大阪の市民運動「福祉運動・みどりの風」によって一冊の資料の存在が明らかにされた。資料の表題には「大正五年特殊部落調附癩村調」と書かれてあり、中には全国の被差別部落と癩村とされる集落の世帯、人口調査がまとめて綴られていた。この「特殊部落調附癩村調」には38府県におおよそ4285地区、104576戸、585270人という数字が当時の部落の実体として報告され、「癩村」については9県におおよそ240地区、17800戸、患者数524人という数字が報告されていた。この調査は当時ハンセン病療養所「第1区全生病院」の光田健輔院長が各道府県に依頼したものである。
前後の状況について詳しく述べると、光田はまず1916(大正5)年5月11日付(全発第384号)の文書で各道府県あてに「私宅療養癩患者調」を依頼、翌5月12日付(全発第385号)文書で「特種部落竝ニ癩村調」を依頼している(いずれの名称も回答文書からの推測)。ここから、「私宅療養癩患者調」と「特種部落竝ニ癩村調」は一対の調査であることが推測される。ちなみに「私宅療養癩患者調」には45県におおよそ10347人の患者数が報告されていた。
調査を依頼した日から各府県の回答送付日までの期間から考えると、各府県にはすでに「特殊部落」や「癩患者」についてのデータを保有していたと考えられ、そのうちのいくつかの府県では1911(明治44)年に内務省が実施した「細民調査」のデータが基礎になっていると思われる。また、各府県の回答者名は「○○県」という府県もあれば「△△県警察部」名で回答しているところもあり、ここからは「部落」や「癩患者」が治安の対象に置かれていたことが窺える。さらに、回答書には「特種部落」という記述以外に「旧称穢多」「旧穢多」「穢多部落」や「特殊部落」「細民部落」と表記されたものもあり、府県によって若干異なっていた。
調査を依頼した全生病院の光田健輔とは、当時、財界の実力者渋沢栄一の知己を得、ハンセン病患者に対する強制隔離政策推進の先頭に立った人物であり、この時期(1915年)、全生病院を含めて全国に5つあった療養所の所長に入所者への懲戒検束権を与えることを強く要請し実現され、各療養所内に監房が設置されている。所長に入所者の生殺与奪の権限が与えられたのである。また、同じく1915年、光田は全生病院内で男性の患者に対して断種手術を開始、親から子への感染を防ぎ、「隔離」と「断種」を連動させての癩患者撲滅策を推進している。この断種の法的根拠はなく、内務省や司法省の黙認のもとで行われている。
この調査に対しては次のような疑問がある。ひとつは、1911年段階で内務省による「細民調査」によるデータがあったにもかかわらず、なぜハンセン病専門家の光田が「特殊部落」調査を必要としたのか?また、なぜ各府県は畑違いの地方の一病院長の依頼に回答したのか?さらに、「特殊部落調附癩村調」「私宅療養癩患者調」と一対で出された意図はどこにあるのか?、などである。
この件も含めて、松岡とおる・部落解放同盟中央書記長と神美知宏・全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長が対談したり(『解放新聞』第2164、2165号)、東京、奈良で真相究明のシンポジウムが開催されたりしている。引き続き
今後の部落解放同盟と全国ハンセン病療養所協議会の共同での真相究明やなお隠れている資料等の発掘などの取り組みに注目したい。
(松下龍仁)
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