって、自分たちの会社で研修をしていくんです。

  研修リーダーになってる人が、会社では社員に「部落差別はあってはならない、してはいけない」という研修をしていながら、自分の娘が部落の人間と結婚するということになったとたんに差別をする側にまわるんですね。「厳しい差別が存在することを、肯定的にとらえる」ことは、結果的に、差別社会をつくり出していく原因になるんですね。そこから、一歩踏み出さなかったら、差別はなくならない。

  今回の黒川温泉のことも、宿泊拒否をしたホテル側が、結局、「社会の責任」あるいは「熊本県行政の責任」にしていっているのは、まさに差別を容認するという立場に他ならないんだと、私は率直に感じました。

―― 神さんは、この事件を聞かれたときに、どう思われましたか。

私は北海道から九州まで、ハンセン病を正しく市民に認識してもらうために、講演活動をしています。このなかで痛感をしているのは、市民がハンセン病問題はもう解決したと思っている、ということです。

  1996年に「らい予防法」は廃止になった。熊本地裁の裁判が始まる前までは、市民の認識のなかには、すでにハンセン病問題は、まったく消えてしまっていた。これは無関心ということと、表裏一体のものですけれども。そして、2001年5月に熊本地裁で国のハンセン病政策は憲法に違反をしていた、間違っていたことを厳しく断罪し、国の責任を認める判決が出た。ハンセン病問題がクローズ・アップされたけれども、今はもう一段落したんではないか、という印象を受けている市民がひじょうに多いと感じた。

―― そうですね。

差別ということを議論するときに、総論と各論というふうに分けて整理をする仕方があると思うんです。日本国民のほとんどの人が、「人が人を差別することは、あってはならない」と総論的に認識していると思う。それが、いったん各論になり、自分の身内とかつて患者であった家族との縁談がもちあがったときに、総論的な「差別をしてはならない」と考えていた人たちが、まるでそういうことを忘れたかのようにヒステリックに拒否反応をしてしまうというのが、日本社会の現実ではないか。

  昨年の暮れから今年にかけて、私の身内に、私がハンセン病療養所に入っていることが明らかになったことによって、結婚が破談になった事例がありました。これは、たまたま私の事例として申しあげるんですが、療養所に入っている3700人の家族も、同じ状況に今も置かれている。

  いまだに、公然とふるさとに帰ることが許されない。生まれた家に帰りたいという望郷の念がいっぱいあっても、帰ることを家族たちは許さない。墓参りに帰ることすら、許そうとしない、という厳しい現実がある。このような現実を、市民の方は、まだ十分ご承知じゃないと思う。


―― 「差別はあかん」といっていても、自分の利害関係がからんでくるところで、差別的な対応が出てくる。ハンセン病もそうですし、部落差別の問題も、実に長い歴史的な蓄積があって、それが、人びとに誤った差別観念をあたえている、という現実があると思うんです。

松岡 総論と各論というのは、まったくそのとおりだと思うんです。とくに、最近の社会のなかでは、総論賛成、しかし各論のところでは、きわめて差別的な現実が、今なお存在している。つまり、総論自身が、きわめて薄っぺらい意識として、今の日本の社会にあるということの証明だと思うんですね。

  今回のハンセン病元患者にたいする差別の現実を、どこまで社会が自覚しているのか、という各論の部分は、まだまだ明らかにされていない。

  年配の方がたは、ハンセン病に関するマイナス意識を受け継ぎ育ってきた世代ですから、きわめて古い差別意識をもっていると思う。また、逆に、若い人たちは、無関心で実態を知らない。

  国賠訴訟で国が負けたということは、今までの国の政策、施策が間違っていた、ということが前提なんです。それによって、生み出されてきた実態にまで責任があるということです。100年近くの歴史のなかで積みあげてきた差別の実態、現実、そしてそれが生み出したものを認識することが、まず大切だと思うんです。その上で、差別によって奪われたものを取り戻す施策を確立するために、どう国は責任を負うのか、ということが前提でなければならない、と思うんです。

  そして、積み重ねられてきた市民の差別意識、社会に存在している差別や偏見をどう取り除いていくのかという方針を、国は同時に打ち出すべきだと思うんですね。

  ひと言でいうならば、ハンセン病元患者の人たちが、苦しんでいるのは、病で苦しんでいるのではなくて、むしろ差別とか偏見に苦しんでいる。それによって、苦しめられているという現実を、国はどう理解するのか、それにどう責任を取るのかということだと思う。どのようにして偏見が生まれ、今なお存在しているのか、という原因を明らかにすることだと思います。

  その原因を明らかにする鍵は、元患者の人たちや家族の人たちの実態、現実、思いというものを、しっかりと、一つひとつ検証する努力です。国はこのことをしなければならないと思います。国が基本計画をつくるべきだと思います。

ハンセン病の偏見とか差別とかを考えるにあたって、まず国の責任がしっかり問われなければならない。

  裁判をマスメディアが大大的に報道することによって、まだまだ未解決なこととしてハンセン病問題が残っていたのか、ということを市民は知ることになった。そして、ひじょうに衝撃を受けた。市民の知らないところで国は差別的な政策をおこなってきたという憤りとなって、メール、電話、電報などいろんなかたちで国民の意思が首相官邸へ結集した。首相官邸を取り巻く座り込みの人たちは、半分以上、市民が占めていた。市民が立ち上がってくれたことが、国をして控訴断念に追い込んでいくことができたと思うんです。

  市民が「間違いは間違い」と発言することが、日本の社会を変え、国の政治を変え、政策を変え、そういうことにつながっていった具体的な例じゃないか、と私は痛感しました。

松岡 私たちは、今、「人権侵害救済法」の制定を求めています。人権という以上、人間が人間としてもっている平等の権利を保障する社会をつくらなくてはならない。その平等の権利が、たとえば、ハンセン病元患者ということで差別を受けている、権利を侵害されている、あるいは部落差別によって、あるいは障害者ゆえに、あるいは女性ゆえに、あるいは子どもゆえに、差別され権利を奪われているという、それぞれの具体的な現実を明らかにしなくてはならないと思うんですね。

  「人権侵害救済法」を制定するときには、人権侵害の侵害内容を具体的に誰が、どのように判定するのか、という議論が必ず起きます。そのときに、たとえば今回の黒川温泉での宿泊拒否問題が、人権侵害にあたるのかどうか、という基本的な議論、すなわち、ハンセン病元患者あるいは家族の人たちへの差別、偏見を認識することから始まっていく、と思うんです。

  国は、これまで90年以上におよぶ歴史のなかで積みあげてきた、ハンセン病にたいする差別や偏見の解決のために、施策、法律をつくるべきだと私は、ずっと思っています。

―― ハンセン病の元患者の方がたは、ハンセン病によってではなく隔離政策によって、人間として、いろんな可能性を奪われてきた。しかし、そうした政策を出した政府を支えつづけたのは、市民なんですね。

そういう意味で、全療協の運動をみてみるときに、私たちが自己批判をしなければならないのは、政府にたいしては正当な要求として私どもは何十年にわたって訴えてきたけれども、政府を支えている市民にたいして問題提起をしなかった。赤裸裸にこういう問題があなた方の目に見えないところで、国の手によって政策としておこなわれているんですよ、ということを訴え、支持を得る運動がおろそかになっていた、という点です。運動というのは、一般市民の理解と認識を得て、その支援を背景にしなければ、成功しないと改めて感じました。

  判決以後、ハンセン病問題の啓発という観点からみてみると、おざなりの啓発活動にしかすぎなかった。

  現実に政府に反省を求め、動かしていくためには、過去にどういうことがあったか、その責任はどこにあったかということを、歴史を検証するなかから、真相を徹底的に究明すること。具体的な中身が明らかになったら、すべて国民の前に情報として開示をする。そして、国民と政府が、今後はどうとりくまなければならないかを明らかにしなくてはならない。そのことが過ちを絶対繰り返さないために必要なんです。

  そういう意味で、今、検証会議の一員として、がんばっております。近く、答申が出てきます。検証した結果が文書になり、つまびらかになって、市民の前に情報として開示されようとしています。それを大きな転機として、国会でも、もう一度、反省を促さなくてはならないと思うんですよ。


―― そのあたりの闘いは部落解放運動と似ていると思います。

松岡 似ています。まったく、そのとおりですね。国会の責任というのが、まったく問われていない。議論になっていないというのは、大きな問題ですね。法律をつくったのは、まぎれもなく国会ですから。

そうです。

  それと、法律の専門家たる立場にある人たちが、「らい予防法」を忘れていた、知らなかった。これも、私どもにとっては、大きな衝撃的な実態だったですね。

  大学で、法律を教えている大学教授すら、「こんな『らい予防法』があるとは知らなかった。恥ずかしいけど、それは事実なんだ」と。ある会議のなかで、私は直接聞いたことがあるんです。法曹界の人たちをして、「らい予防法」の存在は忘れられていた。知らなかった。ということなんですよ。そこに、問題の解決を遅らせた大きな原因の一つがあると思いますね。

松岡 神さんがおっしゃったように、黒川温泉での宿泊拒否問題は氷山の一角で、その問題だけにとどめてはならない。これを契機に、本質のところまで迫る問題として位置づけなければならないというのは、まったくそのとおりですね。

東京にアイスターという本社があるんですが、自分たちは加害者であったのに、いつの間にか「旅館営業を停止しなくてはならない」と公言して、世間の同情を集めて、加害者であった者が被害者であるような顔をしている。問題のすり替えというところを、きっちりみておかなければ、判断をまた誤ることになるんじゃないでしょうかね。

松岡 そのことを、曖昧にすると、差別をそのまま残してしまう。

差別温存につながりますよ。

松岡 そのとおりです。

―― 宿泊拒否問題では、恵楓園に差別手紙・メールなどが数多くきたんですが、そのなかに「糾弾と同じだ」というものがきている。

松岡 「糾弾」というのは、「解放同盟の糾弾と同じだ」ということですね。

―― それから、「金目当てで、やっているのか」とかね。ほんとに、人びとの心の底にある差別意識がでてきている。

松岡 1871年に「解放令」が出て、穢多、非人身分などの者を四民平等、平民としたわけですが、実際は何ら手だては打たれなかったために、それまでつくられてたきた差別が、ずーっと社会の中に定着していった。1922年に、水平社が生まれるまで、具体的な施策はなかった。差別を受けているわれわれが立ち上がって、「差別をするな」という運動が始まって、今年で83年目なんです。

  水平社は、当初は差別にたいする糾弾、差別をするな、なぜ差別をするのか、そのまちがいを糺す、そして相手の反省を求める、そしてそれで終わる、というスタイルだった。事件が起きれば、そのたびに当事者と話し合いをした。相手が意図的な差別をし、居直る場合などは、壮絶な抗議行動になります。そういったことが、差別をみないで、糾弾行動という一面だけをとらえて、誤った糾弾のとらえ方が一部にあったことは事実です。

  しかし、国の施策ができてからは、それをどう具体化していくかという闘いに、ウエートが変っていくんです。したがって、糾弾のあり方も変っていきます。

  「糾弾みたいだ」という批判は、部落差別意識のうらがえしであることをうかがわせます。そういう言葉を使うことで、みなさん方のとりくみを押さえこむ役割として使われていくんではないか、という危惧をもっているんです。

恵楓園の入所者への中傷、誹謗の手紙を、たくさん見せられて、ただただショックを受けて、驚きの一語に尽きるんです。そのときに、私が思ったのは、「ハンセン病療養所に隔離されているのは、当たり前と言えば当たり前で、気の毒なこっちゃ」というふうに市民はみている。黙って、おとなしくしている間は、同情をもって、市民はそれを眺めているけれど、いったん自己主張し、権利を主張し、人間の尊厳にまで言及して運動というかたちになったときに、社会から拒否反応が出てくる、ということです。

  部落解放運動と似たようなところがあるんじゃないでしょうかね?

  だから、ハンセン病問題も、そこのところにも、深くメスを入れなければ、と思うんです。これはひじょうに根が深い。日本社会の中の大きな病根ですよ。社会は病んでいる、と思いましたね。


―― 差別投書を見て、びっくりしたのは、東京でとくに集中的に出ているんですが、連続差別ハガキ事件の犯人が、東京都連の仲間、滋賀県連委員長の名前を使って、誹謗、中傷する手紙を送りつけているんです。

松岡 去年から差別手紙、ハガキが、ずっとつづいているんです。頼んでもいないのにいろんな所から物が届いたり、というようなことまで犯人はしている。

  ついに、東京都連の人が、被害届をだすということになった。それで、昨年末に報告集会を東京でひらいた。マスコミなどでも取り上げた。それを見たのか、犯人から手紙がきた。「こんなに大きくなるとは思わなかった」と、だから「やめます」と。しかし、われわれは「そんなことで済まされる問題ではない」という見解を発表した。そうすると年明けには「えたのくせに、何をえらそうなことを言うている」と再開宣言をし、いまだにつづいている。

  こうした事件の根底には、今の日本社会のひずみというか、病んでいる実態があると思うんです。そのことを真剣に受けとめなくてはいけないと思うんです。ところが、行政とか国は、まったく動かないですね。

一つの地域、一つの団体の問題とみているから、そうなんですよ。日本社会全体の問題という認識がないから。いらだたしさを、私たちは感じます。国会で議論して当たり前の問題だと思いますよ。

松岡 私も、そう思いました。部落問題というのは部落の問題ではなくて、私たち社会の問題だ、国の問題だ、政治の問題だ、というふうに、なぜ位置づかないのか。そういうジレンマをずっと感じている。

  同和行政は同和問題解決のための行政であったはずなのに、同和地区の行政になってしまった。すべての市民、国民を対象にした行政になっていない。そういう意味では、ジレンマをずっと感じていました。

  今回、私が参議院に出る意味は、あるいは部落解放同盟が代表を出そうというのは、部落問題は部落の問題ではなくて社会の問題であり、それは国の責任であり、政治の課題でもあるというふうにしなかったらダメだ、という思いからです。われわれが声をあげよう、ということです。それは、まさに政治と市民とのつながりですね。

国を変え、社会を変えるのは、やはり市民なんですよ。

松岡 そうですね。

国がけしからん、行政がけしからん、立法がけしからん、ということは、たやすいけれど、そういうものをつくり、許しているのは、市民、国民なんですよ。だから、これは国家の責任であるけれど、あるいは行政の責任であるけれど、まず、その前にみずからの責任を問うということが、原点でなくっちゃいかん、と思いますね。

松岡 そう思いますね。


―― 部落解放同盟に誹謗、中傷する手紙を書いている人物が、実はハンセン病元患者の人たちにも同じような差別手紙を書いているんです。部落とハンセン病というのは、ケガレ観、ケガレ意識を根底にもち、排除される構造ということで共通点をもっていると思うんです。

  じつは、1916年に、「特殊部落調査」というのがありました。それに「附」として「癩村調査」が、付いているんです。この問題について、神さんは、どう考えられますか。

私は不勉強で、そういう点から問題意識をもったことはないんだけども。やっぱり、基本的、本質的に同根、根は同じなんですね。部落の問題も、ハンセン病の問題も。光田健輔という、かつてのハンセン病療養所の所長が、ハンセン病患者の実態の調査をするときに、あわせて部落出身者もいっしょに調査した形跡が資料のなかから読み取れるものを、最近、知ったんだけども。これは歴史を検証するなかで、ひじょうに重要な、一時代を象徴的にあらわした行政のなかで、具体的にとりあげられた資料としてあるようです。私が聞いたのは遅かったけれど、今、すすんでいる検証会議のなかで、どういう歴史的経過によって、こういうことがおこなわれてきたかを検証するだけの意味のある資料があると知って、ひじょうな衝撃を受けましたね。

  もう、検証会議の作業は大詰めを迎えて、報告書を書いている段階なので、どうなるかわかりませんが。何かこれはやり過ごしていい問題ではない、と思います。

―― 現物を見てください。

はい。こういうものは、誰も見たことがないと思うんですよ。

松岡 そうですね。

これは歴史を検証するにあたって、落としてはいけない一つの動きじゃないか、と私は今、認識しているんですけどね。

松岡 差別をみるときには差別の悲惨なできごとを、そこだけで終わらせてはいけない。それは、氷山の一角であり、しっかりとみなくてはならないと思うんです。

  光田健輔はじめ3人の所長は、隔離政策をずっと推進し強調した人間ですね。

国会証言をした人が、3人いるんですよ。

松岡 ハンセン病の人たちへの隔離政策を求めてきた人ですけれど、それを後押しするのに、部落差別が使われたんではないか、という側面が考えられると思うんです。

  それは、ハンセン病の原因、あるいはハンセン病とは、どんな病気なのかということの社会の誤った認識が原点に存在するんです。そのことへの対応策として、隔離政策がとられるんですね。これを、推進したのが光田健輔だと思うんです。

そうです。

松岡 当時の部落の実態は悲惨で、伝染病が蔓延する地域でした。一方で、ハンセン病は遺伝するとか、たちまちに伝染するとか、というような誤った認識がずっと広まっていました。あるいは、遺伝ということからすると、身近な者同士の結婚が多かった部落を集中的に調査したのかもしれない。

―― それにしても、ただちに調査に答えていますね、全国的に。

松岡 ビックリしたんですけども、全国、みんな答えているんですね。調査を依頼したとたん、すぐに返事がくるんですね。

これは、検証に値する、しなければならない一つの事象としてとらえるべきでしょうね。

松岡 そうですね。

そう思いますね。

―― 衛生思想にもとづく排除、隔離という面も、もちろん、ありますし。

そう、そう。

―― 治安対策の対象として、ハンセン病と部落が見られてきたことも、事実だと思うんです。優生思想という観念から、ハンセン病の患者も部落民も、要するに「劣等」だ、という。そういういろんなものがミックスされてなっていると思います。

  それぞれの立場から、こういう歴史を検証する作業が必要だと思います。

当初、国辱論というのがあった。日清、日露戦争に勝利して、これを機会に日本は文明国に仲間入りをするんだ、「それにあたってはハンセン病患者を野放しにしているじゃないか」と諸外国から批判をされたわけね。これは、欧米の先進国では、患者はほとんどもういなくなっていた時代で。日本には、たくさんいるということを、諸外国から指摘をされた。「これは、国の恥だ」というふうに、政治の中枢にあった人たちは思い始めた。目に見えないところに隔離すべし、というスタートは、そのあたりから始まったと思うんです。

  それをむりやり推進するために、ハンセン病への差別とか偏見を、作出、助長した。政治的に国がやった。必要以上に、誇大宣言をして、市民にたいして、これほど恐ろしい病気はないんだぞと宣伝して、目の前で厳しい消毒をして見せた。そして、恐怖感を植え込み、社会で暮らしていくことを排除していく、という動きにつながっていった。これは、しっかりと強調しておかなければならないことです。

  国が意図的にハンセン病の差別をつくりあげてしまった、ということは、大きな問題点なんです。

―― 政治、政策が、差別をつくりあげたということですね。

そう、そう、そうなんですよ。


―― それが、戦前、大きなピークを迎えるときには、たとえば『小島の春』という文芸作品をもとに映画ができるわけです。市民の善意で「無癩県運動」を推進するという側面もあったと思うんです。神さんがいわれましたが、そういう悪政を支えているのは、結局、市民だったという点は、ものすごく大事だと思うんです。

  ちょっと、話題は変わるのですが、神さん自身の個人史を話してください。

  松岡書記長は1951年生まれなんです。ちょうどその年に、神さんが香川県にある大島青松園に入られた。そこでの隔離された生活は、どういうものだったんですか。

私は北九州の生まれです。九州にも熊本、鹿児島に療養所があるのは、わかっていたんですが、あえて四国の療養所に入った。

  どういう病気か、はっきりわからなかった。大島青松園に専門医がいるので、そこへまず行きなさい、と福岡県の医者からすすめられた。実は、制度的に「らい予防法」は、療養所でしかハンセン病の治療はしない、という基本方針があったんです。だから、好むと好まざるとにかかわらず、ハンセン病の治療を受けようと思えば、療養所に行くしかなかった。そういう道が用意されていたんです。

  そこへいくと主治医が待っていて、「間違いなく、これはハンセン病」と宣告された。「ハンセン病ということがわかった以上、一歩もこの療養所から出てはならない」と、まず、そういわれた。

―― その時は何歳だったのですか。

高校に入ってまもない、17歳の多感な少年で、まだ将来への夢もいっぱいあったわけですが、すべて断念せざるを得ない状況に追い込まれて、療養所に入った。退学届けも出した。

  療養所の入所の手続きは、二つあった。一つは、本名は使わない方がよろしい。あなたが入っていることがわかれば、家族がたいへんな差別を受ける、被害者になってしまう、だから、偽名を使いなさい、今すぐ考えて登録しなさい、と。それから、あちこちの療養所でおこなわれていたことは、解剖承諾書に署名捺印をするということ。これは、ひじょうにショッキングな入所手続きであったわけです。

  全国の国立のハンセン病療養所には、どこへ行っても納骨堂がある。療養所とは、治療の場で治ったら出すという施設ではないんだということが、納骨堂を見て明らかになった。解剖承諾書に署名捺印を入所のときに求められるということは、「ここで、あなたは死ぬんですよ」と宣告されたも同じなんです。

―― 隔離ということで、生きる希望そのものが奪われてしまった。

療養所に入ったときは、1日も早く治って社会復帰したい、進学したい、という希望を、まだ捨てていなかった。入所と同時に、そういう手続きを体験させられて、これはもう人間そのものを抹殺されてしまった、と思った。だから、生きていく希望もなくして、死と向かい合う時間が2年ぐらい続きましたね。

  私は、ただ一心に病気を治したい一念で、一生懸命、治療をした。

  療養所は、どういう施設であるかを知りたいと思って、徹底的に調べたり、先輩に聞いたりしてわかったことは、国立の療養所といいながら、療養所を管理運営するための職員は、最低限度の人数しか配置してなくて、足りないところは、すべて軽症患者の労力に依存して運営されているんだということです。

  職員が、相愛互助という思想を、全入所者に植え付けた。「あなたは療養所の管理運営をするために手伝いをしてもらわなくてはならないよ。入所者のみなさんが、そのことによって幸せになるんだから、あんたは働いてもらわないといかんよ」と、相愛互助精神というのは、そういうふうに宣伝された。だから、自分で自分のことができない人たちも、たくさんいて、その人の付き添い看護とか、食事の配食だとか、屎尿のくみ取りだとか、清掃だとか、亡くなった同僚の火葬も、軽症患者にやらせた。これは、療養所施設でもなんでもない、刑務所に近い収容所なんだ、と認識させられました。


―― どういう契機で運動を始められたのですか。

国の施設というけれど、患者は人間扱いされていない。軽症患者の労力を強制的に利用しながら、療養所が収容所的に運営されている。これは、何とかしなければ、何のために自分が生まれてきたのかわからない、と考え始めて組織活動に加わっていった。

  1951年に、療養所に入って、1953年から、そういう組織活動に自分を置くようになった。そして、一生懸命、自治会役員として、組織活動をしているときに、10年目ぐらいだったけども、主治医によばれた。「あなたの病気はもう治りました。あなたが念願していた社会復帰をしたいという気持ちがあるのであれば、らい予防法があるので公式には認められないけれども、社会復帰をしたいと思っているのであれば、それを黙認してもいいですよ」といわれた。

  入所したときには、1日も早く治療を受けて、治って外に出たいという一心だったけれど、10年間療養所で暮らしていき、組織活動をしているうちに人生観も価値観も変ってしまった。「ありがとう。それじゃ、そうします」とは、いえなかった。自分だけが社会復帰をして、自分さえ幸せになれば、人間として幸福なのかと考えるようになっていた。多くの仲間たちに後ろ足で砂をかけるようにして、療養所から出ることが自分の生き方として正しいのかどうか、そういうふうに私は考えた。

  そこで、「私は、社会復帰をしない。私は、この療養所の中の実態を、何とか自分たちの運動によって改善したいという強い悲願をもっているので、自分の人生、どこまで生きられるかわからないけれども、この運動に人生をかけたい」というふうに主治医にいった。

  それから、40数年間、同じことをつづけて、まだやっています。今年、70歳になりますが、今にして思うのは、入所して10年目に「社会復帰をしてよろしい」といわれたのを、断ってこの運動に生涯をかけようと決断をした、そのことに一つも悔いを感じたことはない。正しい選択だったと私は思っているから。

  70歳になっても、まだやれるだけやらなければ、本当の意味での人間回復は、まだできていない。市民権は得られていない、という認識は、ちっとも変っていませんので。文字通り、人生をかけて、これまで生きてきたと思います。

松岡 いやもう……(拍手)。

ショックだったね。松岡書記長が1951年生まれだと知って。(笑)

松岡 私も、逆の意味で、ショックで。そこから神さんの苦闘が始まっているということを知って。

今、私は、こういう立場で、月に半分以上、外に出ています。会議とか講演活動とか。社会復帰しているのとかわらん、という実感をもっていますね。

  運動の先頭に立って、旗を振っているでしょ。事務局長としての日常活動のなかで、きょうも、通勤者、サラリーマンのような錯覚を覚えながらね、長い時間、満員電車に揺られてきたんですよ。(笑)


―― 今の悪い政治を支えているのは、市民だということなんですけど。日本の国の憲法すら踏み出して、自衛隊を海外へ送ることが、公然とおこなわれるようになっています。そうした状況の下で差別・排外主義が横行しています。そういうなかで、被差別者が手を取り合ってともに闘う。あるいは、被差別者だけでなく、差別に反対する人たちが、手を取り合って、反差別共同闘争ということで、大きく運動を盛り上げ、市民一人ひとりを変え、政治を変え、国家を変えていくことは、大事だと思うんです。

松岡 「イラク国民を助けに行くんだ」という美名の下に、イラクへの派兵が強行され、殺害や侵略という行為がされていくというのは、きわめて危険だと思っています。

  私は、差別をなくしていくことが一番大事なことだと思う。戦争は最大の人権侵害だと、ずっと思っています。

  国内で差別が強化され、偏見が強化されていくことは、危険な社会になりつつあるということです。差別をされる側も不幸であるが、差別をする側も不幸だ。そんな社会になっては、ならないと思いますね。ですから、市民の立ち上がり、市民の力に依拠したとりくみが基本的には大事だと、ずっとそう思ってきました。そういう考え方で、私も、部落解放運動をすすめていこうとしています。

  私自身、小学校、中学校まで部落のなかで育ってきました。そこでは部落差別はないんですね。出たときに、差別を受ける。18歳の時、高校を卒業して就職試験を受けた時に、たいへん露骨な差別を受けました。それで、就職できなかった。それが、私が部落解放運動をするきっかけになったんです。

  自分の子どもにも同じ思いがあったことを経験しました。私の上の息子は、29歳です。彼が結婚するときに、彼自身の悩みを聞いたんです。自分の彼女に、自分の出身を告白するときに、まず心配して。そして、彼女の親に結婚の承諾をもらいに行くときにも、たいへんな思いだった、と。

  子どもたちに、いまだにこういう思いをさせる社会を存在させているのはつらい。やはり、部落解放運動をつづけなければならない、という自覚と決意とを改めてもちました。

  きょうは、神さんのいろんな話を聞かせていただいて、たいへん参考になりました。共通する部分がたくさんありました。ほんとに、うれしかったです。

今、松岡さんのお話を聞いて、めざすものは同じだなと思いました。仲間意識を、ひじょうに感じています。立場は同じなんだ、という共通の認識をたえず意識しながら、これからもスクラムを組んでがんばっていかなきゃいかんな、と思いました。

  今、日本の政治を客観的に見てみるときに、憲法改正論議が公然と国会のなかでもされるようになってきた。ひじょうに危険な風潮が国会のなかでも出てきたな、と思う。このことに国民が無関心であっては、ならないと思うんですよ。

  ハンセン病政策の歴史を検証してみて思うときに、軍国主義時代には、戦力にも兵力にもならない人間、生産力にもならない人間は、人間と見なかったという風潮があった。また、そこへ逆戻りするんじゃないか、という危機意識をもっているんです。

  イラクに自衛隊の派兵をした。これに強力な歯止めをかける勢力というのは、国会のなかで少なかったように思うんです。これは、国会に席をおく議員の責任ではあるけれども、そういう人たちを選んだ国民の責任なんです。

  自分の生活安定のためだけに、一生懸命努力はするけれども、それを支えている社会とか政治とかいうものにたいして、少し視点が弱すぎるんじゃないか、というふうに思うんです。

  結局、そういう方向にすすんでいけばいくほど、私たち差別を受けている者たちは、ますますきびしい立場に追い込まれていくことは、歴史が証明していると思うんです。だから、そこのところに視点をあてて、私たちも含めた市民が、もう一度、私たちの将来と、日本の今の政治がどういう方向に動こうとしているか、を見極めた上で、棄権をしたりするんじゃなくて、しっかり選挙のときには意思表示をすべきだ。それが、国民の義務であり、権利でもあると思います。

―― きょうは、長時間、ありがとうございました。


(『解放新聞』第2164号(2004年4月5日)、第2165号(2004年4月12日)より)